phrase26 引き裂かれた音楽

 こちらの世界でも、鏡の向こうの世界でも、ずっと拍手が鳴り止まない。


 音兄おとにいとレヴィンさんは、何度も協演相手をたたえるように手を広げてはうやうやしくお辞儀をする。二人が同じ世界にいたら、きっと固い握手を交わしていただろう。


 わたしも鼻をすすりながら、存分に拍手を送り続けた。

 有言実行し、最高を超える演奏をしてくれた音兄に。

 この曲と音兄の音を、最高に輝かせてくれたレヴィンさんに。


 すっかり「やりきった」顔の音兄が、

「すっげえ、気持ち良かった……」

「もう、他のオケじゃ満足できない……」

などと、また変なセリフを乱発してるけど、演奏がめちゃくちゃ凄かったから許す。


 こっちのお客さまたちは大笑いしてるけど、向こうではまだ拍手が続いている。

 レヴィンさんは、観客たちに拍手を収めるように身振りで伝えた。

 こちらの世界はともかく、向こうでは内々のゲネプロの体裁ていさいをとっている。あまり拍手が長引くのはまずい。


 音兄が、親しいお客さまたちに向かって、改めてぺこりとお辞儀をした。


「本日はご来場いただき、ありがとうございました」

「グスッ、せんせぇ……今日は『黒鍵こっけん』弾かないの?」

「えーと……」


 感極まってわたしみたいに鼻をすすっている羽奈はなちゃんからの要望に、音兄が珍しく言葉をにごす。アンコールについては全く決めていないのだ。

 音兄が鏡を見ると、向こう側で何か話していたレヴィンさんが、こちらに振り返って答えてくれた。


『今なら、アンコール一曲くらいは弾いても大丈夫だそうだ。オトハ、要望に応えてあげて』

「……いや」


 音兄は、羽奈ちゃんを見つめながら、一言ずつ確かめるように言った。


「『黒鍵』はいつでも弾ける。今日はレヴィンのオルガンが聴きたい。頼んでもいいかな」


 再び拍手が起きる。

 そうだ、レヴィンさんのオルガン独奏をまだ聴いていない人たちに、ぜひ聴いてもらわないと。


 わたしの心臓も、燃えるように高まっていく。

 まだ、聴けるんだ。

 あと一曲。どうか、もう少しだけ夢を見させて――


『それでは……今まで支えてくださった、全ての人たちへ』


 レヴィンさんは軽く一礼すると、再び腰を下ろした。

 リーネルトさんは珍しく何もせずに後ろに下がり、レヴィンさん本人がストップを操作する。譜面台にはシューマンのピアノ協奏曲が置かれたまま。何を弾いてくれるんだろう。


 可愛らしいフルート系の音色が流れ始めた。

 かつて、レヴィンさんが「まるで天使が遊んでいるような音」と形容した、柔らかな音。


 曲調は、教会コンサートで聴いた、ブクステフーデの『シャコンヌ ホ短調』に近い。この曲も、同じホ短調だろうか。

 胸の奥にじんわりとみ込んでくる、尊い旋律。神の音楽のような気高さと、人の音楽の感情の豊かさの両方を感じる。


 パイプが歌う。レヴィンさんの奏でる音が、パイプの歌口から外の世界へとあふれ出す。

 まるでレヴィンさん自身の音楽への思い、人との繋がりを大切にする優しさが、そのまま音符になったような曲だ。


 何よりも尊いこの響きを。同時に胸を裂くような切なさを。

 わたしは、一生忘れない。



 * * *



「その時」は、突然やってきた。


 曲が始まってから、おそらく二分も経っていない。

 まだ演奏が続いているのに、鏡の向こうがざわめき出した。

 レヴィンさんが演奏を中断し、『リーネルト!』と叫ぶ。


 直後、鏡の視界が大きく揺れた。

 走る音、階段を駆け降りる音。見覚えのある制服が何度もアップで映り、リーネルトさんが鏡を持って走っていることがわかった。


 ドアが開く音。リーネルトさんの荒い息遣いに混ざって、さらに何かを動かす音。


 鏡面が真っ暗になった。

 完全に闇に沈む直前、わたしたちは遠くから只事ただごとではない人の声を聞いた。


『レヴィン・グライスフェルト! バルドゥス・ベンカーとの演奏は中止だ! そこにいるな、よし、連れて行け!』


 複数の男たちが何か叫ぶ声を、最後に残して。

 鏡は、完全に闇と沈黙の世界に包まれた――



 * * *



 レヴィンさん?

 レヴィンさん、どこ?


 真っ暗だ。何も見えない。

 体が、重い。動かない……。


 急にビクッと、体がはねた。

 ここ、どこ? わたし、何してたの?

 なんで、こんなに体が重いの?


 頬に、わたし以外の息を感じる。

 顔を横に向けると、わたしの胸の上に左腕を乗せて、音兄がこっちを向いて寝ている。


「音兄……」


 腕をどかせて起きあがろうとすると、強い力で押し倒された。


「まだ寝てなきゃダメだ」

「なんで……? なんで音兄が、わたしのベッドで寝てるの? わたし、いつからここに……」

「三日。体が参ってるのに、もう三日もほとんど寝てないんだぞ。布団に押し込んで、押さえつけて、やっと少しだけ寝てくれたんだ。でもまだ二時間も経ってない。頼むから、何か食べるか寝るかしてくれ」


 言いながら、ベッドに横たわったまま強く抱きしめられた。身動きができない。力が、全然入らない。


「寝てなんて、いられないよ……」


 顔を音兄の胸に押し当てられたまま、なんとか声が出た。


「レヴィンさんが、酷い目に遭ってるかもしれないのに……」



 * * *



 三日前の、あの時――


 異変を感じた関川せきかわさんと音道おとみちさんが、うまく理由をつけて、何も知らない里琴りことさんと羽奈はなちゃんを連れ帰ってくれた。


 何が起きたのかと温玉おんたまちゃんに問いかけても、ただ困ったようにふるふると首(?)を振るだけ。


 音兄が、「リーネルトが鏡をどこかに隠したんだろう」と言った。

 わたしは情けなくも頭が真っ白になって、何もできなかった。真っ黒になった鏡面を見つめ続けることしかできなかった。


 頭の中で、最後まで聴けなかったオルガンと、知らない男の乱暴な声が何度もリフレインする。


(レヴィン・グライスフェルト!)

(よし、連れて行け!)


 何があったの?

 わたしはまた、ここで黙って待つことしかできないの……?


 どれだけの間、鏡の前で待ち続けただろう。

 久しぶりに音を聞いた。誰かが、そばにやってくる音だ。


『おーい、誰か聞いてる? この部屋にあるんだよな、確か』


 日本語。いづ兄だ!


「いづ兄! 聞こえる? いづ兄!」

理音りねか。兄貴はいる?』

「今呼んでくる!」


 呼びに行くと、すぐに音兄が化粧台ドレッサーの前に駆け込んできた。


伊弦いづる、まず鏡を外へ出してくれ。どこかに隠されたらしくて、何も見えないんだ」

『悪い、まだ出せねえんだ。このまま聞いてくれ』


 いづ兄の声は、わたしたちの上の方から聞こえてくるような気がする。鏡は床下に隠されているのかもしれない。


 出せないということは、教会で鏡を表に出せない事態が起きて、それがまだ継続してるということだ。

 只事ただごとじゃない。緊張が走る。


『レヴィンさんが、警察に連れていかれた』

「えっ!?」


 警察? どういうこと?

 すかさず音兄が身を乗り出して問いかける。


「理由は?」

『詳しいことはまだわかんねえけど、あの人が、革命組織の活動に加わっている、とかで……』

「それは……事実なのか?」

『まだはっきりしてねえけど、どうやらあの人の近所に住む知り合いのおばさんが、あの人のことを警察にしたらしい』


 密告、って――

 不穏な言葉に身が震える。


『そのおばさんちは、旦那さんがすでに捕まってて、いまだに帰ってこねえんだ。それでおばさん自身も正気を失っちまったのかもしんねえ。以前から、レヴィンさんがおばさんの娘をつけ狙っていると難癖つけていたらしいが、今度は革命運動に関わっている、だと。バカバカしい、その娘ってのはリーネルトより歳下だ。あの人が手を出そうとするはずがねえ。たまたま音楽の話で盛り上がっちゃったとか、そんな程度に決まってる。ただ、革命うんたらの方は……』


 いつも強気ないづ兄の声が、だんだん沈んでいく。


『あの人、あの通りお人好しすぎるだろ。職業上、顔見知りもたくさんいるしさ。ちょっと何か相談受けたり、ちょっと場所を提供したり……なんて形で、知らないうちに巻き込まれてる可能性がかなりある』

「そんな……レヴィンさんは何も悪くないのに?」

『ちょっとでも怪しい人間がいれば警察に拘束される。自分が助かるために、進んで隣人を密告する。この国は、そういう国なんだ。四・五十年前の東ドイツを思い浮かべればわかる』


 信じられない……!

 オルガンの件だけでも、ずいぶん横暴な政府だとは思っていた。でも、レヴィンさんやリーネルトさんを始めみんないい人たちばかりだから、わたしは今まで真の意味で理解できていなかった。こんな事態になるまで、本気でわかろうとしていなかったんだ。


 レヴィンさんも、わたしにさとらせないようにしてくれていた。

 自宅が安全じゃないからと、鏡を持ち帰らなかった時、わたしには気づくチャンスがあったのに。


「ベンカーとの協演は? レヴィンは政府の意向でコンサートに出演するんじゃなかったのか」

『警察はそんなことかまやしないんだよ。革命分子をステージに出そうとしていたってんで、コンサートとオルガン解体計画を進めていたリーネルトの親父さんは面目めんぼく丸潰まるつぶれだぜ』


 心臓が痛い。動悸どうきが止まらない。苦しい……!

 レヴィンさんたちの国が、四・五十年前のあの国と同じだというのなら、今頃どんな酷い目に遭っているか……!


「レヴィンさんは、レヴィンさんはどうなっちゃうの!?」

「伊弦、『飛揚ヒヨウ』は救出のために動いてくれてるのか」

『わからねえ……』

「わからねえって、お前、メンバーじゃないのか」

『全メンバーが全情報を共有してるわけねえじゃん。俺なんかまだ下っ端もいいとこだ。「飛揚ヒヨウ」が動くのは、あくまで「卵」の力が悪用されるケースの時だけなんだ。つまり、国家組織が主導してやったことや、レヴィンさんが本当に革命運動に関わっていた場合には、力を貸してはくれねえんだよ。たぶん今も色々調べてくれてるとは思うけど、それも教えてもらえるかどうか……。俺はあの人の関係者だから、真っ先に調査から外されちまって、今話したことを知るのだって大変だったんだ』

「……そうか」


 音兄は、下を向いてしばらく考えた後、心を決めたように顔を上げた。


「伊弦、とにかく一度こっちに戻ってこい」

『えぇ!?』

「その身体はベンカーのものだろう。コンサートが中止になったのにいつまでもウロウロしてたら、ベンカーまで捕まるぞ。お前のせいで彼がピアノを弾けなくなるようなことがあったら、どう責任とるつもりだ」

『……』

「それに、いい加減戻らないとお前の身体がもたなくなる。いったん戻って、それからどうすべきか考えよう。いいな」


 いづ兄には、他の選択肢はなかった。

 悔しさをにじませながらも、弱々しく『わかった、帰る』と言い残し、教会を去っていった。


 いづ兄はその後、こっちの世界に帰ってきたらしいけど、すぐには身体が動かず、しばらく病院から出られないそうだ。

 鏡はまだ、教会のどこかに隠されたまま。

 深い闇と沈黙が、鏡面を覆い尽くしている。


 わたしはずっと、温玉ちゃんと一緒に、鏡の前で待ち続けている。

 今にも闇が晴れて、あの人のちょっと恥ずかしそうな笑顔が映らないかと、そればかりを願い続けている。



 * * *



 あれから三日――

 わたしは、自分が食事や睡眠をろくにとっていないことに、音兄に言われるまで気づかなかった。


「音兄……そういえば、海外で仕事があるんじゃ……?」

「こんな状態の理音を置いていけないよ」

「ダメだよそんなの……!」


 わたしは、なんとか腕に力を込めて、音兄から自分の体を離した。


「音兄の音楽を待ってる人たちがたくさんいる。わたしは、その人たちから音楽の幸せを奪いたくない。今までごめんなさい。わたし、音兄の言う通り、ちゃんと寝て、ちゃんと食べるから。もう、大丈夫だから」

「理音はそう言うんじゃないかって思ってた」


 音兄はわたしの頭を撫でて、体を起こした。


「ツアーの最初は、観光とか大袈裟おおげさな食事会とかだから。俺だけ後から行っても大丈夫なんだ。今から向かえば、本番には十分間に合う」


 食事会って、歓迎パーティーのことだよね。

 主役が出席しないなんて十分問題だと思うけど、何でもないことのようにさらっと言う。


「もうすぐ伊弦が帰ってくるはずだ。あいつが帰るまでは家にいるから、理音はもう少し休んでて。スープか何か作って持ってくるよ」


 音兄……。

 そういう音兄も、あまり休めてないんじゃ? わたしのせいだ。


 わたしがしっかりしないと、色んな人たちに迷惑をかけてしまう。これから何をすべきか、考えることすらできなくなる。

 ちゃんと体力をつけよう。レヴィンさんのためにも。


 ベッドから体を起こすと、そばで休んでいたらしい温玉ちゃんがふよふよと寄ってきた。まだ緑の蝶ネクタイを付けたままだ。


「温玉ちゃん、ごめんね。落ち着いたら、また可愛いリボンを付けてあげるからね」


 最低限の身支度を済ませ、キッチンの音兄に声をかけてから、コンサートルームへ向かう。

 結局のところ、今のわたしの居場所は鏡の前にしかない。


 当分、食事はここでとろう。

 まだ向こうの鏡が教会に隠されているなら、また、何かの音が聞こえてくるはず。

 どんな情報も聞き逃さない。わたしは、万全の体勢でレヴィンさんに繋がる情報を待つ。


 鏡面は真っ暗なままだ。

 そういえば、二人の協演以来、ミラマリアさんとも繋がっていない。

 ミラマリアさんは今、どうしてるんだろう。

飛揚ヒヨウ」と共に動いているんだろうか。それとも、本来の軍関係の仕事が忙しいんだろうか。


「早く、前みたいに、みんなでたくさん話したい。元気な顔が見たいよ……」


 鏡に触れながら、わたしは祈るような気持ちでつぶやいた。


 しばらくすると、コンサートルームの外から大きな声が聞こえてきた。いづ兄の声だ。


 部屋を出ると、廊下で二人の兄が言い争っていた。

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