phrase19 The Bringer of Jollity(快楽をもたらす者)

 音兄おとにいとレヴィンさん。傑出した演奏家プレイヤーである二人の顔合わせは、予想とは全く違う形で始まった。


 ミラマリアさんが、鏡の中でほぉっと熱い息を洩らす。


『二人とも、やっぱり凄いよ……。音道おとみちおじさんの言う通り「音符での殴り合い」なのかもしれないけど、それでも十分に聴きごたえのある演奏パフォーマンスだった。少しでもズレてたら、ただの「音の暴力」になっちゃったんだろうけど。私にはズレなんて全然わかんなかったわ〜』

「わたしもそう思います。幸先さいさきのいいスタートだ、って考えてもいいですよね!」


 音兄は、音道さんと談笑中。

 二人の協演に、即応してくれる優秀な調律師さんの存在は欠かせない。音道さんとチュー玉ちゃんがいてくれて、本当に良かった。


 鏡の中、ミラマリアさんとは別画面チャンネルで、レヴィンさんが汗を拭きながらリーネルトさんにあれこれ話している。


『タオル渡したり、飲み物用意したり。リーネルトくん、やっぱマメだよね〜。嫁に欲しいわぁ』

「嫁……。でも、すごくしっかりした強い目をしてますよ」


 リーネルトさんは、時々ふっと思い詰めたような表情を見せる。彼も、今の演奏には大きな影響を受けたはずだ。

 先生がこんなに汗をかくほどの熱演。自分もいつかはその場に立ちたいと、思っているのだろうか。その時、まだオルガンが残されているかどうかはわからないけれど……。


 レヴィンさんは、よっぽど汗をかいたのか、グレーのジャケットを脱いでタオルで顔を拭いている。

 すじのある大きな手に、思わず目が吸い寄せられる。細いけれど力強い、形のいい長い指。あの指が、あれほどの音楽を生み出したんだ……。


 ふいに、顔からタオルを外したレヴィンさんと、目が合った。

 さっきまでの勝負モードとは全然違う、柔らかな目元がわたしに笑いかける。

 レヴィンさん、眼鏡がない顔も可愛い。わたしには、こんな顔を見せてくれるんだ。


 ……あ……

 どうしよう、わたし……


『おーい。あのー。もしもしー、リネさん?』

「……ふぇっ? ひゃいっ! なっ、なんでしょうっ?」


 ミラマリアさんが話しかけてる。あれ、わたし、今、何を……


『レヴィン先生って、リネの推し、だよね?』

「えっ! もっ、もちろんです! めちゃくちゃ推せる人です!」

『えーと、違ってたらごめん、なんだけど……。何と言うか、少し……先生に、ガチ恋、入ってません?』


「…………

 ……ガァッ!!??」


「なんだ今の!? 誰かゴキブリでも踏んだか!?」


 地雷を踏まれてヒロインにあるまじき断末魔のような悲鳴を上げてしまったのはわたしですすみませんッ!


 ガチ恋ッ!

 そっ、それは! 夢小説書きとして、ハマったらダメなやつ!


 推しは、あくまで推しなんだー!

 ガチになったら、あかんのやー!!



 * * *



 わたしが奇怪な雄叫おたけびを上げている間に、レヴィンさんとリーネルトさんが演奏準備を進めていてくれたらしい。

 音兄と音道さんに、オルガン演奏を聴かせてくれるという。

 二人にとっては、初パイプオルガン。協演のための大事な演奏なのはもちろんだけど、音兄がどんな反応をするのか楽しみ!



♬グスターヴ・ホルスト作曲

 組曲『惑星』作品32

 第4曲『木星、快楽をもたらす者』



 きらめく音の波が、瞬時に世界を宇宙空間に染め上げた。


『木星』。レヴィンさんがこの曲を選んだのは、クラシックの通常のオーケストレーションがオルガンによってどう変わるのか、音兄に聴いて欲しかったからだと思う。


 温玉おんたまちゃんとチュー玉ちゃんが、リズムに合わせてテンポよく踊り出した。

 今まで何度となく聞いてきた、有名な旋律。金管・木管・弦楽のそれぞれの役割がはっきりし、次々に入れ替わりながら多彩な音色を楽しませてくれる。


「一人オーケストラ」状態のパイプオルガンは、この曲の魅力をオーケストラに負けない迫力で存分に引き出してくれる。無数の星の光を想起させる、さざめくような弦楽の波。勇ましいトランペットと可愛らしい木管が心躍る旋律を歌い、足鍵盤による重低音が深部から振動を起こして鼓膜に揺さぶりをかける。


 おそらく、パーカッション以外の全オーケストラ楽器を、レヴィンさんは両手両足で見事に作り出している。

 もちろんリーネルトさんも、タイミングを合わせながら何度もストップを操作している。

 エレクトーンでもよく奏される曲だけど、発声が、響きがどう違うのか、音兄なら説明がなくてもすぐにわかると思う。


 音兄の目が輝き出した。

 演奏のレベルの高さに感銘を受けている、だけじゃない。


 宝箱のように、次から次へと現れる色とりどりの楽器たち。時に聴く者をワクワクさせ、時に深い郷愁をかきたてる、壮大な旋律。


 この曲は、音楽が持つたくさんの魅力を、音を奏でる楽しさを思い出させてくれる。


「全然違う曲だけど、昔弾いた『ドリー』を思い出した」


 演奏が終わった後、音兄はわたしにそう話してくれた。

 子供の頃二人で弾いた、ピアノの思い出の曲だ。まだ、ピアノの音が何のうれいもなく輝いていたあの頃。


「あの時は、楽しかったな」

「うん」


 まだまだたくさん、楽しい出逢いがあるよ。

 音兄はこれからもずっと、音楽を楽しんでいいんだよ。

 言葉には出さず、わたしはそっと、心の中で兄に語りかけた。



 * * *



『管弦楽曲をオルガン編曲したらどうなるか、だいたいわかっていただけたと思います』


 演奏を終えて、席を立ったレヴィンさんが音兄に話しかけた。


『私たちが協演する曲のイメージを、ある程度つかんでもらえたでしょうか』

「協演する、曲……。曲って、もう決まってるのか」


 音兄がわたしを見た。

 わたしはうなずいて、「わたしの希望で――」と言おうとしたけれど、その前にレヴィンさんが言葉を挟んだ。


『シューマンの、ピアノ協奏曲です』

「――!」


 音兄が、目の色を変えた。

 もう一度わたしを見るけれど、まるでその視線をさえぎるかのように、レヴィンさんが言葉をつなぐ。


『オトハさんがピアノ、私がそれ以外のオーケストラを担当するという形での協演です。あなたの真価を発揮するのに、ふさわしい曲だと思います』


 音兄が何かを言いかけたけど、レヴィンさんが間髪入れずに話を続ける。


『曲を決めた一番の理由は、ちょうど他のピアニストから同曲でのオファーが来ているからです。こちらとしては、曲を統一していただけた方がスケジュール的にありがたいので』


 レヴィンさんは、知っている。

 過去に音兄がこの曲で国際コンクール入賞を果たしたことも、そのコンクール当日にわたしたちの父親が亡くなったことも。

 音兄にとって、最もつらい傷を刻んだ曲であることも。わたしが、もう一度音兄に弾いてほしいと切望していることも。


 知っていて、あくまでも「自分が自分の都合で持ちかけたオファー」とでも言うように、事務的に話を進めている。


 音兄の傷をえぐってしまうかもしれない提案を、わたしがしたのだと思わせないように。嫌な役回りを、自分から引き受けてくれているんだ。


 音兄にしても、過去のことを持ち出され、「弾けるか弾けないか」を心配されたり、メンタルの弱さを思い知らされるような形になるのは、プライドが許さないはず。

 たった今、「同じステージに立つ最大のライバル」と認めた、レヴィンさんだからこそ。


「――わかりました。早速スケジュールを詰めましょう」


 音兄が、決めてくれた!


 一度やると決めた演奏は、決して放棄しない。

 音兄ならきっと、過去にわたしが泣いた名演を越える演奏を聴かせてくれる。

 音兄自身も、未来に向かって、大きな一歩を踏み出せる。

 レヴィンさんと一緒なら……!



 * * *



 レヴィンさんに、時間がないのは本当だ。

 政府によるオルガン解体の期限が迫っているのに、その政府によって、コンサート本番の予定をいくつか入れられてしまっている。担当議員の一人、リーネルトさんの父親が絡んでいるのは間違いないとのこと。


『話題を集めたいだけなんですよ。「不幸にも解体せざるを得ないオルガンの、有終の美、最後の響き」とか言って……。まるで自分たちの功績みたいに、先生や今まで聴きに来てくださっていた皆さんの地道な努力をかすめとろうとしているだけなんです』


 リーネルトさんが苦々にがにがしげに言う。

 尊敬する師から、かけがえのない楽器を取り上げようとしているのが自分の親だなんて、まだ十五歳の彼にはつら過ぎる現実だ。


 ミラマリアさんも話に加わった。


『工房の人たちは、もうあきらめちゃったの? 最近全然情報が入ってこないんだけど』

『尽力してくださったミラマリアさんには申し訳ないのですが、政府のチェックが予想以上に厳しく、部品一つ、パイプ一本さえ持ち出せるすきがありません。工房は、もう諦めてしまったようです。もともと、中世にたんを発する手工業ギルドが、門外不出の技術を限られた徒弟とていに継承させることで続けてきた世界です。このまま、技術もろとも滅びの時を待つのも運命だ、と』

『なんだそれッ!』


 レヴィンさんの返答に、ミラマリアさんの口撃が火を噴いた!


『言い分はわからなくもないけど、これだけの技術を結集した楽器を失うことを、人類は必ず後悔する! 完全な形でなくてもいい、いつか再び造ることができるように、データだけでもどこかへ保存しておかなきゃいけないの! なのに、技術の大元おおもとである工房がそんなんじゃ――』

『仕方ありません。彼らにも家族がいるんです。これ以上、政府に目をつけられるような危険な真似はさせられません』

『何が政府よ! どうせあと十年くらいで消えてしまうくせに!』


 その時、空気が変わった。

 鏡に映るレヴィンさんの世界が、急に真っ暗になった。レヴィンさんが、鏡に何かをかぶせて隠したんだ。


『よー! 悪いな、またアポなしで来ちまったぜー!』


 その声は、グリズリー・ピアニストだ! 名前忘れたけど!


「レヴィンさんがシューマンを協演する、もう一人のピアニスト」と、わたしは小声で音兄と音道さんに伝えた。

 音道さんには、レヴィンさんの世界のオルガン事情をまだきちんと伝えてはいないけど、何か深刻な事態であることを察してくれたみたい。


『隠しても無駄ですよ。また、例の女性と話していたんでしょう?』


 また、聞きたくない声が加わった。爬虫類ことマネージャーだ。名前忘れたけど。


『前にも申し上げましたが、私には何のことだか……。本番の打ち合わせなら応じます。ベンカーさん、何か気がかりでも?』


 レヴィンさん、冷静に対処してくれてる。


『俺じゃなくて、この爬虫類、じゃなかった、トゥーマンがさ』


 グリズリーにまで爬虫類って呼ばれてる。


『なんか、ずっと探してる人がいるらしいぜ』

『尋ね人でしたら、私よりも新聞社か警察に……』

『イヅル・カワナミという男を探している。この町にいたのは間違いない。聞いたことがあるだろう?』


 わたしの横にいる音兄が、息をんだ。

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