第18話 名前

璃子の誕生日の2日前は、千智の育ての母である、美香の命日だった。


千智は美香の遺骨を納めるため、月島が探してくれた納骨堂を訪れた。


月島は、千智を気遣って、納骨堂に同行してくれた。


訪れた小さな納骨堂は、比較的都心に近く、海を臨む丘の上にあった。


「本当にありがとうございます。月島さん。」


美香の遺骨に一緒に手を合わせてくれた月島に、千智は深々と頭を下げた。


「落ち着いた場所に来られて、母もきっと心が休まると思います。」


月島はうなずきながら言った。


「命日には、また一緒に訪れましょう。」


美香の死を一緒に悼んでくれる月島に、千智は心から感謝した。






納骨を終え、外に出ると、午後の陽光を受けて、冬の海が輝いていた。


千智はしばらく海を眺めた。


月島は、佇む千智の隣に並んで言った。


「海がお好きでしたよね?」


「はい。」


千智は思い出をたどるように遠くを見た。


「…ちょうど3年前、母が亡くなったころ、一人で海に行ったんです。」


隣に立って、一緒に海を眺める月島に、千智は誰にもしたことのない話を打ち明けはじめた。


「どこでもいいから、遠くに行きたくなって。電車に乗り続けて、たどり着いたのが、海辺の街でした。」


風が千智の髪をなびかせ、表情を隠す。


「私、母が亡くなってからしばらく、泣けなかったんです。あまりにも突然、何もかもが真っ暗になって、心が麻痺したみたいに、何も感じられなくて。遠くの方でずっと、耳鳴りがしているみたいでした。」






たどり着いた灰色の海辺を歩きつづけ、歩き疲れた千智は、座り込んでうずくまった。


ずっとそうしていると、いつの間にか、夜になっていた。


身体はかじかんで、震えも止まり、千智の頭はぼんやりとしていた。


立ち上がろうとすると、よろけて転んだ。


“このままここに横たわっていれば、お母さんの元に行けるかな?”


そう思って目を閉じようとしたとき、誰かが千智を抱き上げた。


力強い腕に運ばれ、気が付くと、千智は毛布にくるまれ、病院のベッドに横たわっていた。


「気が付いた?」


看護師は千智の体温を確かめながら言った。


「あなた、低体温症になっていて、もう少しで危ないところだったのよ。」


朝には容態が回復し、婦人警官に保護されて、千智は家まで送ってもらえることになった。


病院を出発し、車の窓から海が見えたとき、千智は目を奪われた。


陽光を受けて青く輝く海、それがあまりに綺麗に見えて、それまで感じていなかった感情が、一気に押し寄せた。


“悲しい、苦しい、お母さん、会いたい、でも…”


「生きていて、よかった。」


千智は、美香が亡くなってから、初めて涙を流した。


運転していた婦人警官が、心配して車を止めても、千智は泣き続けた。






「海が輝いているのを見るたび、思い出すんです。生きていてよかったっていう、あの時の気持ちを。助けてくれた人に、感謝しています。」


千智は風になびく髪をかき上げ、月島を見て明るく笑った。






帰路につくため、車を発進させながら、月島は言った。


「寄りたい場所があるんです。」


月島がやってきたのは、納骨堂からほど近い場所にある、国営自然公園だった。


「少し歩きます。」


月島と並んで、紅葉した桜並木の道を歩く。


池には北から渡ってきたカモが泳いでいた。


ひんやりとした風が頬をなで、落ち葉の甘い香りがする。


千智は深呼吸した。穏やかな午後だった。


月島に案内されながら、目的地の丘の上に出ると、そこは、見渡す限り一面、黄色い花が咲き誇る花畑だった。


「すごい!綺麗ですね!」


そよ風に揺れる、可憐な花の群生は、青空の下、太陽の光を受けて輝いている。


空の青と花の黄色のコントラストが眩しく、まるで春の日のような温かな景色を作り出していた。


千智は花に駆け寄った。鮮やかな黄色の花芯を、淡いレモンイエローの薄い花びらが囲んでいる。


「可愛い花。」


「ウィンターコスモスです。」


月島は千智に花の名前を教えてくれた。


「タンポポではありませんが、この景色をお見せしたくて。」


タンポポと聞き、千智は玲司に言われたことを思い出した。


「すみません、贈り物とは思わず、難しいことを言ってしまいました。」


千智が謝ると、月島は慌てて否定した。


「いいえ、私が言葉足らずでした。祝賀会の会場装花に、璃子さんの好きな花を取り入れたくて、伺ったんです。素直な答えを知れてよかった。」


月島は言葉を区切ると、笑顔で言った。


「タンポポが好きだと聞いて、とても千智さんらしくて、素敵だと思いました。」


月島は、はっとして口をおさえた。


思わず千智と呼んでしまった。


「すみません、つい。」


千智は笑って首を振った。


「千智でも、璃子でも、大丈夫です。月島さんが、呼びやすい名前で呼んでください。」


千智は花畑を見渡すと、しみじみと言った。


「素敵…、この場所に連れてきて頂けて、本当に嬉しいです。ありがとうございます。」






「足元に気をつけてください。」


月島に手をとられながら、花畑が広がる丘を、千智はゆっくり散歩した。


平日のため、人影はまばらだった。


歩きながら、千智は月島に打ち明けた。


「実はさっき、“千智”と呼ばれて、少しだけ、ほっとしたんです。」


月島は少し考えて、千智に聞いた。


「璃子さんと呼ばれることが、プレッシャーですか?」


「いいえ。プレッシャーじゃないと言えば嘘になりますが、璃子と呼ばれることに、もう抵抗はありません。でも…」


千智は言葉を探した。


「上手く言えないですが、“千智”だった私が消えてしまうような気がして…」


盛大に開かれる誕生日パーティーは、佐伯璃子として生まれ変わるためのイニシエーションのようだ。


佐伯璃子を名乗ることで、美香とのつながりや、今までの人生、自分がなくなってしまうような気がする。


千智は、佐伯璃子として生きることで、大切な記憶ごと、自分を失っていくような気がしていた。


歩きながら、千智の言葉に耳を傾けていた月島は、立ち止まり、呟くように言った。


「That which we call a rose by any other name would smell as sweet.」


千智が振り向くと、月島は言った。


「シェイクスピアの戯曲、ロミオとジュリエットの有名な一節です。バラと呼ばれている花を、別の名前で呼んだとしても、美しい香りは変わらない。」


月島は、千智の瞳を真っすぐに見つめて微笑んだ。


「たとえ名前が変わっても、あなたは、あなたです。」


千智の不安を吹き飛ばすように、強い風が吹き抜けた。


散りかけの花の、黄色い花びらが風に舞う。


花畑を背に、たたずむ月島を見つめながら、千智は思った。


“ああ、この人は…”


月島はいつも、千智が必要としている言葉をくれる。


心をこめて、向き合ってくれる。千智に、勇気をくれる。


千智は自分を見つめる月島の瞳を見つめ返し、しっかりとうなずいた。






駐車場に戻るころには日が傾き、少し寒くなっていた。


「もう冬ですね。」


千智はコートの襟を重ね合わせた。


「そろそろ、ショールが必要ですね。」


そう言うと、月島は助手席のドアを開けてくれた。


いつも後部座席に促されていたので、千智は少し意外に思った。


千智が助手席のシートに座ると、月島は扉を閉め、トランクを開けて何かを取り出し、運転席に乗り込んだ。


「どうぞ。」


月島に手渡された包みには、リボンが掛けられていた。


「誕生日プレゼントです。」


千智は驚いて、口を覆った。


「ありがとうございます。」


月島に促されて包みを開けると、海のように鮮やかな青の、大判ショールが入っていた。


上品な光沢と質感は、きっとカシミアだ。


「素敵…」


「巻いてみてください。」


月島はショールを広げて、千智の首元に巻いてくれた。


ショールは軽く、とても滑らかだった。


「温かいです。」


千智は、17歳の冬の出来事を思い返した。


月島には言わなかったが、千智を助けてくれた人が、残していったものがある。


夫人警官に慰められ、泣き止んだ千智は、そのときはじめて、自分が見知らぬショールをしていることに気がついた。


婦人警官はショールを確かめて、カシミアの高級品だと言った。


千智は婦人警官にショールを預けようとしたが、婦人警官は受け取らなかった。


「きっと、助けてくれた人が、あなたに残してくれたのよ。いつか再会できたら、自分の手で返すといいわ。それまで、あなたが大切に預かっていないとね。」


再会の希望を持って、生きるといい。


そう、言ってくれたのだろう。


ショールは今も千智の手元にある。


顔も知らず、何の手掛かりもないけれど、いつか持ち主に会えたなら、感謝を伝えたい。

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