第10話 聴取
食事会のあと、佐伯家は大使館を通じて、現地警察に出していた璃子の捜索願や、国際警察への手配書を取り下げた。
千智は理人と弁護士とともに、警察の任意事情聴取を受けた。
「事件当時について、何か覚えていることはありますか?」
担当警官は、調書を取りながら千智に質問した。
「何も。事件に関連した記憶はありません。」
「育ての親であった女性と、どのように知り合いましたか?」
「物心ついたころから、私の母親でした。」
「どのように暮らしていましたか?」
「アパートで、ふたりで。」
「監禁されたことは?」
「ありません。学校にも通い、普通の暮らしをしていました。」
「毎日、食事や入浴はしていましたか?」
「もちろんです。」
「女性が、不審な人物と連絡をとっていたことはありますか?」
「私の知る限り、ありません。」
「あなたに暴力をふるったことは?」
「一切ありません。私を大切にしてくれました。」
配慮のない質問もあったが、千智は冷静に答えるよう努力した。
聴収が終わると、理人は警察に、今後、犯人追求のための過度な聴収や、家族のプライバシーに踏み込む調査には協力しないと告げた。
カウンセラーに通うか問われ、何も思い出さないうちは必要ない、と千智は断った。
千智は理人と、大学について話し合った。
「騒ぎが落ち着くまで大学を休学して、来年度から復帰しなさい。せっかくS大学の経営学科にいるんだ。大学を変えるのも惜しいだろう。本当は留学でもさせてやりたいが…」
理人は、やっと帰ってきた娘を遠くにやりたくないのだと言った。
失踪後の経緯は明らかにならなかったが、理人は千智が璃子だと確信しているようだった。
「わかりました。しばらくは、佐伯家の一員としてふさわしい振る舞いができるよう、準備したいと思います。」
「そうしなさい。」
大学を休む間、千智は、佐伯璃子としての教養を学ぶことにした。
食事と会話の作法から、メイクや身なりの整え方、優雅な立ち居振る舞い、それに英会話も。
講師は玲子が紹介してくれた。
亡くなった母親の美由紀に代わり、叔母の玲子が気遣ってくれていることが分かり、千智は改めて、玲子に感謝した。
理人にアルバイトは辞めるよう促され、千智はアルバイト先に挨拶に行くことにした。
アルバイト先は、比較的自給のいい、ホテルの宴会給仕スタッフだった。
あまり気にしていなかったので知らなかったが、実は佐伯グループ系列のホテルだったようだ。
「人を送って伝えることもできるが。」
理人は言ったが、千智は首を振った。
「いいえ、自分で挨拶させてください。」
辞めるときは、直接挨拶することが礼儀だと思った。
それに、佐伯璃子ではなく、林千智のまま辞めたかった。
「私が璃子だったと、知られない方がいいと思います。」
「そうか。わかった。」
運転手の篠山にホテルまで送ってもらった千智は、スタッフ事務所に赴いた。
しばらく休んだうえ、突然辞めることを謝罪すると、マネージャーは嫌味を言った。
「あ、そう。林さんはコミュニケーション能力が低いし、プライドも高いしね。この仕事、続かないと思ってたよ。」
借りていた制服とスタッフカードを返却し、ロッカーに置いてあった仕事用の靴を持って職員通用口から外に出ると、マネージャーが煙草を吸っていた。
千智は軽く頭を下げて、立ち去ろうとした。
「おい、待てよ。」
マネージャーは千智を呼び止めると言った。
「新しいバイト先はどこ?」
「言いません。失礼します。」
「お金がなくて苦労してるんでしょ。」
「マネージャーには関係ありません。」
「なんだよ。心配してやってるのに、いつもお高くとまりやがって。」
マネージャーは千智の腕を掴んだ。
突然腕を引かれて、千智はよろけた。
「どうせ、ろくなバイト先じゃないんだろ。行ってやるから言えよ。」
通用口近くに車を止めて、千智を待っていた運転手の篠山は、千智とマネージャーが揉めていることに気がついた。
篠山は慌てて車を出ると、マネージャーと千智の間に割って入った。
「何をしているんですか!」
「なんだ?お前。」
マネージャーは篠山を突き飛ばした。
痩せ型で60代にさしかかっている篠山は、倒れて尻もちをついた。
「篠山さん!」
篠山を心配する千智に、マネージャーは嘲るように言った。
「知り合いか?新しいパパか!前よりずいぶんいい服を着てるもんな。」
「何て無礼な!」
篠山は反論しようとしたが、千智は止めた。
「これ以上何かするなら、警察を呼びます。」
マネージャーは舌打ちをし、咥えていた煙草を地面に捨てて火を消すと、通用口から事務所に戻っていった。
篠山は腰を強く打っており、医者からしばらく安静を言い渡された。
篠山からの報告で、この一件は理人の耳に入ることになった。
話を聞いた理人は激怒した。
玲子の夫であり、佐伯ホテルグループ社長の
「マネージャーの男ですが、別のホテルでもアルバイトの女性ともめて、今のホテルに転属になったようです。」
泰司は理人に報告書を手渡しながら伝えた。
「客相手の対応はよく、仕事はできる人間だったようです。上司の評価も高い。しかし、現場スタッフから、バックヤードでの素行の悪さや、威圧的な態度、胸倉をつかむなどの暴力的な行為が、度々報告されています。」
こういう男は、上司にへりくだるのが上手い。
自分より立場が弱い人間にだけ、態度を変えていたのだろう。
「以前のホテルでは、アルバイトの女性側に問題があったことになり、処罰は受けていません。が、男の方が黒でしょうね。」
以前のホテルで、マネージャーともめてアルバイトを辞めたという女性も、なかなかの美人だった。
「まったく、ふざけた人間を雇っていたものだな。」
「申し訳ありません。現場の末端までは、目が届きづらく…対策を講じます。」
「そうしてくれ。」
泰司は既に、マネージャーの男をクビにしていた。
理人が通達を徹底させたため、この男は今後、佐伯グループが影響力を持つ、あらゆる会社や機関に、就職することはできないだろう。
“今までも、こんなことがあったのだろうか?”
理人は、娘の姿を思い返した。
千智はこの一件について、自分からは何も話さなかった。
理人から問われると、動揺することもなく、淡々といきさつを話した。
その姿は、怒りも悲しみも通り過ぎて、諦めているように見えた。
“私の娘に、無礼を働くことは許さない。”
理人は今後、璃子に手出しするものがいなくなるよう、周知を徹底することにした。
「3週間後、璃子の20歳の誕生日に祝賀会を開いて、各方面に璃子を紹介する。玲子とふたりで、準備にあたってくれ。玲子にも、私から伝える。」
理人は招待客をリストアップし、祝賀会の準備を指示した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます