phrase13 鍵盤と弦、溶け合うコラボレーション
コンサートの二曲目は、昨日も聴かせてもらったバッハの『パッサカリアとフーガ ハ短調』だ。
何度も繰り返す低音部のテーマと、高音部で展開する
三曲目と四曲目は、ブクステフーデという作曲家の作品。
ブクステフーデは、一般的にはバッハほどの知名度はないものの、
『バッハがめちゃくちゃ影響受けた作曲家なんです! 彼の演奏を知ることがなければ、バッハのオルガン曲は全く違うものになっていたかもしれませんよー』
と、レヴィンさんが「うきうきオルガン講座」で語ってくれた。
♬ディートリヒ・ブクステフーデ作曲
『プレリュード ニ長調 BuxWV139』
『シャコンヌ ホ短調 BuxWV160』
バッハよりも先に活躍していた作曲家だというので、バッハよりも古めかしい、いかにもバロック、古典、という感じの曲なのかと思ったら――
か、カッコいい……!
予想をはるかに越える、
もちろん、そこにはバッハの曲にも見られる昔ながらの音形、作曲法が数多く詰まっているのだけど。一方で、型にとらわれず、当時の常識を大きく飛び越えるような、人の心に直接訴えかける音楽というものを追い求めているように思える。
『プレリュード ニ長調』で、高速で駆け巡る両手が生み出す音符は、まるで万華鏡のようにキラキラと輝く光の粒のよう。
『シャコンヌ ホ短調』の、胸に迫る切なさといったら。優しい音色でゆっくり繰り返すテーマが、徐々に音色を変え音量を変えて盛り上がっていく
ブクステフーデ、凄くいい。推せる作曲家!
両手両足を華麗に駆使しながら、難曲を巧みに操るレヴィンさん。
誰よりも師の演奏を理解し、師の望みを理解して音色を操っているとしか思えないリーネルトさん。
レヴィンさんの演奏も、リーネルトさんのアシストも、本当にカッコいい。
二人で考えたというレジストレーションに、教会の響きを十分に知り尽くしたうえで、なおたゆまず検証してきた努力と
二人の横顔が、演奏中の
ひたむきに曲を追い、技術と情熱を音に捧げる彼らの姿は、わたしの憧れそのものだ。
ミラマリアさんが、ストール代わりに羽織っているベージュのレースで顔を隠してしまった。
見せられない顔になっちゃったのかな。可愛いなあ。
* * *
ここで、あと一曲でコンサートが終わりというタイミングで。
レヴィンさんが、立ち上がって一礼した。大きな拍手を受けながら、バルコニー横の扉を抜けて、控えの部屋に引っ込んでしまう。リーネルトさんもそれに続く。
やがて、二人が再びバルコニーに姿を現した時。
リーネルトさんが手に持っていたのは――ヴァイオリン!
『うわー、あの子ヴァイオリン弾くんだ!』
開演前に、どこからか聞こえてきたヴァイオリンの音。あれはリーネルトさんが鳴らしていたんだ。
音兄とわたしは、一流のヴァイオリニストとの交流がある。
子供の頃から、音兄が個人的に何度か協演させてもらっている、
関川さんは、若い頃ベルリンフィルとの協演でソリストを務めたこともある実力者だ。だからわたしは、少しながら一流のヴァイオリニストの姿を知っている。
一礼して、ヴァイオリンを構えたリーネルトさんの姿に、関川さんの姿が重なった。
姿勢が全く同じというわけではない。年齢も大きく違う。でも二人には、共通する何かがある。
きっと、これが一流ヴァイオリニストだけが持っている、弓と弦にまとわせる音楽の「気」のようなものなのだ。
♬クロード・ドビュッシー作曲
前奏曲集第1集より第8曲
『亜麻色の髪の乙女』
ピアノ曲でありながら、数々の編曲がなされてきた有名曲だ。ヴァイリン演奏で聴いたこともある。
弓を構え、今にも動かそうとしたリーネルトさんは――その瞬間、なぜか動きを止めてしまった。わずかに眉が険しくなっている。客席を見ているようだ。
客席に、誰か、見たくない人を見てしまったんだろうか。
彼は静かに息を吐き、横目でオルガン
レヴィンさんが、無言でうなずく。それだけで、何かが軽くなったのか。リーネルトさんは、再び弓を構えた。
リーネルトさんが息を吸い、弓を滑らせ始める。
ヴァイオリンは、最初の一音で実力がわかってしまう。のびやかで豊かな音色が響き渡り、それだけで「この演奏は期待できる」と、良い音との出逢いに胸が高鳴った。
リーネルトさんのヴァイオリン・ソロ。誰もが知っている名高い旋律が、これ以上ないくらい滑らかに、空気に乗せて流れていく。教会の設計が、素晴らしい音響装置となって彼の音を受け入れ、より広がりのある音へと導く。
静かに、伴奏として別の音が加わった。
オルガンだ。レヴィンさんが、控えめに優しく、曲の底部を支えている。あくまで主役はヴァイオリンで、自分は伴奏に徹するらしい。
でも、やっぱりオルガンなのだ。ピアノ伴奏とは全然違う。音の厚みが、音色の多彩さが、教会の空気との飽和性が、今まで聞いたことのない新たな『亜麻色の髪の乙女』を生み出した。
リーネルトさんの表情。わかる、わかるよ。嬉しいんだよね。
これ以上は望めないくらいの、極上のコラボレーション。その相手が、誰よりも信頼する師なのだから。
わたしも、音兄と演奏するのが本当に嬉しかった。だからわかるよ。
同時に、リーネルトさんのこれまでの苦難が垣間見えるような気がしてしまい、切ない感情にとらわれた。
十五歳の少年がこれだけの音を出すのに、今までどれだけの練習を積んできたのか。
音兄を見てきたからわかる。普通の子と同じ遊びはできないし、スポーツもかなり制限される。来る日も来る日も音楽、練習だ。
音兄はそれでもピアノが好きだった。でも、才能ある子供のすべてが望んで音楽をやっているとは限らない。そこには多分に、親の確固たる意志と、経済事情が反映されてしまう。
本人が「プロになる」と明確に意思を固めてからでは、あまりに遅すぎる。幼少期のうちに将来を見通した人生を始めることになる。それが、ピアノやヴァイオリンに共通する、一見華やかだけれど厳しい、音楽家の人生。
加えて、贅沢なほど豊かに高音を伸ばせるリーネルトさんのヴァイオリンが、「家が建つ」以上のお値段であることも予想できた。彼の外見や制服からも、どれだけ裕福な家に育ったのか、どれだけヴァイオリンの腕を期待されているのかが読みとれる。
それなのに、彼はレヴィンさんの教えを、
今日のヴァイオリンの演奏は、誰かの指示なのかもしれない。
彼の『亜麻色の髪の乙女』はとても美しかった。このレベルならきっと、音兄も関川さんも喜んで聴いてくれるだろう。
でも、ヴァイオリンの音色を輝かせているのはきっと、他でもない、レヴィンさんの力だ。
* * *
大きな拍手が、いつまで経っても鳴りやまない。
もちろん、わたしとミラマリアさんも手を痛くなるほど叩き続けている。
レヴィンさんは、リーネルトさんを讃える動作を何度も繰り返した後、わたしたちの方にも
アンコールは、これもよく知っている曲だ。
♬エリック・サティ作曲
『ジムノペディ 第1番』
憂愁を帯びたヴァイオリンの旋律と、不思議な和音で包み込むオルガン。
途中、旋律と伴奏を入れ替えながら、二人の澄んだ音が絡み合い、溶け合っていく。
素敵なコンサートだった。今日の演奏は、わたしにたくさんの可能性を教えてくれた。
二人の協演を聴きながら、一つ、わたしの中に芽生えた思いがある。
――彼らの音を、音兄の音と、合わせられないだろうか――
オルガンが、他の楽器とも親和することがわかった。
レヴィンさんによると、昔からオルガン協奏曲は数多く作られていて、管弦楽と合わせる機会は多いのだという。それなら、ひょっとしたら、ピアノとも……。
わたしが心から尊敬する音楽家たち。協演したら、いったいどんな凄い音楽が生まれるだろう。
この案を早く誰かに聞いてほしくて、うずうずしていると、突然、客席の方から誰かの泣き声が聞こえてきた。レヴィンさんが、なんとかなだめようとしている声も。
『お気持ちはとても嬉しいです。まだ来月まではいますから、できるだけもっと聴いていただけるように……』
『来月で終わってしまうなんて、とても信じられません! 横暴です! このオルガンがなくなってしまうなんて、とても耐えられません!』
『イェーリスさん、どうか落ち着いて』
『他の教会でも、次々に解体されているというじゃないですか! このオルガンが、ただの木片と金属片にされてしまうなんて……!』
……え?
レヴィンさんが、なんとか穏やかに話を終わらせようとしている。牧師さんや他の教会関係者たちも、なだめるのに加わったようだ。
イェーリスさんという人に賛同して声を荒げる人はいない。他の人たちの間では、今日の演奏を絶賛する声と、
すぐ横に、リーネルトさんが立っている。
バルコニー上から、まだヴァイオリンを持ったまま、教会の出入り口の方を
ヴァイオリンを持つ手が震えている。今にも落としてしまうんじゃないかと、わたしとミラマリアさんはハラハラしながら彼が落ち着くのを待つことしかできなかった。
リーネルトさんの心を占める
オルガンが。この素晴らしいオルガンが、来月にはなくなってしまうの……?
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