phrase22 協演前夜(sideレヴィン)

 音兄おとにいがやっと離してくれた。

 レヴィンさんは鏡の向こうで、何故か譜面を全部バサバサと落としたまま、何もせずに立ち尽くしてる。


「レヴィンさん、うるさくてすみませんー! 兄がふざけるものだから……」

『あ、いえ、うらやま……じゃなくて、仲睦なかむつまじくて、何よりです……』


 レヴィンさん、何だか顔が赤いような……。

 向こうを向いて、顔を隠してしまった。


 レヴィンさんにみっともないとこ見られちゃったー。

 兄妹でハグにホホチューだもんなー。海外仕様に考えても、うん、やっぱり恥ずかしい。


「あのっ、協演前にこんなこと言うのもなんですけど。兄は時々かなり変なんで、気にしないでくださいね」

『あ、はい。わかってます、大丈夫です』

「レヴィン、そこは形だけでも否定してよ」


 音兄は笑いながら、ピアノ椅子に腰を下ろした。

 温玉おんたまちゃんが鍵盤上をポンポン飛んでいるので、簡単な曲を教えて遊んでいる。


 レヴィンさんの足元では、リーネルトさんがブツブツ言いながら譜面を拾い上げている。

 やっと気づいたレヴィンさんが一緒に拾おうとしたら、その前にリーネルトさんが最速で全部集めてすいっと先生に差し出した。バラバラに散らばった譜面を全部、もとの順番通りにして。彼のアシストはもうプロの域だ。


 リーネルトさん、いつも通りで安心した。頬に貼られた白いテープが、痛々しいような、男の子らしくてちょっとカッコいいような。


「リーネルトさん。顔の傷、大丈夫ですか?」

『全然大丈夫なんで、心配しないでください。先生が大袈裟おおげさに言っただけなんですよ』


 紳士な返答をくれた後、リーネルトさんは少し周りを見回してから話を続けた。


『それより、ベンカー氏がリネさんの関係者だと聞いて、驚きました』

「あ、あはは……」

『僕よりも、ベンカー氏の方が怪我をしてても不思議じゃないんです。あの時、ベンカー氏とマネージャーの間に何があったんでしょうか』

「えーと、音楽性の違いってやつ?」

『呼んだー?』


 紳士なリーネルト少年が『ぎゃー!』と声を上げた。

 いつの間にか、レヴィンさんがグリズリーに背後から抱きつかれてる。猛獣に絞め技食らってるようにしか見えない。


『こっちは理音りねの代わりに俺がハグしといてあげるねー!』

『うぐ、あの、ちょ』

「いづにいやめて! レヴィンさんに獣臭ケモノシュウすり込まないでーッ!」

『それベンカー本人が聞いたらクソ落ち込むと思うよ?』

「レヴィン、スリーパーホールドの外し方知ってる?」

『先生、神に召されるにはまだ早すぎます!』


 いづ兄のせいで大騒ぎになったけど、リーネルト少年のローキックが絶妙な角度で猛獣の脚に入り、先生は無事に救出されたのだった。



 * * *



『わりーわりー。ちょっとばかしテンパってたから、息抜きになればなーって思ってな』


「見た目ベンカー」のいづ兄が、悪びれもせずニカニカと笑う。病院でチョビヒゲ書き込んでやればよかった。


「テンパってたって、誰が?」


 大曲たいきょくの本番前だから、誰もが緊張するのはわかるけど、そんな当たり前の意味ではないように聞こえる。


『んーと、こっちのみんな、かな』

「何か問題が?」


 音兄が、真剣な表情で鏡の前に来た。

 まさか、また新たな敵が? それとも政府が何か?


 いづ兄から聞いた「問題」は、わたしと音兄を飛び上がらせるに十分だった。


「ええっ!? パイプを、今から新しく作るー!?」


『そーなんだよ。もう徹夜で突貫工事』

「四千本もあるのにまだ足りないの!?」

『微妙に足りない。ここまで来たら、職人のこだわりっつーか、男の意地なんだけどな』

音律おんりつの問題か」


 音兄が重い口調でつぶやくと、レヴィンさんが『そうなんです』といだ。


「理音も知ってるだろ。古典楽器であるオルガンは、ピアノとは調律法が違う」


 調律法――。

 現代のわたしたちが普段意識せずに接している音楽は、「十二じゅうに平均律へいきんりつ」と呼ばれる調律法によって音の高さピッチを決められている。


 一オクターブの音数は十二。各音が、一オクターブ分の幅をきっちり十二等分した高さとなる。つまり、音と音の幅がどこを取っても全く同じ。

 この「十二平均律」のメリットは、移調や転調をしても曲調が変わらないこと。多くの音楽ジャンル、他の楽器との協奏に幅広く対応できること。


 対し、「十二平均律」よりもはるか昔から用いられてきた、「純正律じゅんせいりつ」と呼ばれる調律法がある。


 平均律と違い、音の幅は不均等だ。この調律法で演奏できる曲は多くはない。限られた音域、限られた和音、調。移調も転調もできず、狭い条件の中でしか鳴らせない。


 その不便さをおぎなって余りあるほどの、何のうなりも雑音もない、真に「純正」な響き。

 主に教会で用いられてきたその響きは、「神の音楽」と呼ぶにふさわしい。一度その魅力に捕らわれた者は、二度と平均律の響きを良しとは思えなくなる――とまで言われている。


 平均律は、「便利な代わりに全ての音が少しずつずれている」のだそうだ。

「平均律が蔓延はびこった時、人の世からハーモニーが消えた」なんて言葉まである。


 ここに、ピアノならではの悲哀がある。

 自分で演奏しながら音程を調整できる弦楽器や管楽器、声楽などと違い、ピアノは一度の調律で幅広いプログラムに対応しなければならず、平均律に頼らざるを得ない。

 ショパンはコンサートの時、純正律で調律されたピアノを調ごとに十一台用意した――なんて話もあるが、さすがに今の演奏家にとっては現実的じゃない。


 この問題に対応するため、様々な試行錯誤が繰り返されてきた。

 指先の繊細なタッチで、平均律の唸りを軽減させ純正に近づける演奏家。

 伸ばした音の唸りを打ち消すためのビブラート。

「純正律」と「十二平均律」の特徴をミックスさせた、様々な名前が付けられた調律法。


 レヴィンさんが『革命』を弾いた教会のピアノは、通常の「十二平均律」に調律してあった。一度「十二平均律」に慣らした上で、オルガンと少しずつ合わせていく予定だったそうだ。


『このオルガンは、平均律に近い「ヴェルクマイスター第三調律法」をもとに調律してあります。従来なら、これでシューマンの協奏曲にものぞめるはずだったんですが……やはり、欲が出てしまったんです。これが最後の演奏曲かもしれない、と思うと――』

「レヴィンさん……」


「最後の演奏曲」という言葉に、胸が締めつけられる。


 調律一つを取っても、作曲家と演奏家、それぞれの意思と時代の情勢が絡み合う。

 シューマンは、ショパンやリスト、ブラームスたちと同時代の作曲家。

 彼らの時代には、平均律も純正律も存在していた。ショパンのように、平均律を良しとしなかった作曲家も多い。

 実際のところ、録音機器がなかったこの時代に、どの曲がどんな調律で演奏されていたのか、証拠は何もない。想像するしかないのだ。


「シューマンがえがいたと思われる音に少しでも近づけたい、ということなんだね」


 音兄が確かめるように言うと、『そういうこと!』と、今度はいづ兄からこたえがあった。


『今あるパイプを削って調整できるやつはそうしてる。でもそれだけじゃ足りなくて、何本か新たに作ってんだ。俺はこの身体に入る前、五年近く工房に出入りしてた。ここのオルガンのメンテにたずさわったこともあるし、この前レヴィンさんがバッチリ説明してくれたから、楽器の現状もだいたいわかってる。工房の仲間たちも、何人かは手伝ってくれてんだ。だから、明後日あさってまでに絶対間に合わせる!』

「って、お前。工房の仲間に、その姿で伊弦いづるだと名乗ったのか?」

『まあ驚かれたけどな。俺の正体は、外見より技術で納得させた。これが職人の世界ってものだぜ!』



 * * *



 ほんとかよ、とこぼす音兄の前で、いづ兄はパイプ作りのために全速力で教会を出ていった。


「どうせ壊される楽器なのに」とは、誰も言わない。レヴィンさんやいづ兄の思いがとても大切なものだと、きっと誰もが感じている。


 代わって鏡に現れたのがミラマリアさん。


『イヅルが工房をいい方向に動かしてくれている。やっぱり同じ工房の仲間は違うわね』

「じゃあ、工房の皆さんがまたオルガンの存続に協力してくれるようになるんでしょうか?」

『それはわからない。もちろん楽器本体をそのまま保存できるのが一番だけど、不可能だった時のために、情報だけでも――むしろ、本体以上に情報の保存の方が大事だと私は思ってる。物質はいつかは燃えたり壊れたり無くしたりするけど、情報があればまた一から作り直せるかもしれない。つまり、工房が命より大事にしてる、オルガンの「設計図」。イヅルには、何としてでも入手するように言ってある』


 何としてでもって……。いざとなったら、盗み出すってこと?

 本人は喜んで「モノ作り」してる最中だけど、ますますスパイみたいになってきた。大丈夫かな。


 ミラマリアさんは「飛揚ヒヨウ」の人たちと打ち合わせがあるとかで、そのまま姿を消した。

 そうか、「飛揚ヒヨウ」には色んなたまごの人たちがいるから、温玉ちゃんがいなくても異世界通話ができるんだ。


 みんな、本当にすごい。

 それぞれが自分の役目を理解し、最大限のパフォーマンスを生み出している。みんながそれぞれの分野の一流のプロなんだ。


 わたしには、何もない。

 温玉ちゃんがいなきゃ、音兄といづ兄がいなきゃ、何もできない。

 何かできることはないだろうか。わたしだって、みんなの力になりたいのに……


『リネさん』


 いつの間にか、鏡の中からレヴィンさんが優しい目を向けてくれていた。


『何か話したいことがあるんでしたら、僕でよかったら、また聞きますよ』


 レヴィンさん、これから音合わせなのに。今すっごく忙しいはずなのに。


 甘えちゃいけないのに、甘えたくなる。何を話しても、彼はちゃんと聞いてくれる。わたしの心を軽くしてくれる。


『ありがとうございます。今は音兄が待ってるから、後で聞いてくれますか?』

『はい、必ず』


 眼鏡男子の微笑み。癒し……。

 音兄も聞いてるのに。後で何か言われそうだな。


 と思ったら、レヴィンさんの背後から、リーネルトさんが、悪寒がこっちに伝わってきそうなほどのジト目を向けていた。


 ブツブツと『うわ、信じられない。この人、全然肝心かんじんなこと言ってない……』とか言ってる。

『そっ、それは、本番の後だから!』という、レヴィンさんの小さな声もかろうじて聞こえてきた。本番の後に、何かあるのかな。


 待ちくたびれた音兄が、先に一人で協奏曲を弾き始めてしまった。

 レヴィンさんとリーネルトさんが、急いでバルコニーに上がって演奏準備を始める。


 鏡の位置は、演奏台コンソールの横の椅子の上。教会コンサートの時にも置いてもらった場所だ。


 音兄とレヴィンさんは、鏡を通して互いに横顔で向かい合う。


 いよいよ、二人の協演の時間だ。

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