最終楽章 ただあなたの笑顔のために

phrase30 心はずっとそばにいる

『リネさん!』


 その場にくず折れてしまったわたしを、咄嗟とっさに支えてくれたのはいづ兄だった。

 同時に、鏡の向こうでも動きがあった。


 顔を上げると、レヴィンさんがベッドを飛び出してこちらに駆け寄ろうとして、牧師さんたちに止められているところだった。


『リネさん! 大丈夫ですか? すみません、僕のせいで……!』


 レヴィンさん。

 駆け寄ってきてもわたしを助け起こせるわけじゃないのに、それでも真っ先に動こうとしてくれた。点滴が外れるのもかまわずに、わたしを支えようとしてくれたんだ。


「レヴィンさんのせいじゃないです! すみません、わたし、力が抜けちゃって……」


 どうしよう。あんなに見たかった顔がすぐそばにあるのに、まともに見ることができない。ひどい顔を見せたくなくて、また下を向いてしまう。


『せっかくの協演の日に、あんなことになって……。ひどい場面を見せてしまって、申し訳ないです』


 そんな、すまなそうに言わないで……。レヴィンさんは何も悪くない。


『僕はもう、この通り元気なので。心配しないでくださいね』


 そんなわけない。どんなに笑ってても、レヴィンさんが受けた傷が簡単に消えるはずがない。


 音兄おとにいが、うつむいたままのわたしの頭をなでた。


「レヴィン、会えて良かった。俺たちはまた出直すよ。今は自分のことだけ考えて、ゆっくり休んで」

『ありがとう。そうさせてもらうよ』


 そう言って枕に体を預けたレヴィンさんは、急に思い出したように『そうだ、オトハ!』と、また起き上がってしまった。


『ピアノはちゃんと弾いてた? 僕が原因でオトハの演奏活動に支障が出たなんてことはないよね?』


 音兄は、ピアノのそばに置いてあった音楽雑誌を広げて見せた。眩しい照明を浴びながらピアノを弾く、タキシード姿のピアニスト・川波かわなみ音葉おとはの写真が見開きで大きく載っている。


「八ページの香港公演特集。見ての通りの大絶賛。今度アルバムも出る予定」

『凄いなあ。さすがだ』

「俺には、ピアノを弾くことしかできないから。今回はレヴィンのために弾いた。だからレヴィンに聴かせられないような演奏はできなかった。プログラムに『死の舞踏』とか『モツレク(モーツァルトのレクイエム)』とかがあるのは、ちょっと勘弁してって思ったけど」


『両方好きな曲だから、むしろ光栄だよ』と、レヴィンさんは笑った。音兄も笑った。


「笑い話で済んで良かったよ、ほんと」

『まったくだ。あ、あともう少しだけ話してもいいかな』


 牧師さんたちに支えられて、レヴィンさんは楽な姿勢で枕にもたれかかった。


『前、オトハが言ってくれた。「音楽は終わらない。たとえ楽器やこの手を奪われようと、何者も、音楽家から音楽のすべてを奪うことはできない」――その通りだったよ。どこでどんなことが起ころうと、僕の中には常に音楽が流れていた。音楽だけは、最後まで奪われずに済んだんだ。たとえ僕が演奏できない体になったとしても、オトハやリーネルトが僕の音楽をかてにして、さらに素晴らしい音へと高めてくれるに違いない――そう考えるだけで、生きる力が湧いてくるようだった。お礼を言わせてほしい。ありがとう』

「縁起でもないこと言うなよ。音を高めるのは、これから自分でいくらでもできるんだから」

『そうだね。その通りだ』


 音兄の言葉を反芻はんすうするように、目を閉じてゆっくりと答えている。

 レヴィンさんの中で、これまでの経験とこれからの可能性が混ざり合い、また新たな力が生まれてくるのをしみじみと味わっているようだった。


 リーネルトさんの顔が浮かんだ。彼にも、レヴィンさんに早く会わせてあげたい。

 その時、病室に一人の男性が駆け込んできた。確か、教会の人だ。


『先生! あの子、リーネルトが来た! 電話も交通もなかなか動かないから、田舎から教会まで歩いて来たんだそうだ。ここに連れてきても大丈夫かい?』

『リーネルトが……』


 レヴィンさんの顔が、ほどけるように柔らかくなった。


「俺たちはこれで失礼するよ」


 師弟の再会に水を差すわけにはいかない。わたしたちは、鏡通信を切り上げることにした。


 今度こそ、リーネルトさんはレヴィンさんからオルガンを学ぶことができるんだ。



 * * *



 レヴィンさんは翌日には退院し、しばらく自宅でゆっくり休むことになった。


 レヴィンさんが拘置所に入れられた原因――レヴィンさんを警察に密告した近所の女性は、娘もろともいなくなっていたそうだ。彼女の夫が戻ってきたのかどうかもわからない。

 みんなにとってモヤッとする結果に終わってしまったが、レヴィンさん本人は「より音楽の大切さを知るために神様がくださった機会」なのだと思うことにしたそうだ。わたしには、そんな風に思えるレヴィンさんこそ神様のように見えてしまう。


 拘置所では、目に見える傷を残すような非合法な拷問こそなかったものの、人間の尊厳を傷つけるやり方での尋問や洗脳が連日連夜行われていたそうだ。精神を病む者、長くPTSDに苦しむ者、命を落とす者も少なくなかったという。もしもまだ革命が起きていなかったら――考えるだけでも恐ろしくなる。


 これらの情報はレヴィンさんの周囲の人たちから聞いた話で、レヴィンさん本人がわたしたちに詳しく語ることはない。

 不揃ふぞろいに切られてしまった髪も、「邪魔だから自分で切って失敗した」なんて笑いながら言う。わたしたちに心配をかけないようにしてくれてるんだ。


 その笑顔は、レヴィンさんが今でも失わずにいる、ふところの深さ、大いなる優しさだ。

 彼の優しさを無駄にはしたくないけれど、受け取って甘えるだけじゃダメだ。優しさの奥にある、彼が普段見せないようにしている感情にも、そっと寄り添ってあげられるような大人になりたい。



 * * *



 彼は毎日、自宅のオルガンを弾いている。

 手鍵盤二段と足鍵盤。エレクトーンくらいのサイズだけど、二百本以上のパイプを内蔵し、ストップも四つある。「ポジティフ・オルガン」というそうだ。

 なんと、工房のフェルザーさんが一人で作ってプレゼントしてくれたという。フェルザーさん、ほんとにいい人!


 レヴィンさんが自宅に鏡を持ち帰ってくれたおかげで、わたしは毎日彼のオルガンを聴いている。例のレヴィンさんオリジナルの曲も、ちゃんと最後まで聴かせてもらうことができた。


 奪われた時間を取り戻すように、何時間でもオルガンを弾き続けるレヴィンさんと、演奏を聴いて癒されるわたし。

 たまに、短い曲をわたしのピアノに合わせて一緒に弾いてくれる。

 音兄ほどレベルの高いアンサンブルはできないけれど、これはこれで、とても楽しい。


 今日も、大学から帰るとコンサートルームへ直行。

 温玉おんたまちゃんが鏡を接続すると、やっぱりレヴィンさんがオルガンを弾いていた。


『お帰りなさい、リネさん』


 憧れの人にお帰りなさいを言ってもらう幸せ。あぁやっぱり癒されるー。


『教会へのオルガンの再設置がそろそろ終わりそうです。オーバーホールの機会としてはちょうど良かったかもしれませんね。工房の皆さんが気合いを入れて点検やメンテナンスをしてくださったおかげで、また長く愛されるオルガンになるはずです』

「良かったー! また教会でレヴィンさんのオルガンが聴けるんですね!」

『はい。学校にも、そろそろ復帰できそうです』


 本当に良かった。レヴィンさんの髪も伸びてきたし、様々なことが徐々に元の状態に戻っていく。


 全てが元通りというわけではない。レヴィンさんの経験はとても「なかったこと」にはできないし、急速に変化した国の混乱はまだ続いている。

 それでも、レヴィンさんが、リーネルトさんが、自分の望む音楽を続けてくれるなら。わたしはそれが一番嬉しい。


『リネさんには、とても心配をかけてしまって……。今もこうして、練習や話に付き合ってくださって。どんなに感謝してもしきれません。本当にありがとうございました』

「そんな、わたしがやりたくてやっていることですから」


 レヴィンさんが復職したら、今のように一緒にいられる時間はかなり減ってしまう。

 寂しいけれど、やっぱりレヴィンさんは自宅より教会で弾いている方がずっとカッコいい。笑顔で祝福してあげないと。


『……リネさん』


 ふいに、レヴィンさんから笑顔が消えた。


『リネさんが色々と良くしてくださっているのに、僕は、何もできない……。あなたが倒れた時に支えることも、触れることもできなかった。時々、それがどうしようもなくもどかしくなるんです』


 ドクン。

 何の話だろう。心臓が落ち着かなくなる。


『いや、そもそも僕なんかより、リネさんには絶対にもっといい出逢いがあるはずで……歳も離れてるし……』


 段々、言葉がモソモソし始めた。彼は顔がはっきり赤くなったかと思うと、手を上げてくるっと後ろを向いてしまった。


『すみません、今のなし! ちょっと待っててください!』

「はっ、はいっ……」


 後ろを向いたまま、ブツブツと呪文のような言葉が聞こえてくる。


marcatoマルカート(はっきりと)、spiritosoスピリトーゾ(精神を込めて)、appassionatoアパッシオナート(熱情的に)、energicoエネルジコ(力強く)……』


 全部、演奏記号だ。


 イタリア語の呪文を唱え終わると、彼はまたくるっとこちらを向き、まるでこれから一曲始めるかのように大きく息を吸った。


『僕は、リネさんが好きです! 愛してます! 僕と付き合ってください!』

「はっ、はいぃぃっ!」


 反射で勢いよく返事してしまったけど、わたしにはこれ以外の返事なんてあり得ない。


「鏡越しの遠恋えんれんカップル」が、爆誕した瞬間だった。


『えっ、本当にっ? こんな形でしか、会えませんけど……』

「それは、最初からわかってたことですから。それでもわたし、レヴィンさんが好きになっちゃったんです。物理的な距離は、心の距離で飛び越えちゃいます!」


 彼はもうとっくに、眺めて応援するだけの「推し」の対象ではなくなっていた。

 彼と同じ世界にいられたら――何度そう思ったかわからない。

 でも今は、彼が生きていてくれるだけで、こんなにも嬉しい。顔を見られるだけで、声を聞けるだけで、こんなにも幸せ。今はこの幸せを大切にしたい。


 今日の出来事を最初に報告したい人に、長い間ずっと会えずにいることが、今はただ気がかりだった。

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