phrase21 協演前夜(side音葉)

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えます。よろしくお願いします」


 丁寧に頭を下げながら、音兄おとにいは電話を切った。


関川せきかわさん、なんて?」

「今あっちへ行っても、口開けて寝こけてるマヌケづらがあるだけだから、が戻ってくるまでわざわざ来なくていいって」


「マヌケ面」とは、他でもない「いづ兄の本体」のことだ。


 こっちの世界に残されているはずの「本体」の場所をいづ兄本人にいたら、わたしたちがよく知っている老ヴァイオリニスト・関川せきかわ百尋ももひろさんが、融通のきく病院で預かっているとのことだった。

 わたしは関川さんが経営するパブ&カフェでバイトしているし、音兄も今まで数えきれないくらいお世話になってきた。さらにいづ兄まで大変なお世話になってると聞いて、恐縮してしまう。


「さすがに何の挨拶もなしっていうのも……。音兄は忙しいから、わたしが顔見に行ってくるね」

「そうしてもらえると助かる。関川さんには、適当にケリ入れといてくれって言っといた。理音りねも入れてくれば?」

「蹴ったらわたしが痛いから、落書きでもしてくるよ」

「それはもうしてあるって」

「じゃ、わたしも書き足して、写真撮ってくるね!」


 いづ兄は、もう五年近くも、あの世界とこの世界を行ったり来たりしていたらしい。たまに入るわたしたちへのメッセージは、こっちに帰ってきたタイミングで入れたものだったんだ。


 それにしても、水臭いじゃないか。

 いくら得体の知れない勢力に狙われているからって、生存報告以外に何も教えてくれなかったなんて……。


 きっと、いづ兄なりに、わたしたちを巻き込まないように考えてくれたんだろう。

飛揚ヒヨウ」のメンバーがサポートしてくれていたとはいえ、家族に何も言えない状況は孤独だったはずだ。

 でも、いづ兄はそんな感情を微塵みじんも見せない。昔からそうだ。

 ピアノに傾倒し過ぎてたまに不安定なところがある音兄と、もともと何の取り柄もないわたし。チャラけた振りをしていても、いづ兄はわたしたち兄妹の心の支えだった。



 * * *



 関川さんに連絡を入れて、菓子折りを持って挨拶に行くと、「なんだ、わざわざ来たんか」と、そのまま病院まで案内してくれた。


 関川さんは、若い頃クラシック界の第一線で活躍しながらも、アイルランドの音楽に魅せられて、自分のアイリッシュパブ&カフェを持つようになった。ポルカを踊りながらのヴァイオリン演奏は、今でも店の名物だ。

 八十歳越えとは思えないほどフットワークが軽く、活力にあふれたお爺さんなのだ。わたしも音兄も、こんな年の取り方ができたらいいな、とひそかにお手本にしている人だ。


 久しぶりに見るいづ兄は、確かにベッドで幸せそうに眠りこけていた。温玉おんたまちゃんが体の上をポンポン跳ねると、何かを食べてるみたいに口をもぐもぐし始めた。あっちの世界で何か食べてるのかな。

 たまに戻ってきては筋トレしているそうなので、筋肉は思ったほど落ちていない。ただ、茶に染めていた髪はさすがに黒に戻っていた。


 おそらく、この病院周辺も「飛揚ヒヨウ」のメンバーが警護しているはず。

 わたしが墓参りの時に卵で攻撃された後、それ以上の攻撃・干渉を受けなかったのは、陰ながら「飛揚ヒヨウ」メンバーが動いてくれていたのだと、後になって聞いた。

 組織の性格上、彼らが必要もなくわたしたちの前に姿を現すことはないという。まるでスパイ組織、隠密おんみつ集団のようだ。


 いづ兄が身を寄せているのだから、信頼できる組織なのだと信じたい。


 関川さんにペンを借りて、「早く戻ってきてね」と、腕に小さく書いておいた。



 * * *



 時間がないのは、レヴィンさんだけじゃない。

 音兄も、こんな時くらいしばらく家にいてほしいのに、三日後からまた海外に行かなきゃならなくなった。


 急ピッチで協演のスケジュールが組まれた。今日明日で音合わせ、ゲネプロ。明後日あさってに本番。

 プロならば不思議じゃない特急スケジュールだけど、この「世界を越える協演」は何もかもが想定外過ぎて、うまく行かない理由ばかりを思いついてしまう。

 でも、きっと二人なら何とかできる。心から、そう思えるのだ。


 音兄にとっては、すでに弾いたことがある曲なのでさほど負担はない。

 わたしが出かける時には、ピアノの前でただ黙って譜面をにらんでいた。技術的なことよりも、今は曲との対話に時間をいている。


 これまでピアノにかけてきた時間の重みを、ただ一曲に変換して。人生を壊されるほどの記憶を、もう一度真正面からたどって。

 音兄は、音兄自身の戦いのステージへと向かおうとしている。



 * * *



 病院から戻ると、コンサートルームからピアノの演奏が聞こえてきた。


 シューマンじゃない。聴いたことがない曲だ。


 小さな粒が踊るような、可愛らしいメロディ。ポンポン跳ねたり、少し遠くへ遊びに出かけたり。

 少しずつ形を変えながら繰り返し、小さかった粒はやがて時の流れを現すような雄大なメロディへと姿を変えていく。

 曲の難易度もどんどん上がっていく。随所に一風変わった和音コードや装飾が現れ、そのたびに新鮮な驚きに包まれる。


 いつしか曲はクライマックスへと突入した。ダイナミックな両手の動きが、激しくも切ないメロディを歌い上げる。合間あいまに惜しげもなく超絶技巧ヴィルトゥオーソが駆け抜ける。


 やがてフィナーレへ。

 哀愁を帯びたメロディから、抒情的じょじょうてき和音コードを経て、終息。

 いつまでも余韻を残す、美しい響きだった。


 一言で言えば、「めっちゃわたし好みの曲」だ。誰の曲だろう。


「音兄。今の曲は?」


 音兄は、鍵盤から腕を下ろして振り返った。譜面台に譜面は置かれていない。


「理音の夜想曲ノクターン

「もー、またそれー? 誰の曲?」

川波かわなみ音葉おとは。今作った」

「……マジ?」


 わたしは急ぎ足でピアノまで近寄った。


「音兄、曲作ってたの?」

「音合わせまで少し時間があったから」

「今の曲、めっちゃいい! エモい! お願い、録音させて! でもタイトルはちゃんとしたの付けて!」

「なんで。本当に理音のために作った曲なのに」


 音兄は、ため息をつきながら立ち上がった。


「やっぱり、全然通じてないんだな。俺の演奏は全部、理音のためなのに」

「え……」

「今まで、ずっと言ってきたよね。理音の曲だ、って」


 今まで、ずっと言ってきた……?


(この曲、なんていうの?)

(『理音の組曲』だよ)


(音兄、今度何弾くんだっけ?)

(理音のソナタ)


(全部『理音のテーマ』でよくない?)


 ――全部、音兄流の冗談だと思ってた。


「俺にとっては全部、『理音のテーマ』なんだよ。もちろん今の曲も、シューマンも」


 知らなかった。わたしが今まで推してきた演奏は、すべて――


「理音がいなきゃ、俺はもうピアノの前にいなかった」


(理音がいないと、俺のピアノなんてなんの意味もない)


「兄のくせに重いとか、気持ち悪いとか、思っても構わないよ。でもこれ、俺の本心だから」

「……え?」


 わたしにとっては、意外な言葉だった。


「普通は思うものなの? 重いとか、気持ち悪いとか」

「……思ってないなら、別に思わなくていいけど」

「わたし……うまく言えないけど、ものっすごく、恵まれてるよね? 世界中の音兄ファンがうらやむようなことを、言ってもらったんだよね? こんなにも素敵な演奏を、たっくさん独り占めできて……曲まで作ってもらって……わたし、こんなに幸せでいいのかな……」

「いいんじゃない?」


 音兄の長い指が、そっとわたしの鍵盤ヘアピンに触れた後、わたしの頭頂部をわしゃわしゃとかき回した。


「協演前に言えて良かった。ちょっとスッキリした」

「音兄。わたし、こんなに素敵なものをたくさんもらっても、全然なんのお返しもできないよぅ……」

「別にいいんじゃない。理音はそのままで」


 音兄、わたしのこと甘やかしすぎだよね?


「っていうか、本当にそのままで良かったんだけどな……。子供の頃から、理音は俺の音だけに夢中だと思ってたのに。そんなわけないってわかってても、実際に具体例が出てくると『マジか、もう来やがった』って心境になる」

「具体例? ……レヴィンさんのこと?」

「正直、最初は気に食わなかった。でも今は、理音が惹かれる理由もわかるし、なんだかんだで彼とは気が合うと思う」

「うーん。複雑なんだね」

「そう。複雑な男心オトコゴコロなの」


 音兄は笑いながら、ピアノにシューマンの譜面を並べ始めた。もうすぐレヴィンさんとの音合わせの時間だ。


「あ、そうだ。何も返せないって言うなら、ハグして、ハグ。音合わせ用の活力に。ほら」

「ひゃーっ! ムリッ! イケメンハグとか理性が爆発するーッ!」

「別にそれくらいいいじゃん。理音もドイツにいたくせに全然慣れないなー」


 と言いながら、頭をポンポンしてくる。

 わたしがほっとしてると、フェイントで急に抱きしめられた。


「きゃー! ギブギブ! 夢はガチにしたらあかんのやーッ!」

「また変なこと言ってる。理音って時々挙動不審だよね」


 すみませんいつもです! 音兄、まだ離してくれないー!


 でも、背中をポンポンされると、単純なわたしは不思議と落ち着いてきた。

 なんだか、子供の頃を思い出す。相手はお父さん? お母さん? それとも……


 頬に、くすぐったくて温かな感触。

 これ、小さい頃、よくしてもらったっけ……。


 ……って、あれ? 今の、音兄?


 硬直したわたしに向かって、音兄が至近距離で「黒鍵王子スマイル」を見せた。


「ったく、もう二十歳なのに、中身がこんなにお子様だと先が思いやられるよね。大人として色々教えてやってよ、レヴィン」

「ぎゃー! レヴィンさん見ないでー! 音兄離してーッ!」


 鏡の向こうでは、レヴィンさんが両手に抱えた譜面をバサバサと全部落としていた。

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