第10話 クモの糸

 地獄の永遠の夜空から一本の糸が降りて来たときカンダタはやったと思った。

 周囲の亡者たちはまだ糸に気づいていない。

 粘つく糸。もしやこれは蜘蛛の糸。そう気づいた瞬間にカンダタは思い出した。死ぬ直前、珍しくも自分が一匹の蜘蛛を助けたことを。単なる一時の気まぐれだったのだが、それが功を奏したらしい。

 細いが丈夫そうな糸に掴まり、カンダタは登り始めた。


 しばらく登ってふと下を見ると自分以外にも大勢が糸に取り付いている。当たり前だ。一人の人間が空に登っているのだ。目立たないわけがない。

 カンダタは慌てた。だが他に何がができるわけでもなく、カンダタはただ登り続けるしかなかった。

 地獄の空は何万由旬も高く伸びる。どこまで登っても果ては見えない。だがその先に極楽があることだけは間違いない。そう信じてカンダタは登り続けた。


 やがて疲れも相まってカンダタの手は止まった。糸の表面は粘りが強いので、手をそれに巻き付けて体を支えるとカンダタは少し休んだ。

 そしてそのままうっかりと寝てしまった。


 夢を見た。

 最初の殺人の夢だった。短剣で脅して持ち物を奪うだけのつもりが予想外の抵抗を受けてしまった。思わず突き出した短剣が相手の腹を切り裂いて初めて自分が殺人を犯したのを知った。相手の腹の裂けた傷からはみ出る臓物の色が見えた。己の死を悟って絶望の目でこちらを見つめる相手の顔が記憶に焼き付いた。

 どうしてだが涙が止まらなかったことも覚えている。


 うなされて目が覚めた。体はまだ糸にしがみついている。足下に他の亡者たちが迫っていた。追いついたらそいつらはカンダタを糸から振り落とすだろう。

 カンダタはまた登り始めた。

 しばらく一心不乱に登ってからまた体を休める。

 腕が疲れ切っている。そこでまたもやうたた寝をしてしまった。


 今度の夢はカンダタが酒楼で酒を飲んでいるものだ。そこは昔入り浸っていた場所だ。

 良い獲物を見つけてその首を切り裂き、懐にたんまりの金子を見つけたときは必ずここで飲んだ。

 奪った金はそのまま一晩の遊びで消えた。他人の命で贖う酒だ。

 なぜか夢の中の酒は血の味がした。


 目が覚める。自分の送って来た人生の苦い重みが体の動きを鈍くさせる。

 それでも気力を振り絞って、粘つく糸を登り始める。

 極楽はまだ見えなかったが、この糸の先に必ずあるという確信があった。


 あの女の名前は何と言ったか。初めて強盗稼業を止めようと思わせた人だった。

 一緒に居るだけでカンダタは幸せだった。ある日家に帰ると捕縛士たちが待ち構えていた。自分の正体がバレたと知って逃げ出した。途中で捕縛士たちを五人殺した。

 自分の身代わりにその女が殴り殺されたとは後で聞いた。

 カンダタは喉が枯れるまで叫び続けた。


 自分の悲鳴で目が覚めた。

 また眠り込んでしまったようだ。足下の亡者たちも必死で登ってきている。

 皆がおうおうと恐ろしい声を上げている。その内の一人が糸から蹴り落とされ遠い遠い地獄の大地へと落ちていくのが見えた。


 手を上に伸ばす。粘つく糸が手に貼りつく。

 自分は何をしているのだろう。その思いが沸き上がってくる。

 愛する者もみな自分のために死んだ。母親も我が子の悪名が耳に入って首を括った。父親はカンダタをその手で始末しようとしたので、返り討ちにした。

 大勢の人々を殺した。ただ金が欲しいが故に。他にいくらでも生き方はあったはずなのに。

 そして今は、地獄から逃れたくてこの糸を登っている。

 自分が受けとるべきでないものを求めて。


 カンダタは目の前の糸を見つめた。そこに手を突っ込み、糸を引っ張る。切れない。

 だがこのまま放置しておくことはできない。

 カンダタは足下を登って来る亡者たちに向けて叫んだ。

「駄目だ。俺たちはこの糸を登っていはいけない。我々は地獄に居てこそ相応しい。

 お前たち、登るんじゃない!」

 その瞬間、糸はバラバラになりカンダタを始め亡者の群れは空中に放り出された。


 多くの者を苦しめ殺して来た者が、ただの蜘蛛一匹を救ったからと言って、たちまちにして救われてよいものか。

 もしそんなことを認めるとすれば、世界には正義がないと言える。正義がない世界はすなわち地獄だ。

 だからこそ、蜘蛛の糸はかならず切れる。切れざるを得ないのだ。


 地獄の空を落ちていきながら、カンダタはようやく悟りを得た。

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