phrase2 鏡の中の金髪乙女

温玉おんたまちゃんのばかぁーッ!! 鏡にAVなんか流さないでぇーッ!! しかもロリじゃん! 児ポ案件じゃん! 見つかったら捕まっちゃうし、わたしにその性癖はなーいッ!」


 今日の日記ー。

 いつも音楽動画を再生してくれるうちの温玉ちゃんが、突然わたしの部屋の鏡に裸の女の子動画を再生してくれましたー。


「清純な乙女の部屋になんちゅーものを! 早く、早く消して! 消さんかい!」


 叫びながら、鏡にかけてあったはずの布を捜す。温玉ちゃんがすぐに消せなかったら、とにかくこれで隠す。

 部屋にはわたしと温玉ちゃんしかいないけど、こんなのがデカデカと映ってたら落ち着かないのよ! 証拠隠滅!


 鏡の中からは、女の子の何語だかわからない声がボソボソと聞こえてくる。AV絶賛上映中。

 見る気はないけど、参考までに、どんなジャンルかくらいは確認しとこう、か、な……


 そうっと鏡を見ると、女の子はもう裸じゃなかった。わたしがワタワタしてる間に、大きめのTシャツをかぶって、頭にヘッドホンのような物を装着してる。

 ヘッドホンには大きな二つの三角が並んでる。まるで猫耳。何それ可愛い。


『……言語体系取得……』

「え?」


 今のは日本語?


『骨格データ照合……声紋値分析……』


 AVじゃ、ない?

 それとも、よほどマニアックな……


『……以上、対象を二十歳前後の日本人女性と判定』


 え?


 金髪の女の子の眼光が、まっすぐにわたしを突き刺した。


『というわけで、さっきのあんたの発言も翻訳したわよ。誰がロリじゃあゴラァ! 私はこれでも二十八歳じゃあ!』

「うそぉー!?」



 * * *



 今日の日記ー(訂正版)。

 温玉ちゃんが鏡に映したのは、AVではありませんでしたー。


 ってか、「二十歳前後の日本人女性」って、まさかわたしのこと? 今、リアルでこの子と繋がってる? ビデオ通話? 鏡・ジ・オンライン?


『あんた、うちのバスルームの鏡に何したのよ! 不法侵入! 盗撮魔!』

「ひやあぁぁすみません!! うちのたまごがとんだご無礼をー!!」


 あまりの展開に腰を抜かしたわたしは、もはや鏡を布で隠すこともできず、部屋から逃げ出すこともできず。その場にへたり込んだまま、あわあわと泡噴きながらタコ踊りのようにうごめくことしかできない。


『卵って何! 誰かの名前? そいつを今すぐここへ連れてきなさいよ!』

「た、たまごって、世間一般でいうあのたまごです! ほらこの子です、この子。わたしの卵の相棒バディ・エッグ、温玉ちゃんですぅ!」

『……は?』


 わたしの顔の横で、温玉ちゃんがいつものようにふよふよと浮かんでいる。


『それ、AIペットか何か? 流行ってんの?』

「え。いや、あの、卵の相棒バディ・エッグですが」

『だから何なのそれ。商品名?』

「え……。あの、知りません? 卵の相棒バディ・エッグ。自分と一緒に生まれてくる、人生の相棒。たまに、たまごなしで生まれてくる人もいますけど」

『…………』


 おかしい。たまごの暴走による不祥事は、事情を話して謝ればひとまず許してもらえるかと思ったけど……どうも話が噛み合わない。


『要約すると、あんたはその丸い物体と一緒に生まれたと。そいつがうちの鏡に細工して、あんたのとこのカメラとモニターに繋げたと』

「そちらの鏡に細工したわけじゃないけど、あとこちら側も鏡なんですけど、たぶんそんなとこです……。どうも、この子の性能がいきなり変わっちゃったみたいで、わたしとしては全くの予想外ですので、どうか、ここは一つ穏便に」

『だーっはっはっはっ!!』


 いきなり高笑いされた。


『ありえねー! 見た感じ、昔の鶏の卵みたいだけど、なんでそれが人間と一緒に生まれてくんのさ! しかも「性能が変わった」って? 人間が、そんなどこの精密機器かもわからんような怪しい物体を妊娠するんかい! 真顔であほなことしゃべらんでくれるー?』

「え、あ、あの……」


 何か、間違ったことを言っちゃったんだろうか。

 どうしよう、わたしの常識が、全く通じない。


『まあ、あんたの妄言はひとまず置いといて。あんたの限界を超えた間抜けっぷりを見れば、あんたがスパイでも性犯罪者でもないことはわかる。それより、もっと気になることがあるんだけど』

「な、何でしょう?」


 透き通るようなアクアマリンの瞳が、まっすぐにわたしを見る。


『さっき、何か音楽が聞こえてきたんだけど。あれ何?』


 音楽?


 そういえば、さっきまでずっと『ドリー』の動画を流しっぱなしだった。再生はもう終わってるけど。


「あ、あれはピアノの演奏動画です。わたしと兄が小さい時の……」

『ピアノ……!?』


 ずずずいっと、もともと鏡に近かった彼女の顔がさらにアップになった。


『その動画、見せて』

「え、な、なんで」

『いいから! 見せなさい!』

「はいぃーっ!!」


 猫耳(に見えるヘッドホン)を付けた相手に鬼神のごとき形相で凄まれて、わたしはネズミのようにすばやく鏡の前に馳せ参じた。両手に大型モニターを抱え、「カモン! 温玉ちゃん!」と叫びながらモニターを鏡の御前に差し出すと、さっき聴いたばかりのピアノ連弾が再び流れ出す。


 組曲『ドリー』第1曲、「子守歌」。

 わたしと兄の、大切な思い出。


 でも、兄の伴奏はともかく、わたしのメロディなんて他人が聴いても面白いものじゃないだろう。モニターが邪魔で、鏡の中の彼女がどんな顔してるかは見えないけど。


 しばらくすると、『これ、合成?』と、彼女の声が聞こえた。


「合成……じゃないですよ? 特に加工はしてません。これ、十三年前に兄とわたしが演奏したもので」

『十三年前!? なんで、ピアノがあるの。しかもこんな、きれいな……』


 はっきりと、息をのむ音が聞こえた。


『このピアノ、まだある?』

「え、ありますよ。他にも何台かありますし」

『何台も!?』

「はい。うち、祖父がピアノ製造技師ビルダーだったので、GPグランドピアノが七台、UPアップライトピアノが二台あります。わたしの部屋にも、ほら」


 わたしはドレッサーをぐいっと動かして、鏡の向きを変えた。

 これで、わたし専用のGPグランドピアノが彼女に見えるはず。


『……これで、はっきりした』


 長い沈黙と、嘆息のあと。彼女の口調が、固く、重くなった。


『私は、古き時代に失われた楽器の研究をしているんだけど』


 猫耳さんが、楽器の研究者? 意外だ。


「失われた楽器って、ピリオド楽器(古楽器)のことですか?」

『私が知る限り、こんな完璧な状態の生ピアノは、もうこの世界には存在しない。つまり、私の世界と、あんたの世界は、全く違う世界ってことね』

「…………」


 言葉の意味を理解するのに、数十秒かかった。



 * * *



『ところであんた、名前は? どこに住んでるの?』


 ハッと、思考停止したわたしの脳に問いが入り込んできた。


「あ、わたし、川波かわなみ理音りねです! 住所は」

『バカタレ。黙れ』


 かれたのに黙れとは。


『さっきから気になってたけど、素性のわからん相手に何ペラペラさらしちゃってんのよ! 部屋見せたり、家の事情やフルネームまでバラしたり! あんたのセキュリティ観念はどーなってんの!』

「あっ、そう言えばそうですね! すみませんー!」

『さっきまでギャワギャワ騒いでおののいてたくせに、なんで今は普通に話せるわけ?』

「なんででしょう? 世界がどうこうって、まだよくわかんないけど、たぶんわたし、ピアノに興味持ってもらえたのが嬉しいんです。しかも、わたしと兄のピアノ、きれいだって言ってもらえたし」


 さっきまでの動揺と恐怖が、いつの間にかきれいさっぱり消えていた。

 言い方は少し乱暴だけど、可愛い猫耳をつけたこの人が、実はわたしを心配して忠告してくれているのがわかったから。


「あのー、何か一曲弾きましょうか? 兄ほどうまくはないですけど」

『え……いいの?』


 本人が言う通り、この人は本当に研究者なんだ。わたしがピアノ椅子に座ると、とたんにスイッチが入ったように、真剣な声で『ま、待って、データ録らせて!』とバタバタと駆け回り始めた。


『できればさっきとは違う曲で、お願い』

「じゃあ、わたしが得意な曲にします。それではお聴きください」


 息を吸い、静かに両手を下ろす。


 わたしの部屋で、「鏡の前の独奏会」が始まった。



♬クロード・ドビュッシー作曲

 ピアノ曲集『版画』より

 『パゴダ



 ドビュッシーが、インドネシアのガムラン音楽に影響を受けて書いた曲。

 特徴的な五音階ペンタトニックが、ガムランの各種打楽器の響きを添えて、静かに曲をいろどる。


 繰り返される主題。アジアの透き通るような空気に、複雑に絡み合うシンコペーション。

 感情を乗せすぎてはいけない。ドビュッシーが描く東洋の風景を、丹念にピアノの上に映し出す。


 パゴダが見える。アジアの寺院が現れる。

 悠久ゆうきゅうの時を揺蕩たゆた静謐せいひつなる空間に、清らかな音符がとめどなくあふれ出す――



 コンサートでもなく、コンクールでもなく。

 今この音は、たった一人の観客のために弾いている。

 ピアノがない世界にいるという、彼女のために。

 ピアノの美しさを届けられるように。



 * * *



『データ、あまりなくて……。こんなに美しい曲があるなんて、知らなかった』


 弾き終わった後、彼女は「ミラマリア」と名乗った。


「可愛い名前ですね!」

『いい? あんたのフルネームはもう仕方ないとして、これ以上個人情報漏らすんじゃないわよ! 互いの細かい素性や、住んでる環境なんかはノータッチで頼むわよ!』

「はいぃ!」

『……そういう条件でなら、また、話してもいいわよ。私もピアノのこと、もっと色々知りたいし……』


 ちょっともじもじしてる猫耳ミラマリアさんは、なんだか可愛かった。


「はい! またお話しましょうね!」



 今日の日記ー(追加版)。

 鏡の向こうに、金髪猫耳の新しいお友達ができました!

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