phrase11 パッサカリアの奇跡

 教会オルガニストのレヴィンさんが、わたしとミラマリアさんにオルガン曲を聴かせてくれるという。

 お世辞を言うようには見えない助手アシスタントのリーネルトさんが、「世界最高のオルガニスト」というほどの先生だ。一体どんな演奏なんだろう。


「そう言えば、レヴィンさんこそお時間大丈夫なんですか? わたしと会う前に、お二人で何かされてたんじゃ……」


 無理はさせたくないので、はやる気持ちを抑えながら遠慮がちに訊くと、レヴィンさんの銀縁眼鏡の奥の瞳がより生き生きと輝き出した。


『ご心配には及びませんよ。明日のコンサートのために、二人でレジストを考えていたんです。ちょうど、だいたい決まったところですから』


 レジスト、つまりレジストレーションとは、音の組み合わせのこと。

 パイプオルガン演奏で「どのストップを使うか」――という、オルガニストが最も頭を悩ませる部分だ。


『明日、コンサートがあるんですか!』


 ミラマリアさんの猫耳がピョコッと勢いよく立った(ような気がした)。


『はい。これから弾くのはレジスト確認兼ゲネプロ(リハーサル)みたいなものですから、どうぞ気軽にお聴きくださいね』


 レヴィンさんは、リーネルトさんに鏡を手渡した。演奏台コンソールの近くではなく、一番オルガンの響きが美しく聴こえる場所に置いてくれるという。

 リーネルトさんが、バルコニーから降りて、少し離れた列の中央あたりに鏡を置き、角度を調整してくれた。手すりにあたる部分の隙間から、かろうじて演奏台コンソール周りが見える。


 リーネルトさんは、バルコニー上に戻って譜面を並べ始めた。それから二人でなんだかんだと言い合っている。


『リネー、あの二人何言ってるかわかる?』

「二人の表情と動きから想像するに、『さっきレジストメモったのどこやったっけ?』『ちゃんと譜面に貼っておきました』『あと、あれ、あの譜面も出してくれるかな』『聖書の下に埋まってるやつですか? それともポスターや事務書類の中に挟まってるやつですか? 毎回助手アシスタントに発掘作業させるのやめてほしいんですけど』――とか言ってるような気がします」

『……だいたい合ってる。夢小説書きの洞察力、凄まじいわね』

「ミラマリアさんの盗聴スキルも素敵ですよ」


 そんなことを言ってる間に、レヴィンさんがこちらを向いて一礼。二人でありったけの拍手を送った。


 レヴィンさんが、演奏台コンソールの椅子へ座る。

 リーネルトさんが、何か言いながらストップを操作する。

 演奏前の、静寂せいじゃく。緊張の一瞬。


 レヴィンさんが動いた。


 ――この曲は……!



 * * *



♬ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲

 『インベンション 第1番 ハ長調 BWV772』



 レヴィンさんたちに会う少し前に、わたしがピアノで弾いた曲。バッハの、鍵盤楽器のための練習曲だ。

 レヴィンさんは、わたしのピアノにこの曲の譜面が広げてあるのを知っている。コンサートの演目ではないだろうから、レヴィンさんの遊び心と、指のウォームアップってところかな?


 わたしがピアノで弾いたのと同じ曲が、よりなめらかに、より豪華な響きを得て、教会オルガン曲としてよみがえった。

 右手のメロディを追いかける左手。絡み合うフレーズとフレーズ。

 空間を満たす豊かな倍音。高らかなプリンシパルの歌声。

 こんなにもドラマチックな曲だったんだと、改めて感動してしまう。


 ついさっき、丁寧に説明をしてもらえたからだろうか。

 指一本で弾かれた一つの鍵が、十メートル以上もの機構アクションを経てパイプに動きを伝え、待ちかねたように部屋の片隅にある一本のパイプが風を開放して音となる。そのさまが、心に鮮やかに浮かんでくる。

 オルガン音楽は、気が遠くなるほどの手間をかけて造られた、無数のアクションの集合体だ。


 あっという間に曲が終わった。

 リーネルトさんが新たな譜面を用意し、ストップ・ノブや、いくつかのボタンを操作する。

 レヴィンさんが、両手――ではなく、両足を構えた。



♬ウィリアム・オルブライト作曲

 『 Jig for the Feet(両足のためのジグ)』



 レヴィンさんの両足が踊る。これはたぶん、足のための練習曲だ。

 地を揺るがすような重低音が、驚くようなスピードで駆け抜ける。まるで両手で弾いているような超絶技巧。レヴィンさんの両足が、面白いほど右へ左へと高速で飛び回る。


 ピアニストには考えられない動きだ。

 足技の炸裂! 超絶技巧の連続! 楽しい!


 レヴィンさんによると、オルガニストは両足それぞれの爪先とかかとで、同時に四つの音を出せるそうだ。

 さらに両手も合わせれば、音は無限に広がる。両手・両足分の、複雑な音形を絡み合わせることができる。オルガン曲は、つくづく作曲し甲斐がありそうだ。


 レヴィンさんが立ち上がり、大袈裟おおげさな身振りで一礼した。

 ミラマリアさんが『面白ーい!』と喜んでる。

 ウォームアップでつかみはバッチリ!

 


 * * *



 リーネルトさんが、いくつものストップを引っ込めたり引き出したりしている。どれだけの音色を組み合わせるのだろう。

 次が本当の、コンサート用の曲だ。二人が軽く深呼吸しているのが見える。


 レヴィンさんの足が、さっきの曲よりもさらにどっしりと重厚な、印象的なフレーズを響かせ始めた。この世の深淵をうかがわせるような、八小節の低音。鏡越しでもわかる、地の底から湧き上がるような振動だ。



♬ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲

 『パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582』



 続く、両手による展開。足で低音を繰り返しながら、きらきらときらめくような両手の音符が教会中に降り注ぐ。あまりに神秘的な、人の力で成し得たとは思えないほどの美しさ。まるで、天上の神が人間に与えた恵みの雨のように。


 リーネルトさんが、フレーズごとに数箇所のストップを操作したり、何かのボタンを押したりしている。途中で譜面をめくることも忘れない。レヴィンさんも、音符を追うだけではなく、足ペダルの操作で強弱をコントロールしている。


 このオルガン一台に、どれだけの音色の組み合わせが、どれだけの音楽を生み出す可能性が秘められているのだろう。

 二人はその中から、この曲に、この場に最適と思われる音楽を取り出して聴かせてくれている。

 わたしたちが今日この曲を聴けるのは、何億通りもの偶然の中からたった一つ出逢えた、オルガンという楽器がもたらした奇跡。


 そう、奇跡なんだ。わたしとミラマリアさんが出逢えたことも。わたしたちが、この二人に出逢えたことも。

 すべては温玉おんたまちゃんと、音楽と時間の神様が巡り合わせてくれた、天上から降り注ぐ神託しんたくのような音の奇跡だ。

 

 わたしの世界でも、電子楽器とスピーカーを使えばこれだけの大音量は生み出せる。似たような音色を作ることもできる。

 でも、違うんだ。このオルガンの音は、ここでしか聴けない。

 世界を揺るがすほどの大音量は、楽器が巨大だからでも、パイプが四千本あるからでもない。

 教会全体が、震えている。音楽の喜びに鳴いている。

 この教会自体が、生きている唯一無二の楽器なんだ。

 

 そんなつもりはなかったのに、涙があふれて止まらない。

 オルガンに出逢えた喜びと、自分の世界にオルガンがないという悔恨かいこんが、レヴィンさんが奏するフーガのように絡み合い、次から次へと流れていく。

 なぜわたしは、もっと早くこの音楽に出逢えなかったのだろう。

 なぜわたしは、この楽器と同じ空気を味わうことができないのだろう――

 


 * * *



『……リネさん?』


 気がつくと、二人がバルコニーから降りてきて、鏡を覗き込んでいた。

 目を真っ赤にしてしまったわたしを、心配してくれてるんだ。


「すみません、なんか、感動しちゃって……」

『少しでも、お二人に心安らぐ時間を提供できたのなら光栄です』


 心安らぐ、という言葉は今のわたしには合わない。

 わたしが受けたのは、衝撃だ。わたしの世界が、わたしの人生が変わってしまいそうなほどの。


『お二人は、明日の夜のご都合は?』


 レヴィンさんが、にこやかに問いかける。


『明日、ちょうどパッサカリアを弾き始めたのと同じくらいの時刻にコンサートが始まります。本当は、ここまでいらしていただけたら嬉しいのですが……』

『ごめんなさい。私たち二人とも、そこからとても遠いの』


 うまく返事ができないわたしの代わりに、ミラマリアさんが答えてくれた。


『それでは、またこの鏡でご覧いただくことはできますか? 他にも何曲か演奏しますよ』

『いいんですか! わあどうしよう、チケット買ってないのに!』

『大丈夫です、無料ですから。善意の献金はいただいてますが、お二人には既にとても素晴らしい時間をいただきました。どうぞ、遠慮なくご参加ください』

『ありがとうございますー! 喜んで!』


 明日は、さすがに席の真ん中に鏡を置くことはできないので、バルコニーの隅に、レヴィンさんたち二人だけに見える場所に鏡を置いてくれるという。


 その時、誰かが礼拝堂に入ってきたので、それではまた明日、と速やかに解散になった。入ってきたのはたぶん牧師さんだ。レヴィンさんが色々と打ち合わせなどをしている間に、リーネルトさんが、さりげなく鏡を持ってバルコニーへ上がってくれた。


 驚いたことに、あんなにわたしたちを怖がっていたリーネルトさんが、鏡を置いた後に丁寧にお礼を言ってくれたのだ。


『先生の長い話を聞いてくださって、ありがとうございました』

「えっ、お礼を言うのはわたしたちの方です!」

『……先生は、オルガンに興味を持ってもらえて、凄く嬉しかったと思います』


 リーネルトさんの声に、少し悲しそうな色を感じたのは、気のせいだろうか。


『……もう、見向きもしない人が多いから……』

「え、そうなんですか?」

『すみません、今のは忘れてください。それじゃ、僕は帰りますので、これで』


 リーネルトさんは、鏡に丁寧に布をかけてくれたみたい。やがて仄暗ほのぐらくなった教会から人の声や物音が消えて、そのまま鏡面がブラックアウトした。今日の通話は、ここまでのようだ。


 と思ったら、ブラックアウトのまま、ミラマリアさんの声が聞こえてきた。


『リーネルトくんの様子が気になるから、よく聞こえなかった彼のつぶやきを分析しました』

「ミラマリアさん、仕事が早すぎます」


 レヴィンさんが、

『僕程度を最高だなんて言っちゃダメだよ~。世界にはまだまだ、物凄い奏者がたーっくさんいるんだから。きみはまだまだこれから、世界に出てたーっくさんの音楽を勉強できるんだからね』

と言った時に、リーネルトさんが洩らした、何かのつぶやき。


『こう言ってたの。「世界に奏者がどれだけいても、意味がない」って』

「……その先に、『僕が教えてほしいのは先生だけだ』――みたいな言葉が続きそうですね」

『さすが夢小説執筆者』


 そのつぶやきが、彼のどこか悲しそうな様子に繋がったのだとしたら。

 リーネルトさんは、レヴィンさんに教えてもらえなくなる、ということなんだろうか。


 続きはまた明日話そうということで、ミラマリアさんとも、ここでお開きにした。


「温玉ちゃん。わたし、温玉ちゃんのおかげで、知らなかったことをたくさん体験できてるよ。いつもありがとう。明日のコンサートも、よろしくね」


 温玉ちゃんは、疲れたと言わんばかりに、鏡のそばにあるバスケット(温玉ちゃん用ベッド)の綿の中に潜り込んだ。

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