第17話 部屋

晩秋の時雨が降る午後、旺賢は自室の書斎でひとり、古い写真を眺めていた。


モノクロの写真には、若い女性と青年が映っている。


服装からして、女性は良家の令嬢、青年は書生のようだ。


椅子に座る女性を守るように、青年は寄り添って立っていた。


ふたりは見つめあって微笑んでおり、その表情からは、互いへの慈しみが感じられた。


部屋の扉をノックする音がし、旺賢は写真をデスクの引き出しにしまって返事をした。


ドアが開かれ、写真の女性と似た顔が現れた。


「おじい様、こんにちは。」


邸宅を訪れた千智は、執事の小山から、いつもは外出している旺賢が書斎にいると知らされた。


祖父に挨拶をするため、千智は部屋を訪れた。


扉の前に立つ千智を、旺賢は招き寄せた。


「こちらに来て、顔をよく見せてくれ。」


旺賢はデスクに座ったまま、しばらく千智の顔をじっと見つめた。


その瞳は深い色をしており、旺賢が何を考えているのかは読み取れない。


「座りなさい。少し話そう。」


ふたりは向かい合ってソファに座り、小山が用意したお茶を飲んだ。


生活に不便はないかなどを問いながら、しばらく話をしたのち、旺賢は言った。


「振る舞いを、ずいぶん身につけたようだ。」


旺賢と初めて会った日以来、千智はずっと令嬢としての立ち居振る舞いを学んでいた。


ぎこちなかった会食の日に比べて、表情も受け答えも、落ち着いていて品がある。


「おじい様にそう言っていただけて、嬉しいです。佐伯家の一員として恥ずかしくないよう、今後も精進します。」


旺賢はうなずくと、ふと、思い出したように言った。


「部屋はどうだ?」


旺賢は理人に乞われて、邸宅の中でも特に日当たりのよい南向きの一室を、璃子に与えるよう小山に伝えていた。


「今日は、その件で参りました。これからお部屋に伺います。」


「そうか。気に入らなければ、言いなさい。」


旺賢は千智に、部屋を見に行くよう促した。


千智は頭を下げて部屋をあとにした。






小山に案内され、千智はまず璃子の部屋を訪れた。


扉を開くと、そこには、見たこともないような素晴らしい子ども部屋が広がっていた。


“うわぁ、すごい!”


まるで童話の中に迷い込んだかのような部屋に、千智は感嘆した。


森を思わせる緑色の壁紙には、一面に動物や植物が描かれており、籠のような丸いベッドには、ピンク色の天蓋がかかっている。


花を思わせる形の照明が下がっており、白い窓枠の出窓から、やわらかな光が差し込んでいた。


千智は部屋をじっくり見て回った。


きちんと掃除をして管理してきたのだろう。


古びたものはなく、ベッドリネンは洗濯したばかりのようだ。


いつでも、帰ってきた主を迎えられるよう、部屋は整えられていた。


“何か、覚えているものは無いかな?”


白木の床に敷かれた毛足の長い絨毯の上には、愛嬌のある顔をした狐の木馬が置かれ、背の低い棚には、絵本やおもちゃが並べられている。


隅には精巧につくられた4階建てのドールハウスもあった。


眺めているだけで、心が躍るような部屋だ。


懐かしさはなく、新鮮な驚きが大きい。


たくさんのぬいぐるみ、クローゼットの中の衣服まで、ひとつひとつ確かめたが、覚えのあるものは見つけられなかった。


“こんなに素敵な部屋を、全部忘れてしまっているなんて。”


千智は残念なような、温かいような、不思議な気持ちで部屋を見渡した。


美しい部屋は幸せな幼少期と両親の愛を感じさせた。


“この部屋は、このままにしてもらうよう、お願いしよう。”


部屋は、他人が大切にしている思い出のように、千智には不可侵の領域に感じられた。


5歳の璃子の帰りを待ちわびて、部屋の時間は止まったままだ。


何も思い出せず、璃子としての時間を持たないままでは、止まった時を動かすことはできない。


千智は静かに部屋の扉を閉めた。






旺賢から与えられた部屋は、日当たりのよい2階の部屋だった。


専用のバスルームと、テラスまである。家具などはまだない。


広々とした部屋を見渡し、千智は考えた。


“どういう部屋が、璃子らしいんだろう。”


理人からは、璃子の好みに整えるといい、と言われた。


しかし、千智の好みは庶民的で、璃子らしいものを選ぶ自信がない。


璃子として住んでいるマンションのインテリアも、身に着けている衣服も、全て人が選んだものだった。


千智は部屋のテラスに出てみることにした。


時雨がやみ、外は晴れ間になっていた。


テラスからは、邸宅の庭が見えた。


英国様式の広々とした庭の一画にはバラ園があり、秋バラが咲く中を、散歩する人影が見えた。


祖母の冬子だ。






冬子は時雨の露が残るバラ園を、ひとり歩いていた。


花の時期も終わりに近づき、バラは少しずつ散り始めている。


バラ園は、冬子が愛してやまない、香り高いイングリッシュローズのコレクションになっていた。


雨に濡れたため、今は落ち着いているが、晴れた日は素晴らしい香りが漂う。


足を止めて佇んでいると、石畳を踏んで近づく足音がし、冬子は振り返った。


「こんにちは、おばあ様。」


傘を携えた孫娘が、微笑みながら近づいてきた。


「おじい様に頂いたお部屋のテラスから、お姿が見えたので参りました。」


会食の日、冬子はほとんど発言せず、静かに座っていた。


千智と目が合うと微笑んだが、会話はほとんどなかった。


祖母と少しでも仲を近づけたかった千智は、小山に傘を借り、バラ園を訪れたのだった。


冬子はテラスのある2階の部屋を見上げて言った。


「あの部屋ね。玲子が結婚するまで使っていた部屋よ。」


「そうだったんですね。お庭がよく見える、いいお部屋です。」


「玲子は、庭にあまり興味がないのよ。あなたはどう?」


「詳しくはありませんが、バラは綺麗だと思います。」


千智はバラに近づいて香りを吸い込んだ。


露をのせて輝く白いバラは、ほんのり甘く複雑で深い香りがした。


「とてもいい香りですね。私、このバラが好きです。」


幾重にも重なる花びらが、少しクリーム色に色づいた花の中心を、丸く包むように咲いている。


「美由紀さんもそのバラが好きだったわ。白いバラは特別に感じると言っていた。」


ふたりはしばらく一緒にバラ園を散歩した。


冬子は各々のバラについて、名前やコンテストでの受賞歴を説明した。


再び雲が空を覆い、雨が降りはじめると、千智が持ってきた傘をさし、ふたりは庭園をあとにした。






邸宅に戻り、冬子と千智がラウンジでお茶を飲んでいると、瑠偉が顔を出した。


「あら、早いわね。学校は?」


「今日からテスト期間です。姉さんが、来てるって聞いて。」


「お部屋を見に来たの。」


瑠偉を加えて、3人はしばらく話をした。


「そういえば、美由紀さんのところへはもう行ったのかしら?」


千智はまだ美由紀のお墓参りをしていなかった。


理人と瑠偉とともに訪れたいと思っていたが、ふたりには言い出せていなかった。


「ここからそんなに遠くないよ。今からふたりで行く?」


瑠偉は、理人と一緒に行けるのは、当分先だろうと言った。


千智は瑠偉とともに、お墓参りをすることにした。






佐伯家の墓所は、邸宅から30分ほど車を走らせた場所にあった。


広い芝生の丘には、木が一本植えられていた。


「これが、母さんの木。」


瑠偉は木の幹に手を置いて言った。


美由紀は樹木葬で、植えられた木は緑の葉が美しい、常緑ヤマボウシだった。


命日の頃には、葉を覆うように、たくさんの白い花を咲かせるという。


石碑には、名前とともに、“みなを愛し、愛された人”と刻まれていた。


広い丘には他に何もないようだ。


周りを見渡す千智に、瑠偉は言った。


「ここにいるのは、まだ母さんだけだよ。おじいちゃんが自分と家族のために買った場所だから。」


千智は美由紀の木にそっと手をあて、心の中で語りかけた。


“亡くなる前に、会いに来れなくて、ごめんなさい。”


生きていたなら、美由紀はきっと涙を流して、璃子の帰りを喜んだだろう。


写真でしか知らないが、璃子を見つめる美由紀の瞳は、いつだって愛情に溢れていた。


“みんな私に、あなたの姿を見ているようです。あなたが素敵な女性だったことを、色んな人から聞きました。お母さん、私はあなたのように、なれるでしょうか?”


ヤマボウシの木は風に吹かれて、静かに葉を揺らした。

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