phrase27 兄と弟の本音

「何でだよ! 何でもう行っちゃいけねえんだよ!」

「ダメと言ったらダメだ!」


 廊下で、二人の兄が言い争っている。


 久しぶりに見る、いづ兄(本体)だ。

 いつもピアノに忙しい音兄おとにいと、ここ五年ほどずっと家にいなかったいづ兄。二人が顔を合わせること自体レアなのだから、言い争う光景なんてレア中のレアだ。子供の頃でも、ここまで激しく口ゲンカをしたことがあっただろうか。


 二人の視線がわたしに向けられた。

 懐かしいいづ兄の顔が、心底困ったように眉尻を下げている。


「なあ、理音りねからも兄貴に言ってくれよ。俺は今すぐにでもレヴィンさんを助けに行きたいんだ! なのに兄貴が、さっきからダメだダメだの一点張りで――」

「また誰かに勝手に憑依するのか? その度に相手を危険にさらすのか? ベンカーの時だって半ば強引だったんだろ。お前の卵の力は危険すぎる。そして何より、お前自身がどれだけ危険なのかをわかってない!」

「俺だって好きで憑依なんかしたわけじゃねえよッ!!」


 今まで聞いたことがないほど、いづ兄の叫びは凄絶せいぜつだった。


「ある日突然、知らない場所のベッドで目覚めたんだ! 知らんおっさんの身体になってて、どうすりゃ元に戻って家に帰れるのかもさっぱりわからねえ! 俺がどんなに動転したかわかるか!?  レヴィンさんは、なすすべもなく町を彷徨さまよってた俺を、わけも聞かずに教会に招いてオルガンを聴かせてくれた。俺がオルガンの仕組みに興味を持つと、あの工房を紹介してくれたんだ。俺が卵の力を理解して使えるようになるまで、あの人とオルガン、工房のみんなだけが心の支えだった。俺は、あの人に、いくら返しても返しきれないほどの恩があんだよ!!」


 知らなかった。いづ兄のたまごが「力」を持ってしまった時のこと……。

 レヴィンさんは、その人柄とオルガン演奏で、わたしとミラマリアさんとリーネルトさんだけでなく、いづ兄の人生まで変えてしまったんだ。


「恩人に恩を返す。確かにそれは立派なことだ」


 いづ兄の過去を聞いても、音兄の表情は揺るがない。


「でもそれは、家族が安全だという前提あっての話だ。俺は家族を危険にさらすわけにはいかない」

「兄貴はあの人が捕まっても何とも思わねえのか!?」

「俺が、何とも思わない、だと?」


 音兄の眼光が、鋭さを増した。

 身長は音兄よりいづ兄の方が高いのに、兄の眼光に刺され、大柄な身体が震えたまま動けなくなってしまう。


「俺はこの七年間ずっと、シューマンのあの曲を思い出す度、ひつぎの中の父さんの死に顔が浮かんで仕方なかった。事故で首以外の身体は見る影も無くなってて、まともに残ってたのは首だけだったからな」

「おいっ、理音の前で……!」


 わたしは首を小さく横に振った。「大丈夫」というサインだ。

 音兄の話なら、わたしは最後まで信じて聞くことができる。

 音兄は、一度わたしを見てから視線をいづ兄に戻した。


「教会オルガンの音を聴いて、レヴィンと音を合わせて、初めて父さんのあの顔を尊いものに感じた。崇高なものに思えた。『首だけでも綺麗なままで帰ってこられて、良かった』と思えるようになった」


 いづ兄が、目を大きく見開いた。音兄の言葉に衝撃を受けている。


「あの曲を、父さんの生前の姿を思い出しながら弾くことができた。母さんがいて、理音とお前もいて……。俺の中に長い間まっていたものが、根底から浄化されて、音符になって俺の中から飛んでいった。あの曲が、俺にとって真に幸福な音楽に変わった。お前だけじゃない。彼の存在は、俺の人生も大きく変えたんだ」

「兄貴、そこまで……そこまであの人に救われたのに、なんで……」

「さっきも言ったが、俺は家族を危険にさらすわけにはいかない。これ以上家族を失うような行為は絶対に許さない」


 音兄の言葉には、一家の長としての揺るぎない信念が宿っている。いづ兄の言葉よりも、ずっと強固な覚悟を背負っているように聞こえる。


「俺は世界で、ピアノをこころざす、俺より若いやつらをたくさん見てきた。国が戦争中だったり、武装勢力に囲まれた紛争地帯だったり、犯罪まみれのスラムで廃棄ピアノを叩きながら登り詰めてきたやつもいる。指が十本残っているのが奇跡と言ってもいいほどの境遇のやつらが、世界にはゴロゴロいるんだ。レヴィンの世界だけじゃなく、俺たちの世界にも危険な国がいくらでもある。お前はまだ本当の危険というものをわかってない。何の策も無しに、危険をかえりみずに飛び込んでいくのがそんなに立派な行為か?」


 いづ兄は黙り込んだ。音兄の言葉を反芻はんすうし、なんとか理解しようとしている。


「それじゃ、俺は……どうすりゃいいんだ……?」

「お前にしかできない大事な役目は他にある」

「え? 工房の仕事か?」

「俺が作ったサンドイッチを理音と食べる。それから、理音のそばにいるんだ。俺はもう出なくちゃいけない。いいか、理音がいるんだからくれぐれもバカな真似はするな」

「…………」


「音兄、二人でちゃんと待ってるから。気をつけて行ってきてね」

「なるべく早く帰るよ」


 音兄はそう言い残し、ジャケットとスーツケースを抱えて慌ただしく家を出ていった。



 * * *



「くそッ、やっぱ口では兄貴に勝てねえ……というか、なんかもう色々と勝てねえよ……」


 鏡の前で、二人でバクバクとサンドイッチを食べた。


「俺の弱点とか不安要素とか、ちゃんと考えてねえとことか、全部見透かされちまってなんも言い返せねえ。くそッ」


 サンドイッチの具まで、今のわたしといづ兄が食べたくなるようなものを用意してある。


「ごめんな、理音が不安になるようなとこ見せちまって」

「わたしは大丈夫」


 キッチンから持ってきたインスタントコーヒーにお湯を注いで、いづ兄に渡す。


「二人の言い分、両方わかるもん……。わたしにいづ兄の力があったらきっと何も考えずに助けに行こうと飛び込むだろうし、でもいづ兄に危険なことはしてほしくない……」

「そうだな。俺、ここで鏡番しながら少し頭冷やす。理音は食ったら部屋に戻って寝な。ろくに寝てないんだろ?」

「ありがと。音兄にも言われたから、少し寝かせてもらうね。でも自分の部屋じゃなくて、ここで寝る。何かあったら起こしてね」

「ここでか」


 いづ兄は驚いたけど、特に反対はしなかった。

 わたしは鏡のそばに小さめのカーペットを敷いて、その上で布団にくるまった。


「いづ兄」

「ん?」

「音兄とレヴィンさんのシューマン、どうだった?」

「やっぱ、兄貴すげえ、レヴィンさん凄え、しか言葉が出ねえわ。後、俺が作ったパイプが変な音出さなくて良かったなー、とか。俺に高尚な語彙力は期待しないでくれよ。あの二人はやっぱ、次元が違うっつーか、なんか凄えよ。俺、自分はこれを聴くために生まれてきたとまで思ったもんな」

「そうだね。『なんか凄え』って、十分に感動できたから出る言葉だと思う」


 こんな時なのに――こんな時だからこそ、わたしたちみんなが音楽の力で繋がっていることを再認識する。

 一度はバラバラになりかけたわたしたち家族を、レヴィンさんのオルガンが繋げてくれた。


 レヴィンさん、どうか、無事でいて。

 神様、どうか、わたしたちからあの人を取り上げないで――



 * * *



 どのくらい眠っていただろうか。

 聞き慣れない音に、わたしの耳がビクッと反応した。

 布団から飛び起きて音がした方を見ると、温玉ちゃんが、また鏡に何度も自分をぶつけている。


「温玉ちゃん! どうしたの?」


 いづ兄も、深刻な顔で鏡の前に身を乗り出してきた。


 鏡に見えるのは相変わらず暗闇一色だけど、異質な音がひっきりなしにあちこちから飛び込んでくる。

 ――何かを運ぶような音、床に置くような音、何かを叩く音、大勢の人たちの足音、途切れ途切れに聞こえてくる話し声。

 さらに、大型の機械を動かしているような音まで――


 まるで工事現場にでもいるような――まさか。


「嘘だろ……? 日程が早まったのか?」


 いづ兄が震えている。


「レヴィンさんの件で、いったんストップするんじゃなかったのかよ……」


 ――オルガン解体計画。

 リーネルトさんの父親が進めていた政府の計画が、ついに始まった……?


「いづ兄……」


 震える手で、いづ兄のそでをつかむ。

 大量の金属資材がぶつかり合うような鋭い音が響き、いづ兄の肩がビクッとはねた。


「俺が作ったパイプ……」


 今にも泣き出してしまいそうな、悲痛なつぶやきだった。

 わたしは一人で立っていられなくなって、いづ兄の腕にしがみついた。


 ついに来てしまったんだ。

 レヴィンさんに続いてオルガンまで、理不尽に奪われていく。

 あの人が愛した音楽が、世界から消えてしまう……!


 わたしたちは何もできず、残酷な破壊音が響く中でうつむいたまま立ち尽くしていた。


「……っ……」


 いづ兄の肩が、また大きく動いた。

 顔を上げると、重く沈みきったいづ兄の横顔に、少しずつ変化が見え始めていた。

 伏せられた両目が開き、光が戻っていくように。

 蒼白だった肌に、徐々に血が通っていくように。


「今のは……」

「いづ兄……?」

「いや、まだわからない。ぬか喜びだったら困る」

「どうしたの? 何が聞こえたの?」


 大きく見開かれたいづ兄の目が、わたしに向けられた。


「まだわからねえけど、今来てるやつら、ひょっとしたら工房のやつらかもしんねえ」

「えっ!」

「声とか、話し方とか。さっきから聞こえる音も、資材にするために解体するっつーよりは、分解してパーツを大事に運び出してるように聞こえるんだ。俺が都合よく聞き取ってんのかもしれないけど」

「それって……」

「誰かが計画を動かしたか、工房のやつらが知恵を絞ってくれたのか……ああ畜生、今すぐ駆けつけてえけど、今俺が飛び込んでっても混乱させるだけだ。誰か一刻も早く状況を教えてくれ! 誰でもいい、頼むからオルガンを破壊しないでくれ……!」


 わたしたちは、鏡の前でひたすら待つことしかできない。

 心を込めて、何度も何度もオルガンの無事を祈り続けた。

 温玉ちゃんとぴょん玉ちゃんも、鏡に向かってぺこぺこと何度も頭を下げるのだった。

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