phrase4 たまごとピアノと調律師

「おっ、理音りねが弾いとる! 珍しいな」


パゴダ』の演奏が、ダミ声にかき消された。わたしと音兄おとにいの二人っきりの時間が、五十歳過ぎのおじさんに突然ぶち壊された。


「えーと、目の錯覚でしょうか? 音道おとみちさんが、住人わたしたちの許可もなしにリビングここまで来てるという幻影が見えるんですが?」


 すると、キッチンから音兄の声が飛んできた。


「ごめん、まだ言ってなかったっけ。俺が合鍵あいかぎ渡したんだ」


 合鍵ィー! 恋人かッ!


「さっき連絡来たから、合鍵で入ってくださいって返信した。九台もあるピアノを調律してもらうのに、毎回こっちの都合に合わせてもらうのも悪いからさ。いつでも音道さんの都合で来てもらえばと思って。俺も長期間留守にすることが多いし、理音も大学やバイトで忙しいし」

「心配すんな。理音が一人でいる時に襲いに来たりしねーからよ」

「そんなことしたら私がちょん切ります」


 後ろから、もう一人登場。音道さんの奥さんだ。


「急にごめんね、理音ちゃん。今度から来る時は必ず理音ちゃんに連絡するし、私も一緒に来るから。この人がはしゃいであほなことしないように、しっかり目を光らせておくからね」

「もうすでに、音道さんがはしゃいで持ち込んだたっくさんの楽器が……。まさか、これ以上増えませんよね?」

「そいつは保証できねえなー」

「バカ言ってないでさっさと仕事に取りかかって!」


 奥さんに追い立てられるように、音道さんは別室へ向かった。わたしは、しっかり者でいつも優しい奥さんににっこりと話しかける。


里琴りことさんがいらっしゃるなら、わたしは構いませんよ」

「ありがとう。いつもごめんね、すっかりあの人の楽器倉庫にしてしまって。羽奈はなのレッスンまでしてもらって、ほんと助かってます」

「こちらこそ、九台も調律していただけるの、めちゃくちゃ助かってますから!」


 キッチンから、いい香りが漂ってきた。音兄がダージリンを淹れてくれた合図だ。


「ちょうど、お土産のケーキを食べるとこだったんです。紅茶入りましたし、里琴さんもご一緒にいかがですか?」

「えっ、ごめんなさい、すっかりお邪魔しちゃって」


 わたしがソファーにうながすと、里琴さんは申し訳なさそうにしながらも、いつもの優しい微笑みを浮かべながら腰を下ろしてくれた。



 * * *



 ピアニストにとって、腕のいい調律師さんに出逢えるかどうかは重要事項だ。

 ピアノそのものの個性はもちろんのこと、ピアノが置かれている環境、演奏されるプログラム、奏者のくせや要望など、調律の際に考慮すべき点は多い。


 音兄には、コンサート前の調律をお願いするコンサート・チューナーとは別に、自宅ピアノの調律をお願いしている知人がいる。それが、さっきのおじさん、音道おとみち豊海ゆたかさんだ。


 音道さんは、資格を持つ正規の調律師さんではない。

 本業は公務員で、趣味はスティールパンを始めとするパーカッション演奏という、ちょっと変わったおじさんだ。


 彼はうちのピアノだけでなく、自分の打楽器も一通り自分で調律してしまう。

 スティールパンもピアノも、本来は専門の調律師でないと調律できない楽器。それを調律できてしまう音道さんは、実は調律に関する卓越した幅広い知識と技能の持ち主――というわけではない、残念ながら。


「そう言えば温玉おんたまちゃん、どこへ行ったのかな? チュー玉ちゃんのとこかな?」


 紅茶とケーキをいただいた後、音兄と里琴さんに断りを入れて、いつの間にかいなくなっていた温玉ちゃんを捜しに行くことにした。


 目星をつけて向かうと、コンサートルームからピアノの音がする。音道さんが調律をしているのだ。


 我が家には、少人数でのちょっとしたコンサートが可能な、自慢のコンサートルームがある。

 まだ子供だった頃から、音兄自身が先輩音楽家さん達に相談しつつ音響設備を調ととのえてきた、大切な場所だ。

 コンサート活動を本格的に始めるまで、音兄はよく、ここで録画した演奏動画をネットに上げていた。


 ここにはグランドピアノが二台。

 その他に、音道さんが勝手に置いてるスティールパンが……えっと、たくさん……

 スティールパンって、スネアドラム(小太鼓)みたいなものから寸胴ずんどう中華鍋みたいなもの、ドラム缶みたいなものまで、種類がたくさんあるのねー。音道さんのおかげで初めて知ったわー。名前がわからない珍しい楽器も、何げに増えてるわー。


 ピアノの屋根や鍵盤蓋などの外装を外し、ユニゾン音を出しながら各部品のチェック・調整をしている音道さん。その姿だけなら、ごく普通の立派な調律師さんのように見える。

 でも、彼の周囲をぽんぽん飛び回り、鍵盤の上や内部機構の上をころころと転げ回っている白いたまごが一つ。音道さんの卵の相棒バディ・エッグ、通称「チュー玉ちゃん」だ。

 

 そう、実際に調律してるのは音道さんではなく、このチュー玉ちゃんなのだ。

 音道さんは、チュー玉ちゃんのチェックに従ってちょこっと手を加えてるだけ。

 チュー玉ちゃんは、「チューニングができるたまご」。楽器に関わる者なら喉から手が出るほど羨ましがる力の持ち主だ。逆に、音楽に関係ない人間だったら宝の持ち腐れになったかもしれないけど。


 チュー玉ちゃんのおかげで、普通なら一台につき二時間はかかるグランドピアノの調律が、一時間以内で済んでしまう。しかも、音兄が満足するほどの仕上がりだ。

 それを、「プロではないから」と無料でやってもらっている。代わりに音兄が、彼の娘さんの羽奈ちゃんに無料でピアノレッスンをしている。音道家とは、持ちつ持たれつ、子供の頃から信頼関係を築いてきた音楽仲間なのだ。



 * * *



 温玉ちゃんは、チュー玉ちゃんと仲良しなので、よくチューニング中の音道さんたちの近くをぽんぽん飛んでいる。チュー玉ちゃんも楽しそうに、一緒にぽんぽん。「こら、仕事の邪魔すんな」とこぼす音道さんは、まるでたまごたちの本当のお父さんみたい。


「おう理音、一台終わったぞ」

「今日はどこまでやるんですか?」

「こっちの方もやっちまうから、そしたら久々に俺らで軽く一曲やろうぜ。お前らのピアノ・デュオと、俺とリコでさ」

「え、わたしもですか!」

「最近動画録ってねえだろ。音葉おとはも息抜きになるし、視聴者も喜ぶ」


 わたしと音兄のピアノ・デュオに、音道さんのスティールパンに、里琴さんのアイリッシュ・ハープ。かなり異色の編成だ。

 里琴さんのハープは、ちょうど別件で運ぼうとしていたので音道さんのトラックに積んであるそうだ。


 音道さんも里琴さんも、それぞれの楽器の奏者として音楽界ではかなり名前が知られている。

 うーん。この凄いメンツに、わたしも、ですか。


「どんな曲やるんですか? 急いで編曲しないといけませんよね」

「何かやりたい曲あるか?」

「そうですね……何でもいいなら、わたし、『ニュー・シネマ・パラダイス』やりたいです」

「いいねぇ。譜面はいらねえ、そいつをちゃっちゃとセッションしちまおう」


 ひえー!


 出たよセッション。ジャズ奏者がよくやる、複数奏者による即興演奏。言い換えれば、オリジナルアレンジのぶっつけ本番。ひたすら楽譜を追い続ける、クラシック畑のわたしにとっては心臓バクバクものだ。


 でも、音兄はクラシックだろうとジャズだろうと、メンバーに合わせてスラスラやっちゃうんだよね。しかも、すごく楽しそうに。


「ちゃんと理音も目立つアレンジしろよー」


 音兄の影に隠れて目立たない演奏をするな、と言われてしまった。


 確かに、音兄はきっと喜ぶ。

 音兄にとって、プロとしての仕事ではなく、批評も集客も関係ない、うちとけた仲間との音楽時間は何よりの息抜きになる。

 微力ながら、わたしも息抜きに一役買うとしましょうか。念のため、難易度高くなさそうな曲名を出しておいたし。


「各自、一分以上ソロパート。ノルマな」


 ぎゃー!

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