第7話 ティファニーで待ってるわ

 物思いにふけっていたので、目の前の女に呼びかけられていたのに気付かなかった。

 一瞬、その女の名前が思い出せなかった。無理もない。今付き合っている女は四人いる。入れ替わりも激しいから名前を取り違えることもたまにある。うまくごまかせなければ修羅場の始まりだ。そうなりたく無ければ迂闊に返事はしないことだ。

「ああ、ごめん。もう一度頼む」

「もう。タカシったら。あたし、エンゲージリングが欲しいの。それもティファニーの。小さいときからの夢だったんだ」


 俺はもう少しで飲んでいたコーヒーを噴き出すところだった。

 このアマ。いったい何を言いだしやがる。

 婚約だあ。冗談じゃない。お前はスペアだ。いや、スペアですらない。ただのセフレだ。


「そんな金はない」俺は冷たく言い放った。


 まだこの女と別れるのは惜しい。デート代は彼女がすべて出してくれるし、たまにはお小遣いをくれる。俺は金回りがいい女が好きだ。こいつからはもう少し引っ張れるかもしれない。別れるとしたらその後だ。


「大丈夫だよ。あたし、稼いでいるんだ。お金はあたしが出すから」

「ええと、なんだ? お前が金を俺にくれて、俺がその金で婚約指輪を買って、お前の指に嵌めるのか?」

「そうよ。ティファニーで買ってくれて、その場であたしの指に嵌めるの。もう夢みたいな光景」

 彼女は話ながらうっとりした。いったいどこの乙女だ。こいつは。


 結局こいつの金が指輪に化けてこいつの指に戻って来る。バカバカしい。俺には何の得もないじゃないか。


「指輪ももう決めているんだ。2カラットのダイヤがついたやつ」

 彼女の言葉にもう一度俺はコーヒーにむせた。

「バカ言え。そんなのいったい幾らするんだ」

「五百万」間髪入れずに彼女は答えた。

「そんな金」

「あるよ」

 俺がそれ以上何かを言う前に、彼女は俺の目の前に重い包みを出して来た。

「そのために持って来たのよ。五百万円。ここにあるわ」

 さすが風呂屋の売れっ子だけはある。俺は二つ返事で承知した。



 ひょんなことから種銭ができたので俺はネットを漁った。この金を大きく増やす方法を探したのだ。

 俺の目に止まったのはリンカイと名乗るFXの仕掛け人だ。次々と億万長者を産みだしているという評判の男だ。ネットの広告で最初の二回のアドバイスは無料というのが気に入った。

 もちろん俺は賢いから五百万円すべてを投資する代わりに最初は十万円だけやってみた。千倍のレバレッジをかけたので三日後にはそれは倍になった。

 この頃には彼女からいつティファニーの店に行くのかと催促が来たが仕事が忙しいからと引き延ばした。実際に指輪を買いに行く前にこの資金を倍に増やせば、後は金を彼女に叩き返して関係を終わりにできる。そして俺の手元にはやっぱり五百万円が残ることになる。

 リンカイの二度目のアドバイスに従い前の儲けを全額投資した。これも三日で倍になった。


 十万円が一週間で四十万円になったのだから、宝の山を見つけたような気分だったね。

 こうなればもう遠慮することはない。

 手持ちの全額を千倍のレバレッジでリンカイの言う通貨にぶち込んだ。

 三日後にはそれらすべてがゼロになっていた。


 もちろん喚いたさ。怒鳴ったさ。だが何にもならなかった。リンカイは情報を流しただけ。賭けたのは俺の意思だし、リンカイは何の罪にもならない。

 警察には笑われたよ。よくある騙しの手口だって。百人にそれぞれ逆の情報を流して二回繰り返せば、その内の二十五人は二度とも当たることになる。信頼を得たら後はカモにするだけ。そういう数学上の仕組みらしい。

 しかもこれは違法すれすれなので罪にはできないって。

 そんなこと誰も教えてくれなかったぜ。


 まあいい。元々俺の金じゃなかったんだ。悪い夢を見たと思って忘れればいい。

 問題は彼女だ。

 さらに二週間はごまかせた。だがついにブチ切れた彼女が俺の部屋に殴りこんできて、おまけに俺はそのとき別の女との濡れ場の最中だった。

 修羅場になったね。それはもう見事な、修羅場中の修羅場。彼女が包丁を握って飛び掛かってくるぐらいの修羅場。俺が怪我をしなかったのは奇跡だよ、奇跡。

 最後に俺はすべてゲロして、一文無しであることも話しちまった。

 彼女は凄い顔で包丁を持ったまま外に飛び出して行って、俺は念のために彼女が戻って来る前にダチの家に転がり込んだ。

 二日して新聞に載った。ティファニーの店の前で、あいつ、自殺しやがったんだ。

 幸い遺書も残っていなかったし、俺のことは誰も知らなかった。彼女は秘密主義だったんだ。持っていたパソコンにもきちんと暗号鍵がかかっていたし、俺の名前はどこにも残っていない。

 これで一安心だ。


 そう思った俺は早計だった。



 一週間ほどしてから毎夜、彼女が俺の枕元に出るようになった。

 寝苦しさに目を覚ますと、彼女が俺の顔の上に被さっていて、こうつぶやくんだ。


「ティファニーで待ってるわ」


 そして朝まで俺の体を包丁で切り刻む。

 激痛だった。でも朝になって体を見ると、赤いミミズ腫れが細く走っているだけなんだ。医者にも行ったが、寝ぼけて自分で引っ掻いたんでしょうと笑われた。

 もちろん拝み屋にも行ったよ。どこでも蒼い顔で断られたね。どの拝み屋も判で押したように同じことを言うんだ。じぶんは死にたくないから手を出さない。そう俺の背後を見つめながら言うんだ。

 もうどうにもならないだろ。

 中には親切な拝み屋もいて、その怨霊の願いを叶えるしか手はないと教えてくれたよ。

 毎夜の拷問の痛みに堪えかねて、俺はそうすることにした。あの指輪、五百万もするんだ。

 働いたね。人生であれほど働いたことはない。一週間だけだけど。

 謝ったね。過去の女たちを訪ねて少しでも金を借りられないかと土下座に土下座を重ねた。たいがいは水をぶっかけられて終わったが。

 騙したね。新しい女を見つけて金を引っ張り出そうと。でもダメだった。どの女も俺を見ると逃げ出すようになったんだ。何かヤバイものが憑いていると女の直感で分かるんだろうよ。


 とうとう思いあぐねて、俺は決心した。最悪のアイデアだとは思うが、もうそれしか無かったんだ。

 次の日、きちんとしたスーツを着てティファニーの店に行った。

 店の前では血だらけの彼女がニコニコした顔で待っていたよ。俺が何のために店に来たのかが分かっていたんだろう。相変わらず右手には血のついた包丁を持っていたし、その首には横向きに開いた大きな切り口が見えていたが。

 俺は意を決して店の中に入った。柔らかな物腰の上品そうな女性店員が俺を迎えてくれた。俺の横にいる血だらけの女は見えなかったようだ。

 そう言えば、この女の名前は何だっけかな。思い出せない。だがまあそれはいい。名前を思い出せなくても婚約指輪は嵌められる。

「この指輪を見せてください」

 そこに飾られていた2カラットの指輪、お値段五百二十二万円を指さした。

「お客さま?」そう言ったきり、にこやかな顔の女性店員は動こうとしない。


 何かを察しているのだろうか?

 そうに違いない。どんなに着こなしていようが、吊るしの安物スーツじゃ貧乏臭さは隠せない。

 俺は背中に隠していたバールを取り出すと、ガラスケースに叩きつけた。

 ガラスの割れる音。女性店員の悲鳴。間髪を入れずに鳴り響く防犯ベルの音。いきなり閉まる出入り口。

 だがそれらはもうどうでもいい。

 俺は割れたガラスケースの中に手を突っ込むと、目的の指輪を取り出した。

 そして俺は女幽霊の左手を取った。それは確かに生きている女性の手の感触だ。実体がある。

 その薬指にダイヤモンドが輝く婚約指輪をそっと嵌めた。

 彼女は血まみれの顔のまま自分の左手とそこに輝く指輪を眺めていたがやがてにっこりと笑ってから消えた。

 俺はその場に崩れ落ち、警察の到着を待った。

 これで俺は自由だ。

 警官に押さえつけられたときもまだ俺は笑い続けていた。



 罪状否認など無駄なので俺はそのまま裁判を受け、刑務所に入ることになった。

 バールは凶器と見なされたが、その横に転がっていた血まみれの包丁も犯行が悪質と見なされる原因となったからだ。

 もっともそれについていた血の内の一方は俺の血で、もう一方は身元不明と鑑定された。きちんと調べればそれが自殺した彼女の血液型と一致することぐらいは分かっただろうが、本来証拠品保管室にあるべき前の事件の包丁がそこにあるとは誰も考えなかったので結びつかなかったのだろう。


 刑務所の大部屋に入った俺はしばらくして独房に移された。

 夜中にうなされて周囲の囚人たちを煩わせたからだ。睡眠薬も処方されたが、全身を切り刻む痛みの中では薬程度では寝ることはできない。

 そう、彼女はまだ出るのだ。誰にも見えないが、


 初めて独房に入ったその時、壁には血で大きな文字が書かれていた。他の誰にもその血文字は見えなかったが。


 『結婚式場で待ってるわ』


 そう読めた。

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