phrase20 「飛揚(ヒヨウ)」という組織

『イヅル・カワナミという男を探している。この町にいたのは間違いない。聞いたことがあるだろう?』


 わたしの横にいる音兄おとにいが、息をんだ。

 ずっと案じていた弟の名が、鏡の向こうの、いかにも怪しげな男の口から出てきたんだ。冷静でいられるはずがない。


 肩の上にいた温玉おんたまちゃんが、怖々こわごわと鏡の上に飛び移った。

 鏡面はまだ暗いけど、あちら側の音声ははっきりと聞こえてくる。


『不思議な名前ですね……アジア系ですか? そう言えば、最近似たような名前をオルガン工房で聞いた気がします。工房でお聞きになってはいかがしょう』


 レヴィンさんは、やっぱり冷静に返してくれている。演奏家という人種はきっと、相応の胆力と演技力がないと務まらないのだろう。


『シラを切る気か、まあいい。この教会に接触してくるのは間違いないからな。今後何か動きがあれば連絡したまえ。私はこの国の政府とも繋がりがある。隠し立ては身を滅ぼすと覚えておきたまえ』

『たまえたまえって、何言っちゃってんだよ、お前』


 さすがに、「蚊帳かやの外」感が半端ないグリズリーが声をとがらせ始めた。


『俺の大事な協演相手だぞ? 一方的に脅すような真似はやめてくれよ。探し人がここにいないなら、もうそれでいいじゃねえか』

『部外者は黙っておけ』

『はぁ?』

『何の縁だか知らんが、お前がここへ出入りするというタイミングに、たまたまきがあった、それだけだ。協演とやらが済むまでは義理で付き合ってやるが、それ以上馴れ合うつもりも礼節を尽くす必要もない。せいぜい本番の成功だけを目指して頑張りたまえ』


 

 まさか、この爬虫類は、いづ兄と同じ「憑依者」――


『待てよ!』


 グリズリーが吠えた。


『お前、トゥーマンじゃねえのか? トゥーマンはどうしちまったんだよ!』

『離せッ!』


 その瞬間、激しい音が続けざまに何発も鳴り響いた。

 何かがぶつかったような音、壊れるような音、誰かの怒声、崩れるような音、そして――


『リーネルト!』

ッ!』


 レヴィンさんの叫びに、一瞬息が止まった。


 レヴィンさん! リーネルトさん!

 今のは? 何があった!?


 叫び出したい衝動を、自分の手で口を押さえて何とかこらえた。押さえる手まで震えてしまう。

 向こうの状況がわからない。声を発していいかどうもわからない。


 息が苦しい。

 ただ、待つことしかできない。


 レヴィンさん! リーネルトさん!

 無事なの!?

 祈ることしかできないなんて…… !!


 ずっと震えているわたしの肩を、強い手がつかんで引き寄せた。

 音兄が、じっと鏡を見つめたまま、わたしの体に手を回して押さえてくれている。いつもなら痛いと思うほどの力が、今はわたしの正気を繋ぎ止めてくれていた。


 それから、わたしたちにとって長すぎる一分が過ぎた。

 かすかに、歩行音と話し声が聞こえる。

 レヴィンさん? グリズリーの声? リーネルトさんは?


 ようやく、鏡面が明るくなった。

 鏡にかぶせてあった物が取り払われ、目の前に現れたのは――


『あー、こんなとこにいたかー』


 ――グリズリー・ピアニスト。

 名前は確か、ベンカー……



 * * *



 レヴィンさんは、リーネルトさんは、どこ?

 きたいのに、なかなか声が出ない。


 ベンカーは、わたしたちを見て、何故かすごく優しそうな顔でにっこりと微笑んだ。


『ほら、レヴィンさん、みんな心配してるぜ。顔見せてやんな』


 ベンカーがその場からどいて、次に現れたのは――レヴィンさん……!!


『すみません、皆さん。お騒がせしました』


 レヴィンさん、良かった……!

 少し髪が乱れてるみたいだけど、それ以外は特に変わりないように見える。


『レヴィンさん! 今、何があったんですか? リーネルトさんは?』

『そうだ、リーネルト!』


 レヴィンさんは声を上げて、また引っ込んでしまった。まさか、リーネルトさんに何か……


『少し顔を切っただけです。かすり傷だから、心配しないでください』


 姿は見えないけど、リーネルトさんの声が飛んできた。良かった、無事――ではないけど、軽傷みたい。でも、顔を切ったなんて……。


『すぐに手当てしよう。救急箱もらってくる。それから病院へ』

『大丈夫です、こんなのすぐ治ります』

『君も音楽家だろう。顔は大事にしなきゃ』


 レヴィンさんはリーネルトさんの手当てに忙しそうだ。牧師さんや事務員たちも駆け込んできたらしく、場が一気に騒がしくなった。


 本当に、何があったんだろう?

 そう言えば、原因と思われるあの男――爬虫類の姿が、さっきから見当たらない。


 また、ベンカーが現れた。


『すんません。が卵を飛ばして攻撃してきたんで、ぶっ飛ばしました。ほんとはもうちっと吐かせたかったんだけど。このまま「飛揚ヒヨウ」に引き渡します』


 ベンカーが示す先に、あの男、爬虫類が倒れている。

 ベンカーが、レヴィンさんたちを助けてくれた?

 でも、今の、日本語じゃなかった⁇

 それに発言の内容も……


潮時しおどきね。もう、あんたの正体教えてあげなさいよ』


 ミラマリアさん?


 落ち着いた声。ミラマリアさんは、何かを知っているみたいだ。

 それに、さっき、とっさに何か言わなかった? 確か――



 ――そう、あの時も、彼女はそう言ったのだ。



 * * *



伊弦いづる……?」


 音兄がつぶやくと、ベンカーは頭をかきながらすまなそうに頭を下げた。


『すまん、兄貴、それに理音りねも。音道おとみちさんも、久しぶりっす。今こんなナリだけど、俺です。伊弦です』


「伊弦ぅ!?」


 音道さんが、頓狂とんきょうな声を上げた。


「お前、しばらく見ない間にずいぶん……図体デカくなって、外国人みたいになっちまったな?」

『えーと、中身は俺だけど、この身体は別人なんすよ、あはは』


 ベンカーは、いづ兄だったんだ。

 工房で別の人に憑依していたいづ兄が、今度はピアニストになり変わっていた。


 そして、今やっと、わたしたちの前に姿を現してくれた。


「いづ兄、どうして? なんで、今まで何も言ってくれなかったの?」

『ごめんなー。マジで色々あって。全部話すと長くなるから、なるべく短く言うわ。俺、今、卵を管理してる組織で働いてんの。カッコよく言えばエージェント、みたいな?』

『潜入員ってことね』


 ミラマリアさんは、知ってたんだ。


「ミラマリアさんは、何故いづ兄のことを?」

『今まで黙っててごめんね、リネ。私も最初は知らなかったんだけど、軍の関係者として、作戦行動に関する相談を受けたのよ。彼が属する「飛揚ヒヨウ」って組織から。つまり、彼らの顧問的な立場なの』


 全然知らなかった……。いつの間に。


『「飛揚ヒヨウ」には、温玉ちゃん以外の、異世界と通信できる卵も常駐してる。イヅルのように異世界に飛べる卵や、憑依できる卵も。当然、「飛揚ヒヨウ」の他にも、トゥーマンの中に入ってるやつのように同水準の力を持つ者がいる。こういう卵はまだまだ数が少ないし、組織もできたばかりだけど、卵を悪用して世界を越えて荒らそうとする奴らがいる以上、誰かが把握して止めなきゃいけない。イヅルはそのメンバーとしてスカウトされた。オルガン工房で働いてる時にね』


 ミラマリアさんはずっと、他の世界の存在を知りながら、不当に情報を奪ったり干渉したりしないように気を配っていた。純粋に、楽器の研究のためだけに活動してた。きっと、そんな姿勢が評価されて、「飛揚ヒヨウ」という組織から声がかかったんだろう。


(絶対に、これ以上リネに危害は加えさせない)


 いつかの言葉を思い出す。あの時すでに、ミラマリアさんは「たまごの力を悪用しようとする勢力」と、戦う決意を固めていたんだ。


『だって許せないじゃない? この世界からパイプオルガンが奪われているのは、こいつらが政府と手を組んで干渉したせいでもあるのよ。いずれ私の世界のように、全ての楽器を消すつもりかもしれない。人間たちを管理しやすくするためにね。私は、断じて許さない。楽器と音楽を愛する人々を守るためなら、何だってやるわ』

『さっすが姉御アネゴ、めっちゃカッケーっス! 俺、絶対ついていきやす!』

『姉御はやめい』


 しばらくほうけたように話を聞いていた、音兄と音道さんは。


「……まあ、何かの役に立ててるのなら、まだマシか……?」

「なんか、よくわかんねえけど立派そうな仕事じゃねえの? 無職でフラフラしてるんじゃなくて、よかったんじゃねえか? たぶん」


 と、ちょっとズレたコメントを残したのだった。



 * * *



 翌日。

「見た目はベンカー」のいづ兄が、再びわたしと音兄の前に姿を現した。


『何とか協演の話はつぶさずに済んだからさ。レヴィンさんとの協演、やれよ、兄貴』

「え……」


 音兄、わかりやすく困ってる。


「かなり問題ありだと思うんだが……。この協演は、お前がもともとやる予定だったよな?」

『俺、っていうか、ピアニストのベンカーね』

「お前、いつまでその身体でいるんだよ。ピアノ弾けないくせに、本番どうすんだよ。マネージャーまでいなくなったし」


 いづ兄はポリポリと頬をかいた。

 仮にも、借り物でも、世界的なピアニストの顔と指なのに。大丈夫かな。


『マネージャーはちゃんと戻ったぜー。中に入ってたやつのを発見して、脅して、全部元通りだ。昨日のあいつはひでーやつだったけど、本物のトゥーマンはちゃんといいやつでさ。この身体に残ってるベンカー本人の意識が、助けたいと訴えかけてくるのがわかったんだ。だから、ちゃんと戻してやらねえと、ベンカーに悪いもんなあ』

「すでにかなり悪いことになってるよな。ベンカーの意識もにあるのか?」

『あるよー。しばらく休みたいって言うからさ、ちょっとばかり身体の主導権を借りたんだよ。まあ、酒の席だったし、本人も本当に借りられちゃうなんて思わなかったかもなー。心配しなくても、兄貴とレヴィンさんの協演が済んだら、身体返して、本人に改めて演奏してもらうさ』


 そうだ。そもそも、ベンカーとレヴィンさんの協演話がなければ、二人とも教会へ来ることはなかったはず。


「いづ兄。ベンカーとレヴィンさんの協演の話は、いづ兄が言い出したことなの?」

『うんにゃ。もともと政府筋が依頼していたらしいけど、ベンカー本人も乗り気だったんだ。レヴィンさんの実力には、ベンカーもすぐにれ込んじまったからさ。俺が口出ししたのは、シューマンをやりたい、っていうプログラムの希望だけ。そうすりゃ、政府の奴らが視察に来たとしても、ベンカーとゲネプロやってるフリしながら堂々と兄貴と協演できるだろ?』

「曲を決めたの、お前かよ……」


 音兄はあきれ顔だ。


「レヴィンさんには理音が頼んだんだろうし。二人とも、俺のメンタルを過小評価してる」

「ごめんなさい、音兄」

『俺も理音も、もう一度アレが聴きたかったんだよ。ピアノやらねえ俺でも、あん時の兄貴はすげえっ! って、今でも思ってるんだからな』

「七年前だぞ。お前の『兄貴凄え』なんて、あっという間に更新してやるよ」


 兄、弟、妹の三人が顔を合わせて、互いの気持ちを語り合う。こんな場面、何年ぶりだろう。


 残念ながら、懸念けねんの全てが片付いたわけじゃない。

 政府によるオルガン解体はまだ進められているし、「飛揚ヒヨウ」の敵勢力も確実にどこかに潜伏せんぷくを続けているという。


 でも、どうか、せめて協演が終わるまでは――


 互いの鏡の前で、温玉ちゃんと、滅多に姿を見せないいづ兄のたまご(わたしはぴょん玉ちゃんと呼んでいる)も、楽しそうにピョコピョコとお話しているのだった。

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