第15話 両親
理人から昼食に誘われ、千智は佐伯グループホテルのレストランを訪れた。
レストランの個室に案内されると、理人は既にテーブルについていた。
食事会の日以降、法的な手続きなどのため、度々顔は合わせていたが、ふたりでゆっくり話をするのは2度目だ。
現れた千智を見て、理人は微笑んだ。
「日に日に、優雅になるな。」
令嬢としての作法を学び、千智はどんどん璃子らしくなっていた。
ハイヒールの靴で歩くことにも慣れ、今日は玲子に会った日、ホテルのサロンで月島が履かせてくれた、美しい青い靴を履いていた。
「懐かしいな。」
何のことかと問う千智に、理人は説明した。
「その靴だよ。結婚10年目を記念して、私が美由紀に贈ったものと、同じ靴だ。美由紀は靴が好きだったからね。よく似合っているよ。」
理人は千智を見つめた。
在りし日の美由紀を思い出しているのだろう。
「お母様とのこと、もっと聞きたいです。」
千智が言うと、理人は嬉しそうにした。
「美由紀は色彩感覚が素晴らしくてね。私には考えつかないような色使いのファッションを着こなしていた。はじめて会った日、そのカラフルさに目を引かれたんだ。」
30歳のころ、理人は友人と訪れた旅行先で、夕方の自然公園をひとりで散歩していた。
一面緑と湖の景色の中、遠くの方に色鮮やかな何かを見つけ、理人はそこまで歩くことにした。
近づくと、それはやたらとカラフルな服を着た人だった。
写真を撮っていた女子大生は、理人を見るなり言った。
「道に迷いました。」
それが美由紀との出会いだった。
旅行から帰っても、理人は美由紀を忘れられずにいた。
美由紀が泊っているホテルまで送り届けた、ほんの1時間程度の会話を、理人は何度も思い返した。
美由紀は理人の9歳年下で、美大に通う学生だった。
画家を目指しており、来年から留学するのだと語った。
ころころと表情を変えて笑う美由紀は魅力的だった。
理人は美由紀に強く惹かれたが、9歳も年下の女性に恋愛感情を抱くことに抵抗があった。
結局何もせずに別れたが、理人は美由紀の連絡先を聞いておかなかったことを、ずっと後悔していた。
2年が過ぎ、周囲から結婚を促されていた理人は、乗り気でなかった見合いの席で突然、美由紀と再会した。
美由紀は、理人の父であり、佐伯ホールディングス会長の旺賢が、懇意にしている政治家の娘だった。
「相手が理人さんだと知って、お見合いの話を受けたんです。」
ふたりきりになると美由紀は言った。
「あの時、私を助けてくれた人と、再会できるとは思いませんでした。ずっと、会いたかったんです。」
政治的な見合いではあったが、理人は美由紀に交際を申し入れ、大学を出たばかりの美由紀と婚約した。
プロポーズの贈り物として、理人は美由紀のため、佐伯の邸宅に美しい庭と、それを臨むアトリエを作った。
じきにふたりは結婚し、美由紀は毎日、アトリエで画を描き、仕事から帰る理人を待って過ごした。
その年の末には子どもが生まれ、ふたりは悩んだ末、様々な願いを込めて、娘に璃子と名付けた。
「璃子という名前には、私たちの宝であり、聡明な子が、人生を輝かせることができるようにという願いを込めたんだ。ラピスラズリは特別な顔料であるウルトラマリンブルーの原料でもあるからね。画家としての美由紀の思いも込められている。」
千智は胸が熱くなった。
璃子は愛し合う両親のもと、望まれて生まれてきたのだ。
自分のことのはずなのに、千智はなぜか羨ましく感じた。
「素敵な名前です。大切にします。」
千智の言葉に、理人は嬉しそうにうなずいた。
「瑠偉のアトリエは、お父様が、お母様に贈ったものだったんですね。ロマンチックです。」
「ああ。瑠偉が使うようになって久しいがね。アトリエを訪れたそうだね。」
瑠偉は美由紀の才能を受け継いでいた。
5歳のころには絵画コンクールで入賞するようになり、小学校に入学すると、美由紀と一緒にアトリエで絵を描いて過ごすようになっていた。
「廊下に掛けられた絵を見たかい?」
「はい、季節ごとの庭が描かれていて、とても素敵でした。」
「あれは全部、美由紀の病室に飾るために描かれたものなんだ。」
5年前、心臓に持病を抱えていた美由紀は、病状が悪化し、入退院を繰り返すようになった。
病室から出られない美由紀は、自邸の庭を恋しがった。瑠偉は、季節ごとの庭の絵を描き、美由紀の病室に届けるようになった。
美由紀は瑠偉の絵について、理人に語った。
「瑠偉の絵が、この部屋に季節を運んでくれるの。瑠偉の感性は特別よ。きっと素晴らしい画家になって、私の夢を叶えてくれる。」
話を聞いた千智は、廊下に掛けられた絵が、何度も季節を繰り返していたことを思った。
その間ずっと、美由紀、そして理人と瑠偉は、病気と闘っていたのだ。
「美由紀が亡くなってから、瑠偉はしばらく絵筆をとっていなかったんだ。瑠偉が絵を描く理由は、きっと母親だったんだろう。」
理人はそう言って目を伏せたが、目を上げると千智を見て微笑んだ。
「しかし、璃子が戻ってくれた。瑠偉が再び絵を描き始めたのは、璃子のおかげだ。話が長くなってしまってすまない。そろそろ食事にしよう。」
理人はウェイターを呼び、コース料理の提供を始めるよう伝え、千智に飲み物を聞いた。
食事をしながら、理人は千智に言った。
「璃子の部屋は残してあるんだが、5歳のときのままでね。そのまま使うことはできないし、大学に通うには遠い。取り急ぎ、大学近くのマンションを用意したが、邸宅でも過ごすことができるよう、部屋は準備しておくよ。住むつもりがあれば、いつでも言いなさい。璃子の好みに、部屋を整えるといい。」
「はい。残してある部屋を、見てもいいですか?」
部屋を見れば、璃子としての記憶を、何か思い出せるかもしれない。
「構わないよ。5歳のときの部屋はそのままにして、別の部屋を用意するつもりだ。子供部屋は手狭で、バスルームもないからな。」
そう言うと、理人は少しためらいつつ、千智に聞いた。
「璃子として、何か覚えていることはないのか?」
「まだ、何も思い出せないんです。ごめんなさい。」
「いや、いいんだ。記憶をなくしたのには、理由があるはずだ。怖い思いをしたのなら、無理に思い出さない方がいい。」
食事が終わると、理人は千智に5冊のアルバムを手渡した。
「5歳までの写真だよ。思い出せなくても、知っておいてほしくてね。」
アルバムを開くと、若い女性が、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて微笑んでいた。
隣に寄り添っている理人も若い。
ふたりは幸せそうだ。
美由紀の写真を目にして、千智は驚いた。
美由紀は千智によく似ていた。そして、美香にも似ていた。
“もしかしたら、”
千智は考えた。
“私は、よく似たふたりを、間違えたのかもしれない。”
幼い千智は、美香と出会い、美由紀に似ている美香を母親と間違え、懐いたのではないか。
そうだとすれば、美香だと思っている記憶のいくつかは、もしかしたら美由紀との思い出なのかもしれない。
千智は複雑な気持ちで、写真を眺めた。
アルバムにはそれぞれの年の、璃子の成長が記録されていた。
4歳になる年のアルバムのページをめくっていくと、海辺で年上の少年と手をつないで映っている、璃子の写真があった。
「この男の子は?」
理人に訊ねると、写真を見た理人は言った。
「玲司だよ。一緒に旅行したときのものだろう。」
ふと千智は、玲司の言葉を思い出した。
“昔は、お兄ちゃんって呼んでただろ”
千智には古い記憶がある。
幼い頃、自分を海に連れ出してくれた人がいた。
その人を、千智は“お兄ちゃん”と呼んでいた。
手をつないで、海岸を歩いたことや、つないだ手が温かく優しかったことを、千智は覚えている。
顔は思い出せない記憶の中のお兄ちゃんは、もしかしたら玲司なのかもしれない。
「ひとつだけ、覚えているのかもしれません。」
千智は、お兄ちゃんとの思い出を、理人に話した。
「ふむ。玲司め…」
話を聞いた理人は、璃子が玲司だけを覚えていることに嫉妬した。
食事を終え、秘書の玲司が迎えに来ると、理人は玲司を眼光鋭く睨みつけた。
「璃子、これからも、週に一度は食事をしよう。今度は璃子の話を聞かせてほしい。」
千智に優しく微笑むと、理人は玲司を一瞥して言った。
「行くぞ。」
足早に個室を後にする理人を追いかけながら、玲司は千智に表情で訴えた。
“どういうことだ?”
千智は苦笑いしながら、ふたりを見送った。
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