phrase16 「在る世界」と「無い世界」


山田やまだ耕作こうさく作曲

 ピアノ五重奏曲『婚姻の響き』



 山田耕作は、一般的には『赤とんぼ』や『待ちぼうけ』などの童謡の作曲者として知られているが、交響曲や管弦楽曲なども多数作曲している。


 ピアノ五重奏曲『婚姻の響き』には、聴く度に驚かされる。大正初期の日本人が、こんなにも新しい感覚を取り入れた華やかなクラシック曲を書くことができたのか、と。


 ピアノと弦楽器が美しく絡み合う。四本の弓が奏でる厚みのある旋律に、鍵盤が軽やかにはなを添える。前に出たり引いたりしながら、互いの最も美しい音を引き出していく。

 楽器ごとに、次々に大輪の花が開き、いくつもの色鮮やかな花束が会場いっぱいにあふれ出す。何度聴いても、乙女心を刺激される曲なのだ。


 ピアノ奏者は、もちろん音兄おとにい。指先から、全身からひらひらとたくさんの音符の花びらがこぼれては舞っていく。我が兄ながら、やっぱり美しいなぁ。


 他のメンバーは、第一ヴァイオリンの関川せきかわさんを始め、みんな音兄が子供の頃から慣れ親しんできた音楽仲間たちだ。

 以前、音道おとみちさんご夫妻と一緒に動画を撮った『ニュー・シネマ・パラダイス』のように、仕事を離れて息抜きに一曲合わせる、サークル活動のような演奏。でも、るからには本気で演る。場合によっては、仕事の本番よりも生き生きとした良い音が出たりする。


 わたしとレヴィンさんは、礼拝堂から応接室へと移動し、温玉おんたまちゃんが再生してくれる動画を見ていた。

 音兄のソロではなく、この五重奏クインテットの動画をレヴィンさんに見てもらったのは、音兄が楽しそうに他の誰かと音を合わせる姿を見てほしかったから。


 レヴィンさんは、わたしが期待していたよりもずっと、とても楽しそうに見てくれた。眼鏡の向こうの瞳を大きく輝かせて、にこにこしたり、うんうんうなずいたり、『いい曲ですねー』なんてつぶやいたり。

 きっと、どんな時にも「音を楽しむ」ことを忘れない人なんだ。


『彼には「はな」がありますね』


 曲が終わると、レヴィンさんがにこやかに言った。


『彼の全身から「華」を感じます。うまく弾けるピアニストはたくさんいますが、いっときも目が離せなくなるピアニストはそんなにいるわけじゃありません。もちろん演奏の実力、音楽性が第一ですが、実力が拮抗きっこうする状況ですと、それ以外の武器を持っている者が強い。リネさんのお兄さんにはそれがあります。コンサート・ピアニストは何千何万もの視線を一身に浴びるパフォーマーですからね。一言で言ってしまえば、美男子の方が得をする面があるってことです。うらやましい限りですよ』

「えっ、レヴィンさんも十分にカッコいいじゃないですか!」

『はは、リネさんにそう言っていただけると、お世辞でも嬉しいですよ』

「お世辞じゃありませんよぅ〜!」


 鏡の向こうで、眼鏡に反射する光のように輝く笑顔を見せてくれるレヴィンさんは、わたしの目には十分に美男子だ。本心なんだけどなぁ。


「それで、あの……どうでしょうか? 兄は、協演相手としては、有りですか?」

『素晴らしいプレイヤーだと思います。実際にやるとなると、色々と課題があるのですが、それらを抜きにして私個人の意向だけで判断させてもらえるなら、ぜひ一度音合わせ願いたい相手ですね』

「やったー!」


 思わず声を上げたわたしを、レヴィンさんが優しい目で見てくれている。


『お兄さん、だけではないんです』

「はい?」

『私は、リネさんの気持ちに応えたいと思ったんです』

「わたしの……ですか?」

『お兄さんを思って、涙を流されたでしょう。そういう、あなたの優しさに対して、何かできないものかと……いやすみません、自分でもなんかすごく恥ずかしいことを言ってるような気が……』


 レヴィンさん、視線をそらして口元を手で隠してしまった。ひょっとして、ちょっと動揺してる? 照れてる?

 わたしも、顔が一気に火照ほてってしまった。


「はっ恥ずかしいのはわたしです! 忘れてくださいーっ!」

『リネさんは、感受性が豊かな方なんですね。オルガンを聴いていただいた時にも、確か』

「わーっすみませんー! わたし、レヴィンさんの前で恥ずかしいとこばっか……!」

『いえ、その……』


 少し、間があった。


『……正直、嬉しかったんです。あんな風に、感動してくださった、ということが……』


 レヴィンさん……。


 オルガンの話をするレヴィンさんの中にはきっと、嬉しいだけじゃない、どうしようもないほど複雑な感情が渦巻いている。


「オルガン、望み薄そう、なんですか……?」

『……せめて、パイプの何本かでもこっそり回収できればと思ったんですが。一本一本、一桁ひとけたに至るまで、きっちり精査された上で持っていかれるそうです』

「そんな……」

『仕方ありません。そういう運命だったのでしょう。私にできることは、せめて少しでも多くの音を、人々の心に残していくことです』


 終焉しゅうえんの時が、迫っている。

 神様の音楽を取り上げるような行為を、神様は止めてくださらないのだろうか。


『リネさんやミラマリアさんに出逢えたことは、神が最後に差し伸べてくださった救いの手のように思えてなりません。少なくとも、私はかなり救われました。だから……どうか、そんな顔をなさらないでください。さっきのように笑ってくださる時の方が、リネさんは……ずっと、素敵だと思いますよ』



 * * *



 レヴィンさんが、言いにくそうに照れながらも優しくなぐさめてくれているのに、また涙が込み上げそうになる。わたしはいつから、こんなに涙もろくなっちゃったんだろう。


「わたし……あの時、オルガンの音に感動しただけじゃなく、とても悔しくて、悲しかったんです。どうしてわたしの世界には、オルガンがないんだろう、って。もっと早く知っていれば、たくさん関わることができたのに……」

『リネさんの世界にオルガンがない理由。実は、ちょっと考えてみたんです』


 亜麻色のまつげにふちどられたグレーの瞳が、わたしにまっすぐに向けられた。


『この鏡の仕組みはわかりませんが、リネさんたちと私たちは、共に地球に住みながらも、互いに全く違う世界にいる。国や格差という意味ではなく、時間・空間という意味で。SFの話になってしまいますので、違っていれば笑ってくださって構いません』


 レヴィンさん、気づいたんだ。


『私もたまにはSF小説などを読むんです。リネさんの世界と私たちの世界は、音楽史や作曲家などは共通しながらも、「教会オルガンの有無」という一点が異なっている。そちらには、小型のオルガンはあれどこちらのような大型のものはない。音楽に詳しいリネさんが教会オルガンの存在さえ知らないというのが不思議だったんですが、「あるきっかけで世界が分岐し、オルガンがる世界と無い世界という二つの並行世界が生まれた」――と考えると、納得できてしまうんですよ』


 わたしもずっと気になってた。なぜ、オルガンの有無が分岐してしまったんだろう?


「レヴィンさんは、『あるきっかけ』って、どんなことだと思いますか?」

『おそらく、ちょっとした宗派の違いです。音楽を重視する宗派としない宗派があり、重視する場合も演奏の形態の違いなどが細かく分かれてまして、オルガンの扱われ方が異なるんです。私の世界では、たまたま音楽を重視する宗派に、バッハに代表される偉大な大作曲家、オルガニストたちがいた。

 オルガンがここまで巨大になったのは、選ばれた聖歌隊だけでなく信者が全員で歌を歌う宗派が発展し、伴奏に大きな音を必要としたからです。そこに権威の象徴や美術作品としての意味合いも加わって、ここまで大きく立派になりました。逆に言えば、リネさんの世界では、礼拝で大型のオルガンを必要としない宗派が発展したのかもしれません』


 なるほど。宗派ってたくさんあってややこしいけど、その違いで、一つの楽器の命運が決まることもあるんだ。


『つまり、ある一点のちょっとした相違なんです。そう考えると、並行世界って無限にあるような気がしますが……私は、無限に広がる世界の中で、幾つもの偶然をくぐり抜けて、リネさんに出逢うことができたんです。今は、そのことに感謝しています』


 レヴィンさんの微笑みが、じんわりと、わずかな痛みをともなってわたしの中に沁み込んでくる。

 わたしはやっぱり、パイプオルガンと同じ世界に生まれたかった。どうしたって、わたしは同じ空間であの音を感じることはできないんだ。


 ――違う。オルガンだけじゃ、ない。


 何か音がして、レヴィンさんが横を向いた。

 わたしは、そっと鏡面に手を伸ばし、レヴィンさんの髪に、ほんの少しだけ、触れた。


 当たり前だけど、亜麻色の少しくせがある髪も、整った横顔も、温かそうな息も、冷たくて平らな鏡の感触しかない。


 オルガンだけじゃない。

 わたしは、レヴィンさんとも、同じ世界に、同じ空間にいたかった……。



 * * *



 礼拝堂に、誰かが来たらしい。

 いや、「押しかけてきた」と言うべきか。騒がしい声と足音が、複数の男性の来訪を伝えてくる。


『お、ちゃんとピアノ来てるな!』

『まだ調律されてないじゃないか。わざわざ出向いたのに、無駄足踏ませる気か?』

『ベンカーさん、ですね? 初めまして、私は』

『きみ、調律はいつやる予定なんだ?』

『まだ到着したばかりですので、環境に馴染ませるために少し時間を』

『いいじゃねえかトゥーマン、会場見れただけでもさー。それより俺、オルガン見てえんだよ! なあ、どっから上へ上がるんだ? あ、あの階段か!』

『待ってください、ちゃんとご案内しますのでー!』


 けたたましい足音と、レヴィンさんの困惑した声がバルコニーの方へ移動していく。


 なっ、何あれ! 感じ悪っ!


 ピアノとオルガンに用があって来た?

 どうやらアポ無しらしいし、初対面の挨拶すらできないなんて、どういう人たちなの?

 この応接室からじゃ、様子が全然見えないよー!


 と思ったら、ドアが開く音がして、リーネルトさんが現れた。

 彼は軽く会釈すると、鏡を持って静かに移動。礼拝堂のドアの隙間から、そうっと鏡を出して、様子が見えるようにしてくれた。


 バルコニーの上では、まだ三人の男性が何かを言いながらうろうろしている。

 困った様子のレヴィンさんと、大柄で筋肉質な、いかにも体育会系な感じの金髪男性。それから、いかにも神経質そうな、ひょろっと細い黒髪男性。


「リーネルトさん、あの二人は誰なんでしょう?」

『大きい方が、ピアニストのバルドゥス・ベンカーです。もう一人はたぶん、マネージャーですね』

「ずいぶん無作法な人たちに見えるけど、有名なピアニストなんですか?」

『世界的に有名です。でもあんなやつらだってわかってたら、協演の話なんて受けるべきじゃなかったんです。先生は色んな事情で断れなかったみたいだけど』


 協演! じゃあ、あの人が……


『なぜかあっちからオファーが来たんです。先生とこの教会でやる、という内容で、プログラムまで指定して』


 わたしはもう一度、もじゃもじゃの金髪頭を振り回す大柄な男性を見つめた。


 あの人が、今度レヴィンさんと、シューマンを協演するピアニストなんだ。

 いったい、どんな理由で……?

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