第13話 アトリエ
週末、千智は弟の瑠偉に招かれて、佐伯家の邸宅を訪れた。
瑠偉から突然連絡があったときは驚いた。
この場所に足を踏み入れるのは会食の日以来だ。
執事の小山に案内されて、長い廊下を進む。
廊下の突き当りには、大きな抽象画が飾られていた。
小山は、左側奥のアトリエで瑠偉が待っている、と言って下がった。
吸い寄せられるように、千智は抽象画を見つめた。
華やかで美しいのに、なんだか悲しく見える絵だ。
アトリエに続く廊下の壁には、等間隔に絵が掛けられており、足元の窓からさし込む自然光の反射で、やわらかく照らされていた。
千智は絵を眺めながら進んだ。絵はどれも、風景画だった。
春の絵の次に、夏の絵、秋の絵、冬の絵と続いて、また春の絵に戻る。
繰り返す季節が、順に並べてあった。
進むにつれ、絵の描写はどんどん詳細な季節を描くようになっていった。
暖かくなりはじめたころの春の日の息吹や、そよぐ春風。
5月のころの穏やかな光。
梅雨の頃の湿気。
晴れわたる夏の濃厚な影。
夏の終わりのひんやりとした朝。
寂寞とした秋の午後。
冬の透き通った光と凍える空気。
移り行く季節が、ときに繊細に、ときに大胆な筆使いで描きだされていた。
突き当りの右側には大きな両開き扉があり、片方が開かれていた。
奥を覗くと、絵筆を握る横顔が見えた。
瑠偉だ。
千智はアトリエに足を踏み入れた。
正面には天窓までつづく大きな窓があり、その向こうに素晴らしい庭が広がっていた。
“印象派の絵画みたい”
千智は廊下に掛かっていた沢山の絵が、全てその庭を描いたものであることに気が付いた。
千智が入ってきたことに気づいた瑠偉は、筆を置くと、手招きをした。
千智は近づいて、瑠偉が描いていた絵を見た。
穏やかな午後の光の中、うっすらと紅葉をはじめた庭の温かい景色が、写し取られていた。
“素敵。暖かくて、優しい感じがする。でも、どこか切ない。”
千智は思った。
「もう少しで完成するから、少し待っていてもらえますか?」
そう言うと、瑠偉はアトリエの奥にある一人掛けのソファを指さした。
千智はソファに腰掛け、アトリエを見渡した。
入口側の棚には、絵の具や筆や、新しいキャンバスが、詰め込まれている。
左右の壁には、たくさんのスケッチが貼られ、描きかけの絵が立てかけられていた。
小山がやってきて、温かいお茶を置いてくれた。
北向きのせいか、アトリエは少しひんやりとしていた。
絵が完成すると、瑠偉はイーゼルから絵を持ち上げ、壁に立てかけた。
そして、座っていたスツールを千智の前に移動し、棚からスケッチブックを取り出して、開いたページを千智に見せた。
「それ、もしかして私?」
スケッチブックには、微笑む千智が描かれていた。
「はい。食事した日、廊下で話して、すぐに描き始めたんだけど、上手く描けなくて。」
あの日、瑠偉が千智をじっと見つめてから、振り向きもせずに行ってしまったのは、千智の絵を描こうと思ったから、らしい。
「なんだ、よかった。返事をしてもらえなかったから、嫌われたのかと。」
「すみません。描きたくなると、他のことが全然、頭に入ってこなくて。姉さんを、スケッチしてもいいですか?」
姉さんと呼ばれて嬉しくなり、千智は快諾した。
しかし、数分後、内心冷汗をかきながら後悔していた。
だって、すごく見られている。ものすごく見られている。
瑠偉は手も動かさず、千智の顔を見つめ続けた。
最初は気まずさをごまかすように、千智は目を合わせて微笑み返したりした。
それでも見つめ続ける瑠偉に、段々目が泳ぎはじめ、どうしていいかわからず、体をひねってそわそわしてしまう。
“スケッチを口実に、試されてる?それとも瑠偉くんが、不思議君なだけ…?”
千智の緊張が限界に達したころ、瑠偉がぽつりと言った。
「窓の方を見てください。」
「あ、はい。」
千智は言われたとおり、窓の外を見る。
「そのまま、動かないで。」
「はい。」
しばらくそのまま窓の外を見つめていると、庭を飛び交う野鳥が見えた。
千智が野鳥を観察していると、瑠偉がスケッチブックに鉛筆を走らせる音が聞こえはじめた。
静かなアトリエに響く鉛筆の音を聞きながら、ぼんやり野鳥を眺めていると、千智は急激に眠くなった。
ここのところ、気が休まることがなく、頭を使わず、静かな時間を過ごすのは久しぶりだった。
“寝ちゃだめだ。”
そう思いながらも、千智はまどろみの中に落ちて行った。
目を覚ますと、千智は車の後部座席に乗っているようだった。
ブランケットがかけられている。
“あれ?瑠偉くんとアトリエにいたはずじゃ?”
「お目覚めですか?」
運転席から、月島の声がした。
「え?月島さん?私、瑠偉くんのアトリエにいたはずじゃ…」
瑠偉は眠ってしまった千智をしばらくそのままスケッチしていたが、描き終わって起こそうとしても千智は起きなかった。
「姉さん、姉さんってば。」
最初は遠慮がちに肩をたたく程度だったが、全く目を覚まさないので、強くゆすってみた。
「ん…月島…さん…?」
千智は寝言を言ったが、起きなかった。
“月島?誰?”
瑠偉は考えたが思い当たらなかった。
困った瑠偉は執事の小山を呼んだ。
小山も困った顔をした。
冷えやすいアトリエに、このまま寝かせておくこともできないが、佐伯家の使用人は皆、高齢化しており、千智を運べるような若者がいなかった。
皆、腰が心配だった。
「月島って人、知っていますか?」
瑠偉が聞くと、小山は、はっとした顔をして言った。
「ああ、月島くんがいますね。そうだ、彼に連絡してみましょう。」
小山から連絡を受けた月島は、千智を迎えに行き、眠った千智を軽々抱き上げると、そのまま車に運んだ。
その様子を見て、瑠偉は思い当たった。
“あ、ネットで話題になっていた“
瑠偉は月島に挨拶すると言った。
「姉さんのこと、よろしくお願いします。ちょっと疲れていたみたいだし、寝言で、月島さんを呼んでいたので。」
月島は一瞬固まったが、笑顔で答えた。
「わかりました。」
経緯を聞いた千智は赤くなった。
寝てしまったことも、抱き上げて運ばれたらしいことも、それを小山や瑠偉に見られたことも、全部恥ずかしい。
それに、ちょっとだけ、よだれが垂れていたことも。
“絶対に見られた。月島さんに、不細工な寝顔を…”
「ご迷惑をおかけして、すみません。」
千智は小さくなって言った。
「いいえ、千智さんの顔色がよくて、安心しました。」
バックミラー越しの月島の微笑は、相変わらず美しい。
DNA鑑定書を受け取った日、月島と交わした会話を思い返して、千智は言った。
「あの…」
「はい。」
「これからは、璃子と呼んで頂いて、大丈夫です。」
「わかりました。璃子様。」
「“さま”と呼ばれるのは、ちょっと…」
「では、“璃子さん”とお呼びします。」
ふたりは笑い合った。
「心の準備が、できたんですね。」
「はい。」
千智は、バックミラー越しに月島にうなずいた。
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