phrase7 雨の庭を歩く

 天気予報が外れて、今日は朝から雨が降っている。


「車出すし、このくらいの雨なら平気かな」

「運転なんてしても大丈夫? 手を怪我したりしない?」

「俺どんだけ運転下手なんだよ。理音りねは心配性だなー」


 笑ってる音兄おとにいを見られるのは、今月は、明日で最後。


 音兄は、明日から二週間、地方を回って様々な音楽イベントをこなす予定だ。

 最近はテレビや雑誌の取材も増えてきたし、講師やアドバイザー、コンクール審査員の話なども来るという。

 ピアニストの仕事は、ピアノを弾く以外にもたくさんあるのだ。


 たまには運転したいという音兄の希望で、雨の中、二人でドライブに出かける。

 音兄の隣の席に座るのが久しぶりで、なんだか心がくすぐったい。

 人が見たら、やっぱりデートみたいに見えちゃうかな。それとも、妹だって即バレかな。


「ナビだったら、温玉おんたまちゃんも操作できるよ?」

「このくらい自分でやるって」


 鍵盤の上ではあんなになめらかに動く指が、慣れない動きでポチポチとナビのボタンを押してるのが可愛い。


 雨の量は、ワイパーをたまに動かせば大丈夫、という程度。

 目に見えるか見えないか、微妙な境い目を行き来する雨は、たとえ見えなくても確実にわたし達の空間を埋め続けている。


 音楽が聞こえてきそう。ショパンの『雨だれ』もいいけど、どちらかというと、ドビュッシーの『雨の庭』の気分だ。

 この前、音兄にリクエストしたドビュッシー。『雨の庭』を弾いてもらおうかな。



♬クロード・ドビュッシー作曲

 ピアノ曲集『版画』より

 『雨の庭』



 スマホをセットすると、可愛らしく軽快な音符が車の中を飛び始める。

 雨が窓を叩くように、音符がわたしたちの間をぽんぽんと跳ねまわる。

 まるで温玉ちゃんが跳ねてるみたいに。

 子供だったわたしたちが、雨の庭を駆け回っているみたいに。


「帰ったらこの曲聴きたいなー」

「ん、リクエスト? いいけど」

「やったー」


 明日からまた、しばらく会えないんだもの。このくらいの我がままはいいよね。

 世界に通じる音楽を、わたしだけのために演奏してくれる。これ以上は望めないくらいの贅沢だ。


 二つのフランス童謡を取り入れた、遊び心満載の跳ねるリズムと不思議な和音。フランス的な優雅さも持ち合わせている。絵画的なモチーフも、いかにもドビュッシーらしい。


 音源は、音兄が尊敬してるピアニストのCDから。黙って聴いてるけど、たぶん音兄は気づいてる。

 音兄がドイツに留学してた頃の、ピアノの師だ。



 雨は、あの日の苦い記憶も思い起こさせる。


 子供の頃、雨の庭を駆け回ってはしゃいでいたわたしと音兄は、五年前、悲しい試練の時を迎えた。

 二十歳の音兄と、まだ十五歳だったわたし。

 雨の中、庭に立ち尽くしていた音兄を、わたしはただ黙って見ていることしかできなかった。


(――理音、ごめん。俺はもう、ピアノを弾けない)


 冷たい雨に、音兄の涙が溶けていく。


 わたしがかけられる言葉はなかった。

「つらいなら、もう弾かなくてもいいよ」とも、「音兄なら弾けるよ、頑張って」とも言えなかった。

 ただ、黙ってうつむく兄の背中を抱きしめた。


 神様は、音兄にピアノの才能を与える代わりに、耐えがたい大きな試練を何度も与えたのだ。

 


 * * *



 一つ目の試練は、まだ音兄が十二歳だった頃。


 ピアノ制作技師ビルダーだった祖父が亡くなった。おじいちゃんっ子だった音兄は、祖父が遺したピアノを大事に弾き続けた。

 親戚か知人かわからないけど、誰かが音兄の演奏動画をネットに上げた。音兄の演奏は多くの視聴者の心をとらえ、やがて天才ピアノ少年として注目を浴びるようになった。


「ネットでの評判」は、音兄の評判を一気に押し上げたかと思うと――また、一気に叩き落とした。


 祖父が遺したピアノのうちの一台が、奏者が頭に思い浮かべた音楽を再現しながら演奏できる、「半自動演奏セミオート・プレイング」機能を備えていたからだ。

 もともとは、何らかの事情でピアノを思うように弾けない人にも素晴らしい演奏体験を楽しんでほしいという、祖父の優しさから造られたピアノだった。


 ちょうど、音兄が国内の学生音楽コンクールで優勝したのと同時期だった。

 おそらく音兄をねたんだであろう誰かが、「川波音葉の演奏は実力じゃない、インチキだ」と、ネットに執拗しつように書き込むようになった。音兄の演奏の全てが、ピアノの機能のおかげだという内容の中傷が続いたのだ。


 音兄はただ、大好きな祖父のピアノを弾いていただけなのに。

 まだ十二歳だった音兄が、人を信じられなくなるほど傷つく理由としては十分すぎる、心痛む経験だった。


 それでも、心通う音楽仲間たちに出逢い、音兄は前を向くことができた。音道おとみちさんや里琴りことさんに出逢ったのも、この頃だ。



 二つ目の試練は、音兄が十八歳になった頃。


 わたしたちの父は、仕事で常に海外を飛び回り、自宅へは滅多に帰ってこなかった。いっそのこと、音兄の留学と、持病がある母の療養を兼ねて、父が拠点としているドイツへみんなで引っ越そう、ということになったのだ。

 祖父のピアノがあるため自宅はそのままで、わたしも含めて家族みんなでドイツへ渡った。家族がやっと一つになれたような気がした。


 音兄は、ネットの中傷の件で名前を上げることに消極的になっていたものの、ドイツで師事した先生の薦めで、初の国際コンクールへ出場することになった。

 結果は、三位入賞。

 初出場で、日本人としては最年少の入賞という快挙に、会場となった現地の人々も、日本の音楽ニュースも大いに盛り上がった。

 わたしも、母と一緒に会場で感動の瞬間を味わった。


 ――ただ、父だけが、結果を知らないままだった。

 父は会場に向かう途中で、大規模な列車事故に巻き込まれ、亡くなった。

 わたしたちがそのことを知ったのは、コンクールの翌日になってからだった。


 その日から、音兄は、自分の感情を言葉にしなくなった。

 そして、ピアノを弾かなくなった。

 言葉にしなくても、音兄が自分を責める言葉が、わたしには痛いほどに伝わってきた。


(――自分がピアノを弾かなければ)

(――留学しなければ)

(――コンクールに出なければ――)

 そんな言葉を、音兄は心の中で何度繰り返したのだろう。



 三番目の試練は、音兄が二十歳になった頃。


 持病で入退院を繰り返していた母は、父の死をきっかけに徐々に病状が悪化。

 父の死の二年後、後を追うように、病院で静かに息を引きとった。


 やっぱり何も言わないけれど、音兄は、母のことさえも自分のせいだと思い込んでいるのかもしれない。

 ピアノも弾かずに、一番献身的に看病を続けていたのは音兄なのに。


 わたしたちは、日本へ戻った。

 祖父のピアノがある自宅へ。

 雨の庭で、音兄は一人たたずんでいた。久しぶりに、自分の感情を言葉に変えて、消え入りそうな声でつぶやいた。


「――理音、ごめん。俺はもう、ピアノを弾けない」


 わたしは何も言えないまま、音兄の背中を抱きしめた。


「俺が、理音を守らなきゃいけないのに――」


 音兄は、自分のことよりも、わたしが両親を亡くしたこと、わたしが悲しい思いをしたことに傷ついていたのだ。


 音兄、優しすぎるよ。

 一番悲しんでいるのは、絶対に音兄の方なのに。


 わたしは、音兄に「頑張って」とは言えなかった。

 音兄は、わたしを守ろうと思ってくれている。わたしを励まして力を与える側でありたいと、思ってくれている。

 だから、わたしから励ましの言葉はかけない。

 代わりに、わたしがどんなに音兄を尊敬しているか、どんなに音兄のことが好きか、伝え続けていきたいと思っている。


 わたしが今、どんなに幸せなのかも。

 わたしは、兄を推す一番のファンなのだから。


 あれから五年。

 音兄は、ようやくピアニストとしての道を歩いていけるようになった。

 これまでの全てを音に込めて。以前よりも円熟した、深みのある音楽を奏でられるようになった。


 わたしだけじゃない。たくさんの人たちが、音兄の音楽を待っている。


 音兄は、まだまだたくさんの人を、幸せにできる。


 

 * * *



 音兄の運転で、わたしたちは墓地に到着した。

 わたしたち家族は大きな洋館に住んだり海外生活したりしてるけど、仏教なので、墓地はお寺にある。寺務所でお花とお線香を買って、目的の場所へ向かうと、突然真っ赤な色が目に飛び込んできた。


「……花」


 音兄がぽそっとつぶやいた。


 かすかに降る雨の中。両親のお墓に、たくさんの赤いカーネーション。

 お墓参りに来たら、すでに知ってる誰かが花を置いていった後だった……って、なんか、ベタすぎない?


「いづにいだー! 全く、ここまで来たんなら家に帰ってくればいいのに!」


 わたしは少し大袈裟おおげさに口を尖らせた。


 我が次兄、川波かわなみ伊弦いづる

 悪い兄ではないんだけど、音兄と違って茶髪だし、どこかチャラいし、ろくに連絡もよこさずにあちこちフラフラしてるしで、正直何を考えているのかさっぱりわからない。


 もう捜索願いを出した方がいいんじゃ? なんて思い始めた頃合いに、ひょこっと一言スマホにメッセージが送られてきたりする。一応まだ生きてはいるらしい。


 わたしが一番腹を立てているのは、いづ兄が放浪を始めたのが、ちょうど母が亡くなった後だからだ。

 音兄があんなに傷ついていた時期にいなくなるなんて。音兄が、「自分のせいで伊弦がいなくなった」って自分を責めたらどうするの。


 パッと見、音兄はいづ兄に関してはそこまで気にしていないように見える。

「あいつももう大人なんだし、元気に生きてるならほっとこう」って言ってたし。


 でも、時々心細くなる。

 どんな人生勉強をしてるのか知らないけど、今はもう、たった三人の家族なんだから。やっぱり、早く帰ってきてほしいよ。



 * * *



「足元、気をつけて」


 音兄が、わたしを気づかって声をかけてくれた。

 墓地から駐車場まで、少し急な階段を降りていく。足元が濡れていて、滑りやすくなってるかもしれない。


「つかまってもいいよ」


 差し出された手に、思わず顔が火照ほてった。

 

「大丈夫だよー」


 カップルや子供ならまだしも、いい大人の兄妹が手を繋ぐなんて、ちょっと恥ずかしいじゃないですか。いくら推し兄でも。


 はしに手すりがあるので、兄の後から手すりのそばをゆっくり慌てず下りていく。


 途中、突然、違和感があった。


 温玉ちゃんが、また不自然な動きをしている。わたしに何かを伝えようとしているみたいに。


「温玉ちゃん?」


 温玉ちゃんの方を見ながら、階段を一段降りようとして――


 足がもつれて、体が前のめりに空中へと傾いた。



 * * *



 気がつくと、階段の下。


 音兄が、わたしの下で地面に倒れ込んでいた。とっさにわたしを抱えて、守ってくれたんだ。


「音兄!」

「大丈夫か? 怪我は?」

「こっちのセリフ! どうしよう、音兄、指は、腕は、肩は――」

「俺は大丈夫。鍛え方が違うから」


 音兄は笑ってたけど、わたしを安心させるために平気な振りをしてるのかもしれない。情けなくも、わたしはこの上なく動揺していた。


 どうしよう、わたしのせいで、音兄が怪我をしたら! ピアノを弾けなくなったら!


 音兄は動揺するわたしを気づかって、これからかかりつけの先生に診てもらう、と言ってくれた。なんとか心をなだめながら、わたしは病院まで音兄を乗せて運転した。幸い、病院は車で十分ほどの近場にあった。


 音兄には、ピアノを長時間弾き続けることができる身体を維持するために、日頃からお世話になっている整形外科の先生がいる。

 事前に電話をしておいたので、到着後すぐに診てもらえた。ちなみに、先生も音兄のファンだ。


 わたしを抱えたまま、肩を地面で強く打ったはずの音兄は、本人が言うとおり、現時点では特に問題がないとのこと。湿布をもらって、しばらくは様子見ということになった。


「音兄、ほんとに大丈夫? 明日から地方を回るのに……」

「しばらくは演奏よりもインタビューやアドバイザーみたいな仕事が多いから。荷物も事務所の誰かに持ってもらうし、大丈夫だよ」

「音兄、ごめんなさい……」

「それより、理音は本当にどこも痛くない?」

「うん……」

「理音? やっぱりどこか打った?」

「違う……痛くて泣いてるんじゃない……。わたし、音兄がピアノを弾けなくなったら、どうしようって……」

「俺のピアノより、理音の方がずっと大事だろ」

「……え……」

「理音がいないと、俺のピアノなんてなんの意味もない」


 言葉が終わると同時に、音兄は背中を見せて歩き出した。


「帰ろう。『雨の庭』、夕食の時聴かせるから」

「え、ダメだよ!」

「平気だって。今ここで逆立ち歩きして見せたら納得する?」

「しちゃダメー!!」


 もう、いつもと同じ音兄だった。

 颯爽さっそうと歩きながらも、わたしの歩幅に合わせて歩調を緩めてくれる、いつもの音兄だった。


「理音、ほら階段。危ないから、ちゃんとつかまって」

「うぅ……すみません……」


 もう言い返すこともできず、わたしは音兄の手を取った。指が、てのひらが、温かくって、ちょっとくすぐったい。


 温玉ちゃんが、少し心配そうにわたしのそばに寄り添ってくれている。

 わたしは、頭の中で、あのときのシーンを何度も繰り返していた。


 確かに、足元に十分気をつけながら降りていたはずなのに。

 あのとき、わたしの足が、その場になかったはずの物を踏んだ。感触的に、野球ボールくらいの大きさと固さ。わたしはそれで、足を踏み外した。


 後で見返した時、それに近い物はどこにもなかった。

 あれはいったい、何だったんだろう――。

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