第22話 ふつつかな二人





「……たか……さ、た……ろ、さん」


 声が聞こえる。


 微睡みに包まれながら、他人事のようにそう思った。


 長い夢を見ていた。

 懐かしく、楽しくて……何より甘酸っぱい、そんな夢だ。


 意識はあるのに、起きているのか、まだ寝ているのか自分でもあやふやだ。きっとまだ脳が働いない証拠。可笑しくないのに、笑みが漏れた。 


 このまま瞼を瞑れば、もう一度同じ夢が見れるだろうか。


 俺は再びそっと瞼を閉じて―――





「っ……もう、貴弘さんったら!」




 耳元で叫ばれた。


 鈴を鳴らしたようなソプラノの声音。なまじ通りが良いため、鼓膜が震えた。不明瞭な視界が一気に色彩を取り戻す。耳を押さえて、俺は声の主を見やった。


 そこには腰に手を当てて、不満げに眉をひそめた撫子が立っていた。きっちりと編み上げられた濡羽の髪。歩けば誰もが振り返るであろう絶世の美貌。楚楚とした見た目なのに、雰囲気はどこか女王然としていて思わず平伏してしまいそうになる。


「……はぁ、撫子。いきなり耳元で叫ぶなよ」


「あら、貴弘さんが悪いのよ? 何度もお呼びしているのに、ちっとも反応してくださらないのだもの。うたた寝していたのかしら? 駄目よ。もっとしっかりして頂かないと」


 撫子はそう言って俺の手を握り、そっと引っ張る。それに促され、俺は座っていた椅子から立ち上がった。決まりが悪くなり、頭を掻く。

 

「あー、すまん」


「ふふっ、そんな顔しないで、怒ってないわ。それより良い夢でも見ていたのですか? とても幸せそうな寝顔だったわ」


 小さく細い手で頬を撫でられた。ひんやりとした手の感触に驚く。俺は基礎体温が高い方なので、冷え性の撫子の手を上から握り暖めてやる。


「ああ。昔の夢を見ていた」


「……昔の、夢ですか?」


「高校生のお前と付き合う時の夢」


 俺がそう答えると、撫子は驚いたように目を瞬かせた。そして、ふわりと微笑む。


「それはとても幸せな夢ね。……でも、これからもっと幸せになるわ。そうでしょう、貴弘さん?」


 その言葉に、俺は深く頷いた。

 撫子は眩しげに目を細めた。俺の頬を擦ってから身を離す。

 

「……貴弘さん、名残惜しいけれど、そろそろ時間よ。先に行って下さい。私も準備をして参りますから」


「おう、分かった」


 扉まで歩き、ドアノブに手をかけたところで「……貴弘さん」と呼び止められた。振り返ると撫子が側に寄ってきて、俺の襟をそっと正してくれた。


「これで良いわ。ふふっ、とても素敵よ。……貴弘さん、いってらっしゃい」


「……ああ、行ってくる」

 

 俺は真っ直ぐ前を見据えて、扉を開いた。




***



 教会の荘厳な内装を見ながら、とりとめないことを考える。


 運命とは、不思議なものだ。15年前、俺は撫子と出会い、付き合って、今俺はこうして共に人生を歩もうとしている。


 ―――今日、俺は髙野宮撫子と結婚する。

 

 まさか、こうなるとは出会ったばかりの時は思わなかった。


 撫子はあくまでも高嶺の花で、俺はそれを静かに下から見上げる。そんな人生を送るのだと、思っていた。それに対して不満もなかった。そうなることが、当然だと思っていたからだ。


 だが、撫子はそれを許さなかった。

 登ってこれないなら、落ちれば良い。

 それだけのことよ、と一切の迷いもなくそう言った。


 最初は勿論、何を言ってるんだと呆れ、何度も反発した。それでも撫子は諦めなかった。抵抗される程燃えるタイプなのだろう。一番厄介なタイプだ。


 それから、撫子の猛攻が始まった。


 外堀から埋められ、気付けば本丸も攻め落とされていた。流石は髙野宮の女だ。惚れ惚れするくらい鮮やかな手腕だった。


 それに、思えば自身の想いに気づいていないだけで、きっとずっと前から俺はあいつのことが好きだったのだろう。今なら素直に認められる。


 そこまで考えて、俺は自分の手が小刻みに震えていることに気づいた。認めよう、俺は今とんでもなく緊張している。


 生まれてこの方、ここまで緊張したことがあっただろうか。

 喉はカラカラに渇いているし、そわそわと落ち着きなく肩を揺らしてしまう。挙動不審なのは自覚している。しているが、どうしようもできない。


(……緊張しすぎて吐きそう)


 息苦しくなって、タキシードの襟を緩めようと手を伸ばす。しかし、途中で撫子が襟を整えてくれたことを思い出し、腕を下ろした。右手に持つ白い手袋に目を落とし、強く握る。


 男だろ、しっかりしろ。心の中で自身にそう言い聞かせる。


 深呼吸を一つ。


 気持ちを落ち着かせる。

 ここまで来て、撫子に格好悪いとこ見せてたまるか。最後まで意地を張れ。ピンと背筋を伸ばし、ただその時を待つ。


 数分、いや数十分だろうか。どれだけ時間がたったのかもはや把握できない。聖書台に目を向けると、老年の牧師様が安心しろとでも言うように目を細めた。それに勇気付けられ、軽く頷く。


 回りからどよめきと拍手が鳴り響き、俺は慌てて入り口へと視線を向けた。

 

 その瞬間―――時が止まった。


 呆然と入り口に立つ撫子を見詰める。口を開け、間抜けな表情を浮かべてしまっているのは分かっている。しかし、それを誰も攻めることはできないだろう。


 それ程―――撫子は美しかった。

 

 純白のウェディングドレス。幾重にも繊細なレースとチュールが重ねられ、上質なロングトレーンを構成している。

 そんなウェディングドレスを身に纏い、微笑む撫子は言葉に出来ないほど綺麗で、まるで天使のようだと思った。


 バージンロードを歩く前に、おばさん、いや、義母さんが、ベールダウンをする。義母さんは、涙ぐみながらそっと撫子を抱き締めた。それから、優しく見守っていた義父さんと腕を組み、バージンロードを一歩一歩噛み締めるように歩く。

 

 ゆっくりと階段を上がり、撫子は俺の目の前に立った。かっと、頭が沸騰する。近くで見れば見るほど、本当に綺麗で心臓が大きく脈を打った。


「……貴弘さん」


「すごく、綺麗だ」


 自然と口に出た言葉だった。それを聞いて撫子は恥ずかしげに、微笑んだ。


 讃美歌の斉唱や牧師様が聖書を朗読している間、俺はずっと撫子を見ていた。この撫子の姿を一生忘れないように網膜に焼き付けていた。




 それから少し間を置いてから、牧師様は俺たちに目配せし、両手を広げた。


「新郎、日野貴弘、あなたはここにいる新婦、髙野宮撫子を、健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも、妻として愛し、敬い、いつくしむことを誓いますか?」


「誓います」


 胸を張って、答える。

 牧師様は、よろしいと小さく頷く。

 

「新婦、髙野宮撫子、あなたはここにいる新郎、日野貴弘を、健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも、夫として愛し、敬い、いつくしむことを誓いますか?」


「……勿論、誓います」


 撫子の返答を聞いて、牧師様は頬を緩めた。


「では、両人向き合って、指輪の交換を」


 介添人に撫子のブーケと俺の手袋を渡して、牧師様から指環を受け取り、撫子の左手を取る。


 白くきめ細かい肌を確かめるように親指で数回撫で、ゆっくりと薬指に指環を嵌めた。撫子も同じように俺の左手の薬指に指環を嵌めてくれた。それが、とても嬉しくて思わず笑みが溢れた。

 

 それが終ると、牧師様は俺にアイコンタクト。その合図に、目を伏せることで答える。

 

「……撫子」


「はい、貴弘さん」


 撫子のベールをそっと上げる。両肩に手を置いて、引き寄せる。撫子は嬉しそうに笑うと、顎を上げ目を瞑った。

 


 あの夏の日の出会いから、15年目の今日。

 


 ――――俺たちは誓いのキスを交わした。





 ***




 結婚式の二次会。 


 俺と圭一は、並んで酒を酌み交わしていた。

 ビールを一気飲みし、圭一は俺の顔を見てため息を吐く。その息が俺の顔に吹きかかった。酒臭い。


「いやー、まさか本当にタカが髙野宮さんと結婚しちまうとはなぁ」


「……何だよ、悪いか?」


「いや、んなことねーよ。まぁ、こうなることは分かってたからな。ただ、単純に先越されたと思ってさ」


「まぁ、俺も大学卒業とともに結婚は、早すぎるって言ったんだぜ。でも撫子がさ、どうしてもって言うから」


「あはは、なるほどなぁ」


 もう尻に敷かれてやんの、と圭一はケラケラ笑った。何だこいつ。かなりいらっとする。だが、祝いの席だ。ぐっと堪える。


「タカは婿入りすんだろ? 家とかどうすんの。まさか、向こうの親御さんと同居か?」


「まあな。でも、そもそも実家は隣だし、同居って言っても、撫子の家はあの広さだぜ」


「……ああ、家って言うか。もう屋敷だもんなあれ」


「だろ?」


 スケールが違うねぇ、と呟く圭一。それに関しては、同感だ。


「でも、逆玉の輿だし、嫁さんは超絶美人だし、良いとこずくめじゃん。いいか、タカ! あんな高嶺の花を摘めたって、ほんと奇跡なんだぞ!」


「あー、摘んだって言うか、摘まされたというか……」


 何とも言えん。

 思わず微妙な顔をしてしまう。どらちも正しく、どちらも違う。そんな不思議な感覚。そんなことを考えていると、いきなり、ふぅと耳に息を吹き掛けられた。

 

「……あなた」 


 透き通ったソプラノの声が耳元で囁く。


「うおぉう!?」

 

 変な声が出た。

 耳を押さえて、振り返る。


 そこにはお色直しをして、ボリュームを抑えた美しいシルエットのドレスに着替えた撫子が立っていた。


 ブルーの生地とそれを彩る胸元からスカートに流れるように施されたレースが、清楚な撫子に良く似合っている。

 正直、ぐっと来た。しかし圭一の視線を感じて、照れ隠しに撫子に抗議の声を上げた。


「おま、ちょ、何すんだよ!」


「ふふっ、ごめんなさい。でも、あなたが悪いのよ? 新郎が新婦を置いて行くなんて、あり得ないわ。それに相手が木村さんですって、本当にもうどうしてやろうかしら?」


 目が笑ってない。


 即座に圭一に向かって、「おい、お前何でそんなに撫子から敵視されてんだよ!」とアイコンタクト。圭一は「まるっと全部お前のせいだろ、このすっとこどっこい!」 と、首をかっ切るジェスチャー。試合開始のゴングが高らかに鳴った。


 何おぅ、この野郎! 

 おうおう、やるか、てやんでぃ!


 心の中の江戸っ子が顔を出した。お互い瞳に燃え盛る炎を見た。火事になるくらい滾らせてやるとばかり、睨み合う。


「……お二人共、私の話を聞いていますか?」


「「すいませんでした」」


 撫子の冷水のような声。


 即座に、燃え盛る炎は鎮火されました。

 二人して、白旗を振り降参する。


 撫子は素直で宜しいと、頬を緩ませた。

 それから俺の手を包むように握る。


「あなた、もう私を勝手に放って行かないで下さいね。とても、寂しかったわ」


「ああ、悪かったよ」


 きめ細かく編み込まれた髪を崩さないように、頭を撫でる。撫子は嬉しそうに頬を染めた。


「はははっ、君たちは本当に相変わらずだな。うん。とてもお似合いだ。結婚おめでとう」


「そうね。とても懐かしいやり取りだわ。甘みが強く、コクがあり芳醇な薫りのアッサム。それを嗜むときのように、心が踊るわ。ミスターヒノ……ああ、失礼。今はミスタータカノミヤかしら? My heartiest congratulations to you both」


「撫子お姉様、とてもお綺麗です! ぐっ……あー、日野……ううっ、た、た……髙野宮、くっ、先輩も、おめでとう、ございます」


 着飾った高円寺、モーガン、ミッキーの三人娘が俺たちの後ろに立っていた。だから、居たなら先に声をかけろよ! 毎回こんなやり取りをしている気がする。ほんと、いい加減にして欲しい。


 ……相変わらずモーガンの紅茶の例えは全く頭に入ってこない。それに、ミッキーお前は何故そんなにも悔しそうなんだ。血涙を出しそうな雰囲気だぞ。お前たち高校の時から全くブレてないな。いっそ尊敬するわ。


「紫、モーガンさん、望月。そして、木村さんも。私たちの結婚式にお越し頂き、本当にありがとうございます。とても、とても嬉しいわ。……ねぇ、あなた。そんな顔していないで、皆さんにちゃんとお礼を仰って下さい」


「……あ、ああ、皆、来てくれてありがとな」


 俺と撫子のやり取りに、圭一は心底面白そうにやつき。高円寺は爽やかに笑い。モーガンは優雅に微笑み。ミッキーは、ぎこちなく口角を上げた。



 *** 



 二次会が終わり、早々に撫子と髙野宮邸に戻ってきた。


 風呂に入って汗を流し、与えられた部屋に入る。

 俺はすぐさま座布団を枕に寝転がり、疲労から深いため息をついた。


「あー、ほんと疲れた」


「もう、あなた。だらしないですよ。お布団を敷きましたから、こちらにいらして下さい」


 撫子は白い襦袢を着て、ぽんぽんと布団を叩く。

 嗜める言葉なのに、その声音はひどく甘ったるかった。


「今日ぐらい許してくれ。それと、な。撫子、その、あなた、って呼び方、何だかすごくむず痒いんだが……」


「ふふっ、駄目よ。これからずっと貴弘さんのことをそうお呼びするのだから、今から慣れて頂かないと。……それに、夢だったのです」


「……夢? そういう呼び方をするのがか?」

 

 俺は撫子の側に腰を落とし、布団へ身体を横たえた。撫子はそんな俺の手を握って、いじらしく微笑んだ。


「……いいえ。貴弘さんを『あなた』と呼ぶことが、です。私の夢は、ずっと貴弘さんのお嫁さんになることでしたから」


「撫子……」


 撫子は布団の上で正座をして、深く頭を下げた。


「あなた、愛しています。ふつつかものですが、末永くよろしくお願い致します」


 一瞬、ぽかんと固まる。まさか、そんな挨拶をしてくるとは思っていなかった。


 慌てて、俺も起き上がり頭を下げる。


「こちらこそ、よろしく頼む」


「……はい、これからもあなたの背中を追いかけて、あなたにずっとついていきます」


 撫子は満面の笑みを浮かべ、しなだれかかってきた。俺はそれをしっかりと受け止める。


「おう。じゃあ、そろそろ寝るか。疲れたし、今晩は良く寝れそうだな……って、ええ!?」


 寝ようと布団を捲ろうとして、気付く。布団が一組しか……ない。


「あなた、何をそんなに驚いているのかしら? 結婚して初めての夜、つまり初夜ですよ? まさか、このまま何もせず寝るつもりではないですよね?」


「……ちょっと待ってくれ。さすがに、今日は疲れてて」


「いいえ、待ちません。今まで、ずっとこうなることを待っていたのですよ? 絶対に逃がしませんから」


 勢いを付けて、押し倒される。

 撫子の艶やかな射干玉の髪が、俺の頬に流れた。

 噛みつくように、唇を奪われながら思う。



 ――やっぱり、高嶺の花なご令嬢は自ら俺に摘まれに来ました。




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