第9話 今泣いた烏がもう笑う
流れる水のように清冷な音。
自身が水際にいるのかと錯覚してしまいそうになる。
俺には音楽の素養が全くないので、その良し悪しなんて分からない。だからと言って、何も感じない訳ではない。
俺は撫子のヴァイオリンを聞きながら、そんなことを考えていた。
「さすが撫子お姉様だわ。ああ、なんて素晴らしいの! この音。この表現。そして、確かな技術。完璧っ! お姉様ほど才能に溢れたお方はいらっしゃらないわ。だからこそ、お姉様はリリィーよりもこのローズに相応しい。……アンタもそう思うでしょ?」
「……俺が思うのは、お前がうるさいってことぐらいだな」
「アンタって男は、レディになんて言いぐさなのっ。反省してるって言いなさい!」
「反省」
言われたので、復唱してみる。
「お馬鹿! 言えば良いってものじゃないのっ!」
「……どうしろと」
なんて無茶苦茶な女なんだ。俺は仮にも先輩だぞ。
彼女は鎖骨よりも少し長い髪をサイドテールにてまとめている。その髪型は、いかにも勝ち気そうな顔立ちと良くマッチしていた。
彼女もモーガンに演奏会の奏者として誘われたらしく、放課後こうやって撫子やモーガンと一緒に練習に勤しんでいるのだ。
「ミッキー、とりあえず落ち着こうな。音楽は静かに聞くもんだって、偉い人から教わらなかったか?」
「なっ、ミッキーって呼ぶなっ! そもそも、偉い人って誰よ!」
「ミッキー。すぐ答えを求めようとするのは、頂けないな。答えはいつだって、ミッキーの中にある。分かったか、ミッキー」
「うー、ミッキーって、連呼するなぁ!」
ぷんすかと、威嚇するように手を上げるミッキー。こいつは背が本当にちっこいので、小動物が頑張ってころころしているように見える。
……何こいつ面白い。もっと、からかおう。
「……貴弘さん」
いつの間にか、ヴァイオリンの音が途切れていた。
静かな声が音楽室に響く。
あっ、ヤバい。これ、怒っている時の声だ。
「そんなに望月をからかっては可哀想よ。本当にいけない人ね」
嗜められる。この有無を言わさない感じ。反論しても無駄なやつだ。俺は決まりが悪くなって頭を掻く。
「……悪かったよ」
「それから、望月。貴弘さんは貴方の先輩ですよ。言葉遣いを考えなさい」
「……はい、すみません。撫子お姉様」
さすがのミッキーも撫子には頭が上がらない。肩を落とし、弱々しく震える望月を見て、撫子は微笑んだ。それから、優しく頭を撫でて言葉を発する。なんという飴と鞭。
「分かってもらえたのなら良いのよ。さぁ、望月。次は貴方のピアノを聞かせて頂けるかしら?」
「はいっ、お姉様!」
今泣いた烏がもう笑った。
ミッキーは張り切って、ピアノに向かう。それから程なくして、心地よい旋律が耳に入る。和やかな雰囲気。俺は思わず瞳を閉じて―――
「本当に、いけない人」
――耳元で囁かれ、二の腕を摘ままれた。
ちくしょう!
全然和やかな雰囲気じゃありませんでした。
「お、おい、撫子」
「私が弾いているのに、望月ばかり見て。ふふっ、妬けてしまうわ」
「何言ってんだよっ!?」
「貴弘さん、覚悟してくださいね。本番では、私に釘付けにして差し上げますので」
そう言って、撫子はにっこりと笑った。本気も本気という笑みだった。怖ぁ。
「お、おう、楽しみにしています」
恐ろしくて、思わず敬語になる。
撫子は典型的な怒らせては駄目なタイプだ。沸点が高く、滅多に怒らないが、一度キレると手がつけられなくなる火山型なのだ。
というか、撫子は俺に対してだけ沸点低くない? 露骨に低くない?
「……貴弘さん、いつも私だけを見ていてください。それだけで良いの。ほら、とても簡単なことでしょう?」
全然簡単なことじゃないと思います。
でも、これ以上怒らせたくないので、頷いておく。
「よろしい」
撫子は満足げに唇を緩めると俺の手に指を絡めた。
そのとき直ぐ後ろの方から、かちゃりと無機質な音が聞こえた。
振り向くと、モーガンが優雅に紅茶を楽しんでいた。先程の音は、彼女が右手で摘まんだカップを左手で胸元に持ってきたソーサーに置いた音であったらしい。
モーガンは俺の視線に気付くと、上品に目を細めた。
いや、お前も練習しろよ。何で優雅に茶を飲んでるんだよ。
「ミスターヒノ。ふふっ、ステディと仲が良ろしいのは、とてもいいことだわ。指を絡めて寄り添うなんて、紅茶のように味わい深く情熱的ね。……ところでミスター、ご一緒に紅茶はいかがかしら?」
「遠慮しとく」
「……そう、残念だわ」
にべもなく即答した。
あと、何でもかんでも紅茶に例えるのはどうかと思う。
それを聞いてモーガンは肩を落として、しゅんとした。
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