第12話 意気地無しの背中
放課後、俺は撫子の家を訪ねていた。
「相変わらず広いな」
そう、撫子の家はとんでもなく広い。
伝統的な日本家屋で、敷地内には大きな池や中庭、果ては神社まである。幼い頃から何度も遊びに来たことはあるが、俺は未だにこの屋敷の全貌を把握しきれていない。
門に備え付けられているテレビドアホンを鳴らす。少ししてドアホンから、お入りくださいと無機質な音が聞こえた。顔パスである。
門を開いて、屋敷内に入る。
前庭を横目に、敷地奥の住まいへと続く道を歩く。静寂と威厳に満ちた空間。人を寄せ付けない、美しさがそこにはあった。
屋敷の前に、老年の女性がひとり立っていた。俺と目が合うと、彼女は深々とお辞儀をする。
「山郷さん、こんにちは」
「はい、貴弘坊っちゃん。お久しぶりでございます」
「……流石にこの年で、坊っちゃんは止めてくれよ」
「この山郷にとっては、何歳になられていても坊っちゃんは坊っちゃんなのです」
「はぁ、もういいっす」
髙野宮家に代々仕える家系の山郷さんは、撫子の世話役を任されている御仁だ。昔から俺のことも良く可愛がってくれているが、何度言っても坊っちゃん呼びを止めてくれない。
「撫子の鞄を持ってきたんです。お邪魔しても良いですか?」
「勿論でございます。さぁ、どうぞこちらへ」
山郷さんに促され、屋敷に上がる。山郷さんの背中を追い、長い縁側を歩き続けた。撫子の部屋に着くと、山郷さんは廊下に正座し障子の向こうへ呼び掛ける。
「お嬢様、貴弘坊っちゃんがいらっしゃいましたよ」
「ええ、どうぞお入り下さい」
山郷さんはそれを聞き障子を開ける。それから、入るように俺に目配せした。
「では、坊っちゃん。ごゆっくり」
「ああ、山郷さんありがとう」
部屋に入ると、白い寝間着をきた撫子は、布団から起き上がり俺に微笑みかけた。
「おい、起き上がらなくて良いよ。しんどいだろ」
「少しぐらいなら、大丈夫ですよ」
「それなら、良いけどよ。ほれ、鞄」
鞄を持つ手を掲げる。それを見て撫子はありがとうございます、と頭を下げた。
「机に置いておくから」
「はい、お願い致します」
机に鞄を置いて、撫子に振り返る。
俺と視線が合うと、撫子は汗で頬にはりついた髪を恥ずかしげに払った。そのたおやかな仕草が色っぽくて、何とも言えない気分になる。
「貴弘さん、こちらにいらっしゃって」
撫子はすぐ側の畳をポンポンと叩く。俺は言われるまま、そこに腰を下ろした。
「どうだ。少しは落ち着いたか?」
「はい。診療所で点滴をして頂いていたので、随分楽になりました」
「そうか。良かった。でも、お前は無理しすぎだぞ。今日だって、休めばよかっただろ」
撫子は顔を伏せて、か細い声で呟いた。
「だって」
「……だって?」
「だって、お休みしたら貴弘さんに会えないもの」
「……いや、そんな理由で無理するなよ」
「そんな理由ではないです! とても、とても大切なことだわ」
ぎゅっと布団を握り、声を振り絞る撫子。
そう言われると、何も言えなくなる。
思えば、小さい頃から撫子は俺にべったりだった。何をするにしても、一緒にしたがった。撫子にとって俺が初めての友達だからだろう。
「分かった。でも、次しんどいときはきちんと休めよ。学校が終わったら、お前の家にお見舞いに来るから。……それでいいだろ?」
「……絶対?」
「絶対だ」
「でしたら、次はお休みいたします」
とん、と撫子は俺の胸に頭を預けてくる。風邪を引いて、気が弱っているのだろう。甘えてくる撫子の髪をとかすようにして撫でる。暫くそうしていたが、撫子も体調が悪いので、あまり長居しない方が良いだろう。それに、鞄を渡すという目的は果たしたしよい塩梅だ。
「―――撫子、俺そろそろ帰るわ」
撫子は顔を上げた。すがるように上目遣い。
「貴弘さん、もう帰ってしまわれるの?」
「ああ、お前病人だろ。あんまり、負担かけれないからな」
「嫌よ」
「嫌って、何がだよ?」
「帰らないで」
「無茶言うな。駄目に決まってんだろ」
即座に否定すると、撫子は俺に強く抱きついてきた。白檀の落ち着く薫りが、鼻腔を擽った。
「ねぇ、貴弘さん。今日はここに泊まっていって下さいな」
「……お前は何を言ってるんだ」
「私は本気よ」
「なお悪いわ!」
「いずれそうなるのは決定事項なのよ。ただ遅いか早いかの違い。………だから、ねぇ良いでしょう?」
潤んだ瞳、上気した頬、震える唇。全てが艶やかで、思わず唾を呑み込んだ。俺は頭を振って自身を落ち着かせる。
「悪い、もう帰るから。じゃあな!」
勢い良く立ち上がって、俺は部屋から駆け出した。これ以上はいけない。
「……意気地無し」
後ろから、撫子の切なげな声が聞こえた。
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