握った拳(撫子視点)
土曜日の朝。
貴弘さんのご自宅へ電話をかけながら、左手に持っている映画のチケットに目を落とす。震える指先を咎めるように、浅く息を吸う。
(……何を緊張することがあるのかしら。ただ、貴弘さんを映画に誘うだけです。とても簡単なことだわ)
頷く。
自身の考えを自身で肯定する。自分でも悔しくなるような馬鹿らしく独りよがりな考えだ。しかし、そうでもしないと、決意が揺らいでしまいそうだった。
一緒にいることと、一緒になることは似ているようで全く違う。できれば、私は後者になりたい。だからこそ、行動しなければならない。
(……貴弘さんが以前見たいとおっしゃっていたチケットが、たまたま、ええ、本当にたまたま手に入りました。ご一緒にどうでしょう?)
頭の中で入念にシミュレーションをしておく。様々なパターンの受け答えを頭に巡らす。
一番あり得る返しとしては、出掛けることが面倒臭いと言われた場合である。
(貴弘さん、そのようなだらしないことを言わないで下さい。折角の休日、有意義に過ごさなければ損だと思いませんか? 思いますよね。いいえ……思いなさい)
これでいこう。貴弘さんは押しに弱いところがあるので、後は勢いで誤魔化せるはず。
『……もしもし、日野です』
ゆったりとした女性の声が聞こえた。
「こんにちは、おば様。撫子です」
『あら、撫子ちゃん。こんにちは、元気してる?』
「ええ、おかげさまで。……ところで、おば様、貴弘さんはご在宅でしょうか?」
『……貴弘? 貴弘なら、今文化祭の買い出しに行っているわよ。荷物持ち要員ですって。あの子、がたいだけは無駄に良いから。ええ、同じクラスの女の子が迎えに来てくれて、さっき家を出たところなのよ』
「……そう、ですか」
おば様の明るい声音が耳に入る。その内容を理解するまで数秒の時間を有した。この髙野宮撫子が、である。
心を落ち着かせようと、おば様に聞こえない程度に浅く息を吸った。
――落ち着きなさい。いかなるときも毅然と冷静さを失ってはいけないわ。
そう自身に言い聞かせて、笑顔を浮かべる。
『迎えに来てくれた友達が貴弘の好みの小動物系の女の子で、思わず間探りしちゃったわ。貴弘にとうとう春がきたのかったかって』
「――――――っ」
鎮めようとした感情が決壊した。
ミシリ、と受話器を強く握り締める。
一瞬、自身の感情の揺れの大きさに戸惑う。更に、戸惑った自分に驚いてすぐに理解した。
ああ、何てことない……これは嫉妬だ。
清廉、純白、無垢。
そんな言葉とは程遠い感情。
汚泥のように纏わりつき私の心を苛む。
胸に手を当て鼓動を確かめる。苛烈に脈動しているそれを感じて、唇を歪めた。
「ふふっ、うふふっ、そうですか。……ちなみに、おば様。貴弘さんはどちらに買い出しへ行かれたのでしょうか?」
『髙都のショッピングモールよ。あそこなら大抵のものが揃うからって』
「ああ、コウトモールですか。承知しました。おば様、たった今、用事ができましたのでこれにて失礼致します」
『あら、そう? じゃあ、またね。撫子ちゃん」
「はい、ありがとうございました」
受話器を置いて、力を入れすぎて強ばった手を眺める。それも長くは続かなかった。
大抵のことは難なく受け止めきれると自負しているし、我慢することにも慣れている。しかし、こと貴弘さんにかけては我慢できない、いや、我慢しない。してやるものか、絶対に。心の中でそう吐き捨てて、もう一度笑った。
人には譲れないものがあるだろう。
それは矜持であったり、生き方であったり、信念であったり、大小あれど人の数だけ存在する。他人に何と言われようと、後ろ指をさされ理解されずとも、突き通せずにはいられない何かが。
私にとってそれは「日野貴弘」に他ならない。
ただそれだけのことだ。それだけのことが、何より大切だった。
踵を返して、私は玄関へ向かう。
ただ、歩く。歩く。歩く。
早く。
もっと。もっと、もっと。
早足。早足。
それでも、足りない。
駆け足。
躊躇する時間が惜しい。
髪が乱れる。でも、そんなこと構いはしない。
走る。
着物姿では限界がある。足がもつれ、転けそうになった。それでも、走る。
「お嬢様!? 廊下をそのように走るなどはしたのうございます!」
廊下の先に山郷さんが立っていた。手にはたきを持っており、掃除をしていたのだろう。ぎょっとした顔で私の顔を見つめている。
「……ああ」
私の必死の形相を見て、山郷さんは頷いた。
そういうことですか、と目を細める。
事情を説明する前に、全てを理解してくれたらしい。慣れと諦めをない交ぜた表情を浮かべながら、溜め息をつかれた。
山郷さんはお祖母様の代からここで働いている。きっと、お祖母様やお母様の恋路を見守ってきたのだろう。
「……お嬢様、お車の手配は必要でしょうか?」
「ええ、早急に」
「かしこまりました」
深々と頭を下げる彼女に一抹の罪悪感を覚えるものの、私は再び足を動かした。
(こんなことがあるからこそ、貴弘さんには聖深学院に進学して頂かなければならないわ。もっと頑張らないと)
決意を固めるように、私はぎゅっと拳を握った。
ーーー
時系列は中3くらい
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