phrase9 巨大な楽器との出逢い
『こんばんは、鏡の中のお嬢さん。この教会に、何か御用ですか?』
眼鏡男子のドアップが、わたしに話しかけてる。
イケメンだ……。
ハッ、いけない。
「先生」の対応が優雅なイケメン過ぎて、うっかりトリップしてしまった。普通はリーネルトって人みたいな反応するよね。
「えっと、あの……用があったわけじゃないんですけど、実は……」
『あっ、これでは近過ぎですね。失礼しました』
「先生」は、どこかに鏡を置いて、そのまま少し後ろへ下がった。
ほんの少しクセのある亜麻色の髪と、銀縁眼鏡の奥に見える、理知的な淡いグレーの瞳。オフホワイトのタートルネックの上に、グレーのジャケットを羽織っている。やっぱりイケメンだ。
背景には、細長い窓の上部のアーチ型の部分が並んで見えていて、柔らかな街灯の光が差し込んでいる。窓の上部が見えるということは、ここは一階ではないのかも。
『ほら、リーネルトも』
『えぇ……呪われたら先生が何とかしてくださいよ?』
亜麻色よりもさらに淡い、透けるような色の髪。キリッとした、利発そうな美少年だ。グレー系の、ブレザーに近いデザインの服を着ている。学校の制服かな。
つまり、二人ともまごうことなきイケメン。
対するわたし、「お嬢さん」なんて言ってもらったけど、安定の学校ジャージ。ちゃんとおしゃれして来るんだったー!
『最近の鏡は凄いんですね。こんなテレビ電話みたいな機能がついてるとは』
『これ、まだ鏡って言えるんですか?』
『ところで、失礼ですがあなたはピアノを?』
「へ?」
あ、そっか。わたしの後ろにあるピアノが見えたんだ。
「はい、趣味で、少しだけ……」
『そちらの譜面はバッハですね。インベンションの一番でしょうか』
「わかるんですか!」
鏡面から五メートルは離れてるのに、この小さな音符がわかるんだ。
『私もバッハをよく弾くんですよ。申し遅れました、私は当教会専属オルガニスト、レヴィン――』
『ちょーっと待ったーッ!』
突然、別方向から違う声が割って入ってきた。
わたしが、もう一度聞きたくてたまらなかった声。
もう一度会いたくてたまらなかった、猫耳付きの金髪が、鏡の隅っこに映ってる。
『ミラマリアさぁん!!』
* * *
『また増えたッ!?』
気の毒なリーネルト少年が、再び恐怖の叫びを上げた。そこへ被さるように、ミラマリアさんの凛とした声が続く。
『そっちの二人! こういう通話は初めてだろうから忠告します! 今、フルネーム名乗ろうとしたわよね? フルネーム禁止! 場所を特定できる情報も禁止! 教会の名も、町の名も、絶対に明かさないこと! いい?』
『今日は不思議なお客さんが多いですねー。理由をうかがってもよろしいですか?』
『トラブル回避のためよ。教会でも、
『なるほど。こちらは教会ですので場所をお知らせするのは構わないのですが、ご希望であれば、そのように』
ミラマリアさん、わたしの時と同じように、あっという間に「鏡通信における個人情報保護法」を確立・徹底させちゃった。さすが。
『フルネームじゃなければ名乗っても構いませんか?』
『身元を特定できるような名前でなければ。呼び名がないと不便だものね。仮名で構わないけど』
『では改めて。私はオルガニストのレヴィン、こちらは
『私はミラマリア。そっちはリネ。私たちは友達同士なの』
『そうでしたか。ミラマリアさん、リネさん、ようこそいらっしゃいました』
「あの……初歩的な質問ですみません。オルガニストって、オルガン奏者のこと、で、あってますか?」
わたしからの質問に、レヴィンさんはにこやかに答えてくれた。
『あってますよ。リネさんにはあまり馴染みのない言葉でしたか』
「レヴィンさんは、オルガンでバッハを弾くんですか?」
『はい。オルガンといえば、やはりバッハですよね』
オルガンって……。
小学校の教室でよく見る、電子オルガンのこと?
電子オルガンといえばバッハ? そんなわけない。
そう言えば、リード・オルガンと呼ばれる楽器もあったっけ。確か、足でペダルを踏んで空気を送り込むタイプの。最近はあまり見なくなったけど。
『
レヴィンさんは、鏡を後ろに向けてくれた。
そこにあるのは、確かに鍵盤楽器だった。
「きれい……」
ため息が出た。アンティークな木製の壁面に半分埋まるような形で、エレクトーンぐらいのオクターブを持つ鍵盤が、縦並びに三段。鍵の大きさは、ピアノより小さめだ。
確かに、本人が言う通り、譜面やメモらしき物が譜面台や鍵盤横に乱雑に散らばってるけど。それくらいのことでは、この
焦茶色の木製で統一された外装には、ところどころに美しい
ヨーロッパの歴史を思い起こさせる落ち着いた風合いと、優れた職人の手で造られたことがわかる精巧さを、一目で感じることができる。確かに、ここはヨーロッパの、たぶんドイツの教会なのだろう。
ところで、鍵盤の上部の壁面に、たっくさんの細長い金属が並んでるんだけど……これ、この教会のオブジェか何かかな?
それに、鍵盤の横の壁面に、ドアノブのような、ボタンのような物がたくさん並んでいる。エレクトーンにもある、演奏用のボタンだろうか。だとしたら鍵盤のすぐそばに付けた方がすっきりするのに、なんでわざわざ壁から生やしてるんだろう?
わたしは家族とドイツに住んでいた頃、何度か教会を訪れたことがある。信者ではないから、たまにコンサートがあれば聞きに行く、という程度だ。
でも、このような、教会の壁面に造り付けられた鍵盤楽器や、細長い金属のオブジェ、変なボタンなどは見たことがない。
しばらく黙っていたミラマリアさんが、わたしに話しかけてきた。
『リネ。これ、パイプオルガンじゃない?』
「パイプオルガン? オルガンとは違うんですか?」
『そういう楽器があった、って記録をどっかで見たような気がするのよねー』
「わたし、初めて見ました。どんな楽器なんですか?」
『お二人は教会オルガンをご覧になるのが初めてですか。それはいい、この素晴らしい楽器を是非紹介させてください!』
何かのスイッチが入っちゃったらしく、レヴィンさんがうきうきと嬉しそうに鏡を持って歩き出した。映像が大きく動き出す。
『まずは全景をご覧に入れましょう! えーと、見やすいポイントは……』
鏡を持ったまま、キョロキョロしてる。レヴィンさんの動きに合わせて鏡が動くから、カメラで撮影してるみたいに教会の様子がよくわかる。
今レヴィンさんがいるのは、教会の礼拝堂の中、二階部分の突き出したバルコニーになってる部分だった。バルコニーの下に、信者用の長椅子(会衆席)がたくさん並んでいる。
前方、おそらく牧師さんが話をする場所の横には、聖歌隊が並んで歌を歌ったり、ちょっとした器楽演奏ができそうなステージがある。なぜ、オルガンがステージではなく、バルコニーに造り付けられてるんだろう?
『全景がよく見えるように、下へ降りますね』
階段を降りる音。
鏡が歩数分揺れた後、レヴィンさんはくるっと後ろを向いて、バルコニーの方に鏡を向けた。
――そこには、今まで見たこともない、巨大な建造物があった。
* * *
近くで見ても美しかった意匠は、全景を見ることで、さらに圧倒されるほどの存在感を現した。
ただそこにあるだけで、言葉を失ってしまう。細部まで
この教会には、有名な大聖堂のような、見事な絵画も彫刻も、装飾もステンドグラスもない。
ただ木製の窓や柱、長椅子が、昔ながらの素朴な空気を
その中で、今わたしたちが見上げている巨大な建造物は、不思議と空間にしっくり馴染んでいた。見慣れない、たくさんの金属のオブジェまで。
こうして全景を見ると、木製部分よりもむしろ金属の部分の方がたくさんあるように見える。下側が細くなってるパイプ状の金属が、フルートのように細い小さな物から、工事現場でしか見かけないような長くて巨大な物まで、何本も、何本も並んでいる。なぜ、こんなにたくさん……?
バルコニー上の
『美しいでしょう? オルガンは教会ごとに全く違うデザインなんです。我が教会が誇るオルガンは、名匠シュニッ――あ、特定されるようなことは言わない方がいいんでしたっけ。手鍵盤三段に足鍵盤、ストップ数六十、パイプは約四千本もあるんですよ!』
「え、えっと……」
わからない単語が出てきた。
ストップって? それに、パイプ――
まさか、この細長い金属のこと?
四千本も!?
「四千本って、そんなにあるように見えませんけど……」
『大部分は別室に格納されてますからねー。ここから見えるのは、
別室とは。
教会の礼拝堂に収まらないほどの巨大さ、なんですか。
「ひょっとして。このたくさんのパイプって、オブジェじゃなくて、楽器のパーツですか?」
レヴィンさんは笑い出した。
『はい。これがなくては、教会のオルガンは鳴らせません』
『リネ、あんたの世界には、パイプオルガンは……』
ミラマリアさんの探るような言葉に、わたしは一つの事実を確認した。
「はい。わたしの世界に、パイプオルガンはありません。こんなにも巨大な楽器、あったら知らないはずがありません」
『そうでしたか。確かに、この楽器が普及していない地域もあるのでしょうね』
レヴィンさん、「わたしの世界」という言葉を、「わたしの国」とか「町」くらいの意味だと思ってそう。
『細かい仕組みは後で説明するとして、是非音を聴いてみてください』
レヴィンさん、本当に嬉しそう。この楽器に揺るぎない誇りを持ってるんだ。
『リーネルトー、ちょっと鳴らしてみてくれるかなー。プリンシパルで』
バルコニー上のリーネルトさんが、しょうがないなあ、と言いたげに肩をすくめた。彼は
――その、瞬間。
わたしは、世界を変えるほどの衝撃を、全身に叩きつけられた。
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