第15話 高嶺の花なご令嬢を俺は自ら摘みに行きます



 走る。


 撫子を好きだと自覚すると、居ても立ってもいられなくなった。とにかくこの想いを伝えなければならないという焦燥感が募る。


 スマホで撫子に電話をかけたが、コールは鳴るのに繋がらなかった。既に帰宅してしまったのだと思い、撫子の家を訪ねたがまだ帰って来ていないという。学院に戻り音楽室や図書室、教室、思い至る場所を全て探したが撫子は居なかった。


 今日、俺は撫子に対して冷たい態度をとってしまったから、撫子はそれを気にしているのだろうか。いや、気にしている。絶対に気にしている。

 

 撫子はその生まれからか、基本的に人間関係を損得で判断するきらいがある。0か1か。そこに重きを置く。しかし、それは二極思考と言うよりも、冷静に合理的な判断を選び続けていると言った方が正しい。だから、基本的に撫子は物怖じしない。何故ならそこに感情が入る余地がないからだ。


 ただ誤解しないで欲しいのは、それが彼女の全てでないと言うことだ。撫子は0か1かのデジタル思考をあくまでも手段として用いているだけなのである。


 それは撫子が日本経済に深く関わるに生まれたからに他ならない。


 付け入られる隙を与えず、感情に左右されず、常に最善な行動を取り続けなければならない立場にある故の帰結なのだ。


 彼女の本来の性格は優しく淑やかで、何より感性豊かだ。それを見せるのは、ごく限られた人間だけ。その中に間違いなく俺、日野貴弘は入っているのだろう。

 

 撫子は懐にいれた人間に対してのみ、心を震わす。

 だからこそ、今日の俺の冷たい態度に撫子は心を痛めているはずだ。そう思うと、申し訳ない気持ちで一杯になる。早く見つけて、そのことを謝りたい。そして、俺の気持ちを伝えたい。


(……もしかして、入れ違いになってしまったのかもしれないな。もう一度、撫子の家に行ってみるか)


 空は茜色に染まり、日が沈むのも時間の問題だ。

 撫子の家に向けて、河川敷を走る。


 息切れがする。それでも、俺は走るスピードを上げた。汗が滴り落ちるが、拭いもせず一心不乱に走る。


 橋下を通り抜けようとしたその時、脳裏に昨日聞いた撫子の言葉が浮かんだ。


『……秘密基地で私たちは出会ったのです』


「ふっ、はぁはぁ……そうだっ、秘密基地!」


 俺と撫子が出会った場所。


 俺は橋下を抜けて、秘密基地があった草むらへと足を進めた。草むらの前で一旦立ち止まり、息を整える。それから、意を決して草むらをかき分け秘密基地があった場所を目指す。

 

 外周の草を編んだテントを見つけて目を見張った。もう10年はたっているのだ。秘密基地など跡形もないはずだ。これは新しく作られたものだ。間違いなく撫子はここにいる。


 俺は入り口側に回り込み、その中を覗き込んだ。


 そこには三角座りをして、膝に顔を埋めた撫子がいた。撫子の姿を見つけ、ほっとする。俺はゆっくり撫子に近づいて、優しく声をかけた。


「……撫子」


 びくりと、撫子は肩を震わせた。数秒間を置いて、おずおずと顔を上げる。俺はそれを見て後悔した。


 充血した瞳、濡れた頬。戦慄く唇。


「たか、ひろさん……」

 

 弱々しく名前を呼ばれる。

  

「撫子」

 

 俺はそれに答える。そして、撫子の名前を噛み締める。言いたいことは沢山あった。でも、それを押さえ込んで俺は何も言わず撫子へ手を差し伸べた。


 撫子は静かに俺が差し出した手を見つめる。迷うように視線をさ迷わせた後、ゆっくりとその手を取った。


 細く俺よりも小さな手だ。


 撫子の……俺の好きな女の子の手。


 俺は堪らなくなり、その手を強く引いた。そして、撫子を俺の胸に引き込み強く抱き締める。


「貴弘……さん」


「撫子、ごめんな」


「……貴、弘さん、貴弘さん、貴弘さんっ!」


 悲痛な声で撫子は何度も俺の名前を呼ぶ。腕の中で嗚咽が聞こえる。


「撫子、泣くなよ。泣かないでくれ」


「……ひっ、うっ、嫌われたと、思ったのっ。わたし、私、貴弘さんに、嫌われてしまったって!」


「嫌う訳ないだろ。お前の手を払ったのは……その、自分の気持ちが分からなかったからなんだ」


 撫子は弱々しく顔を上げた。


「……貴弘さんの気持ち?」


「昨日、音楽室で話してただろ。その、俺たちのこと」


「っ、貴弘さん、聞いて……いらっしゃったの?」


「ああ、盗み聞きして悪いな。それを聞いて俺はお前との関係を意識しちまったんだ。あの時、頭がごちゃごちゃになってた。でもそれで、やっと分かったんだ」


 俺は撫子の頬に手を当てる。しっとりと吸い付く肌を優しく撫でる。撫子はそれを払わず俺を上目遣いで見つめた。俺もそれに答えるように、撫子の目を真っ直ぐ見つめる。


「……撫子、俺はお前が好きだって」


 撫子は俺から目をそらさず、一筋の涙を流した。


「……なぁ、まだお前は、高嶺から堕ちて俺に摘まれてくれるのか?」


「……馬鹿ね。私は、ずっと……堕ちているわ。貴方に会ってから、貴方に、貴弘さんだけに摘まれたくて、10年前からずっと」


「……撫子」


「好き」


 短く答えられた言葉。だが、それに全てが詰まっていた。撫子の10年間の想いが詰まっていた。


「撫子、俺と付き合ってくれ」


「……はい」


 撫子は笑った。


 無邪気に、天使のように笑った。


 俺はそっと顔を近づける。撫子は瞳を閉じて、静かにそれを受け入れた。


 

 ――俺たちは初めて出会った場所で、唇を重ねた。

 



 

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