第18話 彼女たちの旋律
聖深学院には、大きな講堂が存在する。
ここでは定期演奏会をはじめとする様々な式典や講演が昼夜執り行われているのである。
定期演奏会当日、俺は撫子が取ってくれていた席に座りながらそんなことを考えていた。
……人はそれを現実逃避とも言う。
(特等席って、撫子は言ってたけど、まさか最前列のど真ん中とは思わなかったわ)
すごい捩じ込みようだった。
呆れよりも、ここまで来ると尊敬の念すら覚える。それでも撫子は、きっと涼しい顔をして「私がヴァイオリンを演奏するのは、貴弘さんに見て頂きたいからよ。最前列の中央席をご用意するのは当然のことでしょう?」とでも言うのだろう。ああ、絶対言う。言うから、何故こんな席を取ったのかなんて、野暮な質問はしないでおこうと心に決めた。
周りを見渡すと講堂内は、すでに満席状態だ。生徒たちの熱気がここまで伝わってくる。この演奏会に対する期待度がとてつもなく高いことが伺い知れる。
そうこうしていると、講堂内が薄暗くなり、舞台に照明が当てられた。コツコツと床を踏む音が会場に響き渡る。その瞬間、先程まで講堂を包んだざわめきがピタリと止んだ。
最初に登場したのはミッキーこと、冷泉望月。
鎖骨より少し長い鳶色の髪はサイドテールに結ばれ、低身長と相まって大変可愛らしい。きっとこんなことを言ったら、ミッキーは怒るだろうけどな。両手を上げ、ぷんすこ!と、全く怖くない威嚇をしてくるミッキーが脳裏に浮かび、思わず笑みが溢れてしまった。
そんな俺を尻目に、ミッキーはつり目がちな瞳でピアノを一心に見つめていた。特に緊張した様子がないのは、今まで数々の音楽コンクールに出場してきたからなのだろう。
次に姿を現したのは、煌めく金糸の髪を結い上げ、しっとりとした笑みを浮かべる少女、アンジェリカ・モーガンだ。紅茶を何よりも愛するイギリスのウェールズ出身で、古くから続くモーガン子爵家のご令嬢。根っからのお嬢様である。こう書けば優雅な英国淑女に見えるが、本人の性格はいたって享楽的で、俺の中の「おもしれぇ女」筆頭である。
そして、生徒会長である高円寺紫がその後に続く。
凛とした雰囲気を持ち、武士のように厳粛な表情。姿勢が素晴らしく良いのは、実家が茶道の家元だからだろうか。綺麗で男より格好良い、と多くの女子生徒を虜にしてやまない。
高円寺は、完全に主人公気質なんだよな。何というか、美少女ゲームのヒロインではなく、乙女ゲーのヒーローにいそうな感じ。高円寺の恋人になる奴は、色々と苦労をする気がする。
最後のトリを飾ったのは、勿論当代のグロリア・フロスこと髙野宮撫子だ。撫子が舞台に現れると講堂内の熱気は最高潮に達した。
腰まで伸ばされた濡羽の黒髪。切れ長の瞳に、すっと通った鼻筋。桃色の潤んだ唇。改めて見ると、本当にとんでもない美人だ。俺の10年来の幼馴染みで……彼女でもある。
そんなことを考えていると、撫子と目が合った。
取り敢えず、小さく手を振ってみる。撫子はそれを見て、ピカーっと後光が差すような笑みを浮かべた。
全員が舞台に揃うと、今回の代表者のモーガンが一歩前に出て挨拶を始める。
「……皆さま、ご機嫌麗しゅう。私は今回の定期演奏会の主宰を勤めるアイリスの監督生、アンジェリカ・モーガンと申します。そして、一緒に演奏頂く3人の奏者は……ふふっ、紹介しなくても皆さまの方が良くご存知かもしれませんね。ローズの監督生、レイセン・ミツキ。生徒会長のコウエンジ・ムラサキ。そして、グロリア・フロスのタカノミヤ・ナデシコ。私が言うのも何ですか、かなりの豪華メンバーだと思わないかしら?」
ウィットに富んだ口調に優雅な立ち振舞い。モーガンは紅茶さえ関わらなければ、完璧な英国淑女なんだよな。
「お伝えしたいことはまだありますが、早速演奏を始めようと思います。さぁ、準備は良いかしら? よろしい。I hope you all enjoy yourselves!」
モーガンは芝居がかった仕草で、スカートの裾を持って膝を軽く曲げ、身体を少し下げお辞儀をした。
演奏が始まる。
息を呑むほど、美しい音が講堂内に響き渡る。元よりクラシックの知識などからっきしで、その良し悪しなんて分からない。それでも……それでも、聞き惚れてしまうぐらい撫子たちの演奏は素晴らしかった。
撫子たちの練習に付き合い、何度も聞いていたはずなのにおかしいよな。
じっと、舞台でヴァイオリンを奏でる撫子を見詰める。弦を弾く動きに合わせて揺れる長髪。優美で柔らかい表情。そして、撫子が奏でる旋律が俺の心を揺さぶる。
(……本当に綺麗だ)
まさに、釘付けだった。
俺はひたすら撫子を見ていた。
ずっと、見ていたかった。
***
気が付くと、演奏会は終わっていた。
情けない話だが撫子を見ることに夢中で、時間を忘れていたのだ。先程の演奏の余韻にひたり、ほっと息を吐く。
感想を言い合い、あるいは興奮から囃し立てる周囲の声を背に、俺は立ち上がり舞台袖に向かった。
舞台袖に入ると、直ぐに撫子の姿が目に入る。撫子も俺の姿を認め、表情を輝かせた。早足で側に寄って来て、手を握られる。
「貴弘さんっ!」
「よう、撫子」
「私とても頑張りました。ねぇ、ちゃんと見てくださいましたか?」
「勿論。その、とても良かった」
「……嬉しい」
俺の言葉に、撫子は頬を上気させた。それが可愛くてしょうがない。撫子の頭を撫る。撫子はふにゃりと微笑んで上目遣い。
「……貴弘さん。こんなにも頑張ったのだから、ご褒美が欲しいわ」
「ご褒美? まぁ、俺にできることであればやるけどさ。取り敢えず、言ってみろよ」
「……今週の土曜日、私と逢い引きして欲しいです」
おずおず呟かれた言葉に、思わず笑みが漏れる。ああ、くそ可愛い。
「逢い引き……? ん、ああ、デートのことか。分かった。デートしよう」
「絶対ですよ。破ったら、嫌よ」
「おう、絶対だ」
嬉しい、と抱きついてくる撫子の背中をポンポンと優しく叩く。そして、向けられる視線に気づいた。
「……全く友人のイチャつく所を目の前にすると、何とも言えない気持ちになるな」
「そうかしら? 愛し合う恋人同士なら当然の振る舞いよ?」
「まぁ、こればっかりは文化の違いと言うやつだろう」
「本当に日本人は恥ずかしがり屋さんばかりですわね。そんなことでは駄目よ。もっと熱くならないと……そう紅茶のようにね!」
「―――――っ!!??」
「あらあら、うふふ。ミツキったら、レディがそんな面白可笑しい顔をしてはいけないわ。ふふっ」
「はぁ、アンジェリカ。日野の反応が面白いことは分かるが、それをネタに冷泉嬢をからかうのも程ほどにしたまえよ」
悶絶するミッキーに声をかけるモーガン。その唇はぴくぴくと痙攣しており……おい、完全に笑い堪えてるだろ。面白がってるだろ。高円寺はその様子を困ったよう見詰めて、モーガンに苦言を呈する。こいつら、人をネタにして
本当にやりたい放題だな。
どっと疲れて、俺は思わず深い溜め息をついた。
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