第二楽章 巨大な楽器との出逢い

phrase8 ようこそ、新たな世界へ

 わたしの兄・川波かわなみ音葉おとはが、約二週間の予定で、地方のお仕事に出かけてしまった。


 でも、寂しくないよ。

 わたしには、毎日鏡で繋がっているお友達がいるから。


 今日もミラマリアさんと、鏡の前で通話中。

 前日わたしに起きた不可解な出来事について話すと、ミラマリアさんは眉間みけんしわ寄せながら厳しい口調でこう尋ねてきた。


『リネ、この通話のことは誰にも話してないわね?』

「はい、話してませんよ。ミラマリアさんに釘刺されましたし。こんな不思議な話、音兄おとにい以外に話せそうな知り合いもいませんから」

『ならいいんだけど』

「音兄にも結局まだ話してないんですよね、ミラマリアさんのこと。音兄が帰ってきたら、今度こそ音兄呼んで、三人で『音語り会』しませんか?」

『本人交えてか! ハードル高ッ! まだ心の準備がッ!』

「またー。ミラマリアさんはもう十分ピアノに詳しいし、音兄の動画だって、ひょっとしたらわたしよりもたくさん見てるかもしれませんよ。大丈夫、大丈夫」

『わ、わかった。心の準備、しときます……』


 ミラマリアさんは、心を落ち着けるようにストローで飲み物を飲んだ。翻訳機の猫耳まで、真っ赤に染まってるみたいに見える。もちろんわたしの目の錯覚だろうけど、ほんとに可愛い人なのだ。


『一応、もう一度聞くけど。リネの玉子みたいな力を持った玉子って、本当に他にいないのね?』

「鏡でよその人と通話できちゃう力ですか?」

『違う世界の映像と音声を撮影・投影できる力』

「聞いたことないです。ほとんどの人は、スマホ代わりにしてるって話ですし。電話やメッセージ送信、アラームセットなどですね。わたしみたいに、誰にも話さず秘密にしてればわかりませんけど」

『そう……』


 ミラマリアさん、また少し難しい顔をしてる。

 ひょっとして、何かがまずいんだろうか。

 この通話が、ミラマリアさんの世界ではやっぱり問題になってしまうんだろうか。

 もしそうなら、ミラマリアさんと通話できなくなるかもしれない。せっかくできた友達なのに、嫌だよ、そんなの。


『さ、それでは本日の「音語り会」を始めよっか!』


 ミラマリアさんの明るい声に救われる。

 先のことは、いくら考えてもわからない。

 今は、今を全力で楽しむのだ!


 

 * * *



『いつか、自分で鍵盤を作ってみたいんだよね』

「それは凄いですね! 楽器の研究してるってだけでも凄いのに」

『研究者なら、自分で楽器くらい持ってて当たり前でしょ? まあ、物資も限られてるし、リネの世界のようなレベルの物は作れないけど。リネの世界にもあるでしょ、子供たちが気軽に持ち運べて、鍵盤演奏の練習に使える――』

「鍵盤ハーモニカのことかな? あれは、息を吹き込んで音を鳴らすんですよね」

『そう、そういうやつ。小さくてもいい。簡単でもいいから、自分で何か演奏してみたいの』

「素敵ですね! 音兄の知り合いに楽器メーカーの人が何人かいますから、今度構造とか製作過程なんかを教えてもらえないか、聞いてみます!」

『ありがとー。本当にできるかどうかわからないけど、情報もらえると嬉しい』


 話は、それから学校の音楽教育の話とか、子供向けの教則本の話などになった。

 ミラマリアさんの世界では音楽教育自体がないも同然らしいので、わたしの話を何でも興味深げに聞いてくれる。


「個人的に、ピアノの練習曲ではバッハのインベンションが好きなんです。他の作曲家だと、ついついドラマチックに盛り上げたり、大げさにテンポを揺らしたりしたくなるんですけど、バッハはただ無心で楽譜を追うだけでも十分に美しいんですよ。子供の手にも弾きやすくて、細かい技巧もたくさん入れ込んであるから、テンポも強弱もあまり変化がないのに弾いてて飽きないんです」


 バッハの時代にはまだピアノがなかったので、正確に言うと、ピアノの練習のために書かれた曲ではない。

 でも、今なお多くのピアノ生徒たちが取り組んでいる、鍵盤演奏に必要な大事なポイントを余すことなく散りばめた珠玉の練習曲集なのだ。さすがは「音楽の父」である。



♬ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲

 『インベンション 第1番 ハ長調 BWV772』



 軽く、自分のピアノでインベンションの一番を弾いてみせた。

 音兄も、時々羽奈はなちゃんに聴かせてあげているという。

 今の実力よりほんのちょっと先のレベルの音楽を聴かせることで、目標設定と達成を少しずつ繰り返しながら積み上げていくのだ。


『なるほど。確かに練習によさそう。両手ともメロディで、バーン! ジャーン! ってのがないから、自前楽器でも無理なく音が出せそうね。まずはこの曲の演奏を目標に、練習と制作を頑張ってみようかな』


 ミラマリアさんの境遇はあまり知らないけれど。こんな風に着実に知識を取り込んで目標に向かっていく姿が、とても素敵に見える。


 その時。


「え、温玉おんたまちゃん!?」


 見覚えのある異変、再び。

 温玉ちゃんが、またも鏡面に向かって体当たりを始めたのだ。


『え、ちょっと、どうしたの?』

「温玉ちゃんが――」


 プツッ、と、映像が途切れた。

 ミラマリアさんが消えた。

 ただの鏡に戻ったわけじゃない。鏡面が、真っ黒になってしまったのだ。

 


 * * *



 え、どういうこと。

 まるでPCがブラックアウトしたみたいに。

 まさか、もうこれで、ミラマリアさんと……


「温玉ちゃん! まさか、もう繋げられなくなった、ってわけじゃないよね? ちょっと接続不良(?)になっただけだよね?」


 そう言えば、温玉ちゃんの新能力である「ミラマリアさんの世界へ繋げる力」は、何の前触れもなく唐突に始まったのだ。いつ、唐突に終わってしまっても不思議はないのだ。

 

 でも、そんなの嫌だよ! もっと話したいよ! ミラマリアさん――!!


『…………』

「え、なに?」


 真っ暗なまま、音声だけが聞こえてきた。ミラマリアさんの声?

 もし映像がダメになったとしても、音声さえ生きていれば、最悪、電話のように話すことはできる。どうか、ミラマリアさんの声でありますように……!


『……先生……』


 違う。ミラマリアさんの声じゃない。

 誰か、違う人が話してる。

 しかも、この言葉は……


『先生、これちょっと見てください』


 ドイツ語だ!


『鏡なのに、何も映ってなくて真っ黒なんですけど。何ですかこれ?』

『うーん。何だろうね。ちょっとわからないなあ』


 鏡の向こうに、二人いる。

 最初の声は、声変わりしたばかりという感じの、若々しい、少年のような声。

 次の声は、もっと年上の男性だ。口調からして、人の好さそうな印象を受ける。


『それ、指揮者を見る用だから、しばらく使わないんだ。ひとまずその辺に置いといてくれるかな』

『はい』


 真っ黒だった映像が、少し揺れた。たぶん、若い方の人が鏡を運んでいる。

「置いといて」という言葉から、こちらの鏡よりはサイズが小さいのだと予測できる。


 と、またも温玉ちゃんが、鏡面に体当たり!


「ひゃっ! どうしたの温玉ちゃん!」

『うわっ!?』


 激しい音がした。何か物が落ちたような。


『なっ何ですか今の!』

『リーネルト?』


 心臓が飛び上がった。わたしの名前を知ってるの!?


『大丈夫かい、リーネルト』

『はい、僕は大丈夫、ですけど……』


 違う、わたしの名前じゃない。

理音りね」にちょっと似てるけど、若い方の人が「リーネルト」という名前なんだ。


『今、鏡から、声が』

『え?』

『奇怪な、この世のものとも思えない恐ろしい声が!』

「ちょっとー! 失礼なッ!」


 反動で、つい叫んでしまった。日本語で。


『わーっ、また!』

『わかった、わかったから。ちょっと落ち着こうか』

『これが落ち着いてられますか! 呪われてますよこれ! 早く教会に持ってって悪霊祓いしてもらわないと!』

『うん、落ち着こうね。ここが教会なんだから、焦らなくても大丈夫だからね』


 リーネルトという人を落ち着かせるために、ゆっくりと話す、大人の声。とても優しそうな人だ。

 この声のおかげで、わたしの方も少し落ち着いてきた。

 まずは、話が通じるかわからないけど、ちゃんと事情を説明しよう。ドイツ語で。


「すみません、驚かせてしまって本当にごめんなさい。実は、うちのたまごが――」

『たまご?』


 すると、徐々に、真っ黒だった鏡面が明るくなってきた。


 少しずつ、光が入り始める。アーチ形の、細長い窓が並んでいるのが見えた。そのひとつに、十字架が掲げられている。


 ほんとだ。ここ、教会だ。


 そこへ、人の姿が入り込んできた。不思議そうに、こちらをのぞき込む顔。

 二十代か三十代くらいに見える、眼鏡をかけた、若い白人男性だ。


 この人が、「先生」と呼ばれている人。

 確かに、先生っぽく見える。不思議そうな顔をしてるけど、まだ落ち着いている。


『ぎゃーっ! なに! なんですかこの人!』

『リーネルト、女性に向かってその反応は失礼だよ』


「先生」は、わたしに向かってにっこりと笑いかけた。


『こんばんは、鏡の中のお嬢さん。この教会に、何か御用ですか?』

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