第三楽章 世界を繋ぐアンサンブル

phrase15 ピアノとオルガンが出逢う時

『過干渉はしないつもりだったんだけどなぁ……』


 二人だけになった時、ミラマリアさんがぽそっとつぶやいた。


「頼れるイケメンお姉さん」のミラマリアさんも素敵だけど、わたしだけにこっそり弱みを見せてくれるミラマリアさんも、可愛くって好きだなぁ。



・互いに個人情報は漏らさない。

・「楽器研究のための情報を得る」以外の目的で、他の世界に干渉しない。


 というのが、これまでのミラマリアさんの信条だった。

 でも、レヴィンさんたちの世界で、貴重なオルガンが不当な理由で次々に解体されているという話を聞いて、黙っていられなくなったのだ。


 過干渉と言っても、わたしたちにできることは、ミラマリアさんいわく「情報と精神への干渉」のみ。互いに情報を交換しながら新たなアイディアを出し合ったり、励まし合ったりはできるけど、手段は「温玉おんたまちゃん鏡通信」一つしかない。まして、鏡の向こうの世界に何らかの物理的な影響を及ぼすことはできない――はず、だった。


 鏡の向こうに見つけた、我が次兄・川波かわなみ伊弦いづるのサイン。

 それは、ミラマリアさんの言う「物理的干渉の初観測事例」にあたるかもしれない――というほどの、大事件だったのだ。



 * * *



 わたしとミラマリアさんは、サインのぬしを一刻も早く鏡の前まで連れてきてもらえるよう、レヴィンさんにお願いした。


 レヴィンさんの人望か、オルガンをうれう人たちの思いの強さか。ミラマリアさんの鶴の一声で始まった即席の「オルガン保全調査隊」は、教会関係者の皆さんも含めて、けっこうな規模へと成長を遂げていた。

 オルガン工房の技師たちとの繋がりも強くなってきたので、問題のサインの主を鏡の前に連れてきてもらえることになった。あくまでもコンサート前のメンテナンス相談という名目で、レヴィンさんが自然な形で礼拝堂へと案内してくれた。


 その人は、確かに日本人ではあったけど――

「いづにい」には似ても似つかない、全くの別人だった。もう五十代にはなろうかというおじさんだ。しかも、名前も「川波伊弦」ではないと言う。

 レヴィンさんがサインについて尋ねると、そのおじさんは不思議なことを言った。


『俺は若い頃からずっと、やまいで寝たきりだったんだ。毎日、大半の時間を家のベッドの上で過ごしていたんだが、ある時期から、自分が外に出てオルガン工房で働くというリアルな夢を見るようになった。そんで、気がつくといつの間にか体にしっかりと筋肉がついてきて、病も治って健康体になっちまってた。で、夢に出てきた工房に行ってみたら、みんなが俺を本当に技師の仲間として扱うじゃねえか。訳わかんねえけど、俺は夢のおかげですっかりオルガン制作が好きになってたから、こんな歳だけど一から勉強させてもらうことにしたんだ。たぶん、俺が寝てる間に、誰かが外に出て俺の代わりに仕事を覚えていたんだろうなあ。「川波伊弦」ってのは、そいつが名乗っていた名前らしいんだ』


 レヴィンさんは以前、この人が「イヅル」と名乗っていた時に顔を合わせたことがあるという。

『確かに、中の人格がまるで変わってしまったように見えますね。寝たきりの人にはとても見えませんでした。不思議なことがあるものです』と、レヴィンさんは首をかしげながら話してくれた。


 結果的に、寝たきりだったというこのおじさんは、健康な体を手に入れて、オルガン制作という生き甲斐まで見つけたことになる。

 とても不思議な話だけど、こう考えれば辻褄つじつまが合う。


「いづ兄のたまごに新機能が宿り、いづ兄は、違う世界の住人に憑依ひょういできるようになった」、と。


『あんたら兄妹って、ほんとお騒がせな玉子の持ち主よね』と、ミラマリアさんにあきれられてしまった。


 いづ兄は、今はオルガン工房を離れて、どこにいるんだろう?

 それに、いづ兄自身の「本体」は、今どこに?


『たまには連絡が来るんでしょ? 今、リネが考えているほどの最悪な事態にはなっていないと思うわよ』

「だといいんですけど……やっぱり色々考えちゃいますよぅ……」


 たまに来るメッセージ。墓地の赤いカーネーション。工房に残された筆跡と、そこで働いていた痕跡。

 どれも、いづ兄本人の顔や声を確認できたわけじゃない。無事な顔を見るまで、とても安心できないよ。


 いづ兄が関わっているなら、音兄おとにいにも鏡通信のことを早く知らせなきゃいけない。

 音兄が帰ってくるまで、後一週間。

 日に一回はメッセージのやりとりをしてるけど、説明しづらいことだから、やっぱり直接顔を合わせてきちんと話したい。


 いづ兄のこと、ミラマリアさんのこと、レヴィンさんたちのこと、パイプオルガンのこと……。

 話すことが多すぎる。音兄、どんな反応をするのかな……。



 * * *



 今日は、ミラマリアさんには用事があるとかで、わたしひとりが鏡の前に待機することになった。

 さすがに、どの世界でも常に誰かが鏡の前にいるわけじゃない。用件があれば鏡の前に伝言メモを掲示しておくことで、情報交換をしたり待ち合わせをしたりしている。


 鏡の前でコロコロと転がる温玉ちゃんを眺めながら、大学の課題を片付けていた時。

 鏡から、ピアノの音が聞こえてきた。


『亜麻色の髪の乙女』。

 教会のコンサートで、リーネルトさんのヴァイオリンとレヴィンさんのオルガンによる協演を聴かせてもらった、ドビュッシーの前奏曲だ。


 あの時の演奏も素敵だったけど、このピアノも凄くいい。柔らかなペダルにいろどられたシンプルなメロディが、澄みきった空気に溶けるような余韻を残す。決して急がない穏やかな演奏から、奏者が心からこの音楽を大切にしているのが伝わってくる。


 誰が弾いているんだろう。きっと、とても優しい人だ。

 正体を知りたいとも思うけど、このままもっと聴いていたいという気持ちもある。

 うっとりとひたっていると、残念ながらすぐに演奏が終わってしまった。もともと短い曲なのだ。


『こんにちは、リネさん』


 レヴィンさんの声が聞こえて、鏡の中の景色が動いた。レヴィンさんが鏡を移動させたらしい。

 周囲に礼拝堂の景色が見える。たぶん、前方のステージになっている部分のすぐ横。そこにピアノがあって、レヴィンさんが譜面台の上に鏡を置いた。景色が固定されて、目の前に、ピアノ鍵盤と、椅子に座るレヴィンさんが見える。


「レヴィンさん、こんにちは。今の演奏はレヴィンさんが?」

『はい。ピアノが届いたので、ちょっと試奏してみました。調律はまだですが、大きな問題はなさそうですね』

「今の曲、リーネルトさんとも演奏しましたよね」

『彼にもコンサート前に一度聴かせたんですよ。このピアノではなく、学校のピアノで。女性をテーマにしたフランスの曲ですからね、彼は苦手だと感じていたみたいで。おかげでいい演奏になったでしょう?』


 思わず笑いがこぼれた。まだ十五歳でものすごく真面目なリーネルトさんには、この曲は難題だったんだろうな、でも先生の演奏ですぐに弾き方をつかんじゃったんだろうな……と考えると、なんだかとっても微笑ましい。


 二人は教会で会う前から、もともと同じ音楽学校で顔を合わせていたそうだ。リーネルトさんはヴァイオリン科の生徒で、レヴィンさんはピアノ科の教師。

 レヴィンさんはずっと、オルガン科を新設したいと学校に働きかけていたそうだ。実現したら、リーネルトさんも転科したのかな。残念ながら、今となっては叶わぬ夢だけれど。


『ヴァイオリンを売って家を出る』宣言をしたリーネルトさんは、その後考え直して、今も自宅からヴァイオリン科に通っている。レヴィンさんがこう言って説得したからだ。


『ヴァイオリンをやめることはない。ヴァイオリンの経験は、オルガンにも必ず役に立つからね。それに僕は、君のヴァイオリンの音がとっても好きなんだ。聴けなくなると寂しいなあ』


 それから、親の動向にそれとなく注意を向けていてくれると助かる、とも。

 何かあった時、リーネルトさんまで警察沙汰に巻き込んでしまうわけにはいかない。せめて家にいてくれれば、家庭の問題だけで済むかもしれない――という、レヴィンさんなりの配慮だろう。


 リーネルトさんは、解体ギリギリまでレヴィンさんの助手アシスタントを務めるという。親の方も、「どうせもう解体されるんだから」と思ってか、息子の好きにやらせているようだ。

 ギリギリの「その時」が来たら、わたしたちがリーネルトさんの未来に残せるものは何だろう。何かを残すために、レヴィンさんも、わたしたちも手探りで動き続けている。

 


 * * *



「教会にピアノを入れたんですね。とても素敵な音でした。どうして、今になってピアノを?」


 オルガンを解体・撤去して教会音楽を縮小しようという今の流れで、なぜ新しい楽器が導入されたのだろう。


『今度、コンサートでピアニストと協演するんですよ』


 ドクン。

 その一言が、心の底に押し込めていたはずのわたしの願望を、再浮上させてしまった。


(彼らの音を、音兄の音と、合わせられないだろうか――)


 別のピアニストに、先を越された。

 そうだ。オルガンが解体される前じゃないと、音兄との協演は、もう二度と叶わないのでは?


 わたしが聴きたいのは、わたしがまだ一度も聴いたことがない、パイプオルガンとピアノの協演だ。

 その音を、全身で感じたい。音兄にも、レヴィンさんにも、ミラマリアさんやリーネルトさんにも感じてほしい。

 温玉ちゃんがいなければ、わたしの世界とオルガンの世界が出逢わなければあり得なかった、奇跡のコラボレーション。今ここでなければ生まれない音楽。


 今、レヴィンさんたちにとってそんな状況じゃないのはわかってる。わたしが今抱いている夢は、口に出すべきじゃない不謹慎なわがままなんだろうか……。


『リネさん? 何か、話したいことがありそうですね。よければ遠慮なく聞かせてください』


 鏡の中のレヴィンさんは、いつでも優しい声をかけてくれる。言ってもいいのだと、笑わずにちゃんと聞いてくれるのだと思わせてくれる。


「えっと……参考までに教えてください。どんな曲を演奏されるんですか?」

『けっこうガッツリやるんですよ。シューマンのピアノ協奏曲、三楽章全部です』

「えっ……」


 鍵盤上で、レヴィンさんの指が動いた。懐かしいメロディが、再び教会の空気を満たしていく。


 神聖な舞台にふさわしい、心を打つ音色。

 この曲は、わたしの中に眠っていたたくさんの記憶を開放してしまう。

 あの日の音兄の輝きを。二人で流した涙を。わたしたち二人の音楽に、深く刻まれた爪痕つめあとを。


 音がやんだ。レヴィンさんが、心配そうな顔でわたしを見ている。

 わたしは、いつの間にか両目を涙で濡らしてしまっていた。


「すみません、大丈夫です。この曲には、色々あって……。この曲は、わたしが兄に一番弾いてほしい曲、なんです」

『お兄さんがいらっしゃるんですね』

「はい。ピアニストです。この曲は、わたしが兄に一番弾いてほしい曲……でも、兄にとっては、おそらくもう二度と弾きたくない曲、です」


 七年前、国際ピアノコンクール本選

 ――音兄は、この曲で三位入賞に輝いた。


 ちょうど、音兄がこの曲を演奏していた頃

 ――わたしたちの父は、事故に遭って、そのまま――


 あの時の音兄の演奏は、今でも耳に残っている。絶対に忘れられない、素晴らしい演奏だった。

 本選の大舞台に立ち、歴戦の指揮者・オーケストラと渡り合いながら、今まで聴いた中で一番と思えるくらいの音を奏でる音兄は、もう兄とは信じられないくらい雲上うんじょうの人だった。父の事故のことを知らないまま、わたしはあの時も泣いていた。兄に、身体と魂の底まで泣かされた。


 あの時の音兄が、どんなに打ちのめされたか、わたしは知っているはずなのに。

 本人の意思を聞くよりも先に、わたしの口から、勝手に言葉が出た。


『レヴィンさん。時間がないのはわかっています。その上で、お願いがあるんですが……。一度でいいんです。わたしの兄と、協演してもらえませんか?』

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