第12話 採寸
千智はマンションのリビングを、ぐるぐると歩き回っていた。
“どうしよう、会いたくないな。ああ、会いたくない!”
昨日、父親の理人から、今日の午後、いとこの玲司が千智を迎えにくると知らされたのだ。
“正直、君が本物かどうかに興味はないよ。佐伯璃子として、役に立ってくれればね。”
あの日、玲司は千智に言った。
玲司は千智が璃子かどうか、疑っているようだった。
不用意に触れてくる距離感や、目が笑っていない笑顔、威圧的な態度は、千智を無理矢理カラオケに連れこみ、複数人で乱暴しようとした男子高校生を思い出させた。
会食の日の一件で、千智はすっかり玲司に苦手意識を持っていた。
玲司には、できる限り会いたくない。
「どうして、玲司さんが?」
動揺する千智に、理人は答えた。
「玲司は私の秘書をしている。聞いていなかったか?」
玲司は佐伯ホールディングス会長である理人の秘書兼見習いとして働いている。
理人の使いで、娘である璃子を訪れてもおかしくはなかった。
「誕生日プレゼントとして、ドレスを贈りたいんだ。採寸を受けてほしい。」
まさか、玲司が測るのかと千智は慌てたが、ドレスを作るサロンに同行するだけだと言われた。
♪~
来訪を知らせるチャイムが鳴り、インターフォンのモニターに笑顔で手を振る玲司が映った。
“う、出たくない。”
千智が沈黙していると、モニターの中の玲司は首をかしげて立ち去った。
“あれ、帰ったのかな?”
しばらくしてもチャイムが鳴ることはなく、ほっとした千智は、とりあえずお茶でも淹れようとキッチンに立った。
ガチャリ。
次の瞬間、突然玄関のドアが開く音がし、ふたり分の足音がリビングに入ってきた。
「あ、なんだ。居留守だったのか。」
玲司は、キッチンで棒立ちする千智を見て、ため息をついた。
玲司の隣には、マンションの管理人であるコンシェルジュが立っている。
エントランスのレセプションで、千智に、“いってらっしゃいませ”と“おかえりなさいませ”を言ってくれる人だ。
「返事がないから、中で倒れてないか、焦っただろ。」
玲司がコンシェルジュにお礼を言うと、コンシェルジュは、とんでもございません、と返事をし、部屋を出て行った。
「な、なんで玲司さんを簡単に部屋に入れちゃうんですか?セキュリティはどうなってるんですか?」
千智は後ずさった。
「人を不審者みたいに言うな。佐伯の不動産なんだから、俺は顔パスで当然だろ。第一、この部屋に前住んでたのは俺なんだよ。」
“えー、玲司さんが住んでた部屋なの?なんか嫌だな。”
千智が沈黙していると、玲司は腕組みをして言った。
「何か失礼なこと考えてるだろ。」
玲司の運転する車に乗せられ、千智はドレスサロンに連れていかれた。
「お世話になります。会長秘書の
玲司は丁寧に挨拶をした。
「佐伯会長が娘さんに贈るドレスの件で参りました。」
「お待ちしておりました。」
サロンのオーナー兼デザイナーの女性は椿陽子と名乗り、千智をフィッティングルームに案内した。
玲司は待合室で待つようだ。
椿とアシスタントに全身を採寸されながら、千智は先ほど玲司が尾藤と名乗っていたことが気になった。
“本名は佐伯だよね?なんでだろう?”
「華奢でいらっしゃいますね。あまり体重に変化はない方ですか?」
椿に声をかけられて、千智ははっとした。
「はい。最近は以前より食べていますが、あまり変化は感じません。」
璃子として暮らすようになってから、食事の内容は各段に豪華になった。
以前は生活費に余裕がなく、食費も切り詰めていたが、今は毎日3食きちんとした食事をしている。
椿はうなずいた。
「あまり体型の変化が大きいと、ドレスのラインを美しく調整することが難しくなります。痩せすぎないようにしてください。」
これから、千智のトルソーを作り、トルソーに合わせて仮縫いを行うということだった。
靴は木型を作るらしい。
自分の体型をした分身みたいなものが、アトリエに置かれているのを想像して、千智は少し笑った。
採寸が終わり、服を着てフィッティングルームを出ると、玲司は椿と打ち合わせしていた。
真剣な横顔だ。
千智が出てきたことに気がつくと、玲司は手招きをした。
「どうぞ。」
千智が打合せテーブルに近づくと、玲司は自然なしぐさで椅子を引いてくれた。
座ると、ショールを手渡され、千智は驚いた。
下着姿で採寸をしていたため、痩せていて寒がりの千智は少し冷えていた。
玲司は千智の様子に気づいたのだろうか。
部屋に入ってきたアシスタントが、千智の手前にコーヒーを置くと、玲司が言った。
「せっかく淹れて頂いて申し訳ありませんが、璃子さんには、温かい紅茶をお願いできないでしょうか。」
アシスタントは、もちろんです、と言ってコーヒーを下げた。
玲司と椿はコーヒーを飲んでいるようだったが、千智はコーヒーが苦手だった。
玲司はなせ知っているのだろう。
「フィッティングの日を決めたいので、予定の確認をお願いします。」
椿と相談し、千智はフィッティングの日を決めた。
フィッティングでは、仮縫いをしたドレスを着て、細かな調整を行うということだった。
玲司は理人から預かった要望を、丁寧に椿に伝えた。
千智はアシスタントが出してくれた紅茶を飲みながら、ふたりの打合せが終わるのを待った。
帰りの車の中で、千智は気になっていたことを玲司にたずねた。
「玲司さん、さっき、尾藤って…」
「ああ、父親の旧姓だよ。佐伯を使っていると、親族なのがバレバレで、秘書として働きにくいから。まぁ、わかる人にはわかるだろうけど。」
玲司は普段から尾藤を名乗っていた。
佐伯財閥の一員とはいえ、自分はまだ若い。
佐伯の威をかり、過度に祭り上げられて、傲慢で世間知らずの人間にはなりたくなかった。
会食の日に抱いた印象と異なり、細かな気遣いを見せる玲司を知り、千智は意外に感じていた。
「打合せのとき、紅茶を頼んで頂いて、ありがとうございました。」
玲司が頼んでくれなければ、出された手前、千智は無理をしてコーヒーを飲んでいただろう。
「どうして、私がコーヒーを苦手だって、分かったんですか?」
千智は佐伯家の誰にも、コーヒーが苦手だと、明かしたことは無かった。
「会食の日、食後の飲み物を聞かれて、紅茶を頼んでただろ?それぐらい、覚えてるよ。」
玲司はハンドルを切ってコーナーを曲がり、しばらく無言で走った。
千智はバックミラー越しに、玲司を盗み見ながら考えた。
コンシェルジュにも、アトリエのオーナーにも、玲司は丁寧に接していた。
千智が居留守を使ったときも、怒るより、心配してくれたようだった。
もしかしたら、そんなに怖い人ではないかもしれない。
「…悪かったよ。疑って。」
突然、玲司はぶっきらぼうに言った。
「いえ、こちらこそ、居留守を使って、ごめんなさい。」
千智が謝ると、玲司はからかうように言った。
「会食の日さ、璃子ちゃん、ずっと作り笑顔をはりつけてて、なんか胡散臭かったんだよね。」
「玲司さんて、意地悪ですよね。」
「でも今は、璃子ちゃんだって思うよ。俺に居留守使う人間なんて、璃子ちゃんぐらいだよね。」
玲司はそう言って笑った。
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