第15話 だがそれでも生きていく
朝は目覚ましが鳴る三秒前に目が覚める。最初のベルの響きを最後まで鳴らせることはしない。素早くスイッチを押し込んで沈黙させる。
脊髄反射の成せる技。でもきちんと目は覚める。
皺の寄ったシャツを着て、周囲に散らばった靴下の中から比較的マシそうなのを選んで履く。
女房はもう長い間俺の世話をしようとはしない。着るものは一カ月に一度まとめて自分で洗濯している。
俺は部屋から出た。
臭い。仏間から漏れ出て来るお線香の匂いが鼻につく。俺はこの抹香臭い匂いが嫌いなのだが、最近では当てつけのように女房は毎朝お線香を焚く。仏間でお線香を焚くとその煙はすべて俺の部屋へ流れ込むようになっている。ここに引っ越して来たときに誰がどの部屋を使うかを話し合いで決めた。そのときに風の流れなんか気にしなかったのが大失敗だった。
やはりキャバレーのレシートを背広の胸ポケットに入れたままにしておいたのは不味かった。あれ以来女房の機嫌はすこぶる悪い。ずうっとだ。その前は熱々だったんだぜ。にわかに聞いても信じられないかもしれないが。
台所では女房と娘が朝飯を食べていた。テーブルの上をちらと見て、そこに俺の分がないことを確認する。
まあいいさ。いつものことだ。
俺は冷蔵庫を勝手に漁り、食パンを見つけた。トースターに放り込み、パンが焼ける間にコーヒーを入れる。
女房も娘も俺の方は見ない。女房は分かるが娘はいつからこうなったのだろう。思春期真っ盛りてのは難しいもんだ。
パンが焼けてトースターから飛び出した音で女房が飛びあがった。だがあくまでもトースターの方は見ない。娘も慌てて目を逸らしてそそくさと台所を出て行った。そんなに俺と目を合わせるのが嫌なのかとウンザリした。
パンにバターを塗りもそもそと食べてコーヒーで無理に流し込む。
女房が食べているベーコンとエッグを横目で見ながら、カバンを取り上げる。毎朝がこれだ。二人とも俺のことは徹底して無視している。
これではこの二人を養うために仕事をしている俺が馬鹿みたいに思える。
でも俺はこうして生きていかねばならないのだ。途中で義務を放棄したりはしない。
満員電車はいつもの如く超がつく満員だ。つり革を掴んで押しくら饅頭にひたすら堪える。それでも女性が乗って来ると緊張する。女性の下手な所に手が当たったら、それで人生が終わるからだ。
そのとき電車がガタンと揺れてカバンを持った手が彼女の尻に触れてしまった。背筋を冷たいものが流れた。彼女はこちらをちらりと見たが、また前を向いた。
助かったと胸をなでおろす。満員電車の中で他人を避けるのは至難の技であるという常識のある女で助かった。
会社のある駅についた。降りますどいてくださいと叫んだが、誰も道を空けてくれない。仕方がないので人々の間を押しのけて電車を降りた。背後ぎりぎりで扉が閉まる。
やばかった。今更ながら冷や汗が出た。
誰かがプラットフォームの柱の横に花束を括りつけてある。
何か月か前にここで事故があったとは聞いた。出勤途中のサラリーマンがホームに落ちたという話だ。折あしく快速がそこに来て、救助は間に合わなかったらしい。
可哀そうに。でも、そいつが誰かは知らないがそれで楽になったのだろう。俺なんか、どれだけ生きるのが辛かろうが、生きていかねばならないのだ。
俺の勤める会社は小さな商社だ。特殊な資材の分野なので商売としては安定している。
自動ドアはなかなか開かなかった。最近はこういうことが多い。くそっ。機械まで俺を馬鹿にしやがる。ようやく開いた自動ドアに滑り込んで階段を上がると、俺は事務室の奥の自分の机へと進んだ。
他の机とは異なり俺の机だけ何も置いていない。
ちょうど二年前、俺は取引先のお偉いさんとちょっとしたことで大喧嘩をした。これは社会人にあるまじき行動だ。向こうの会社も大人げない対応をして、俺はすべての仕事から外された。完全に干されたのだ。
それ以来、俺の仕事は無くなった。この仕事机のように空っぽになった。
ちょっと前に会社がパワハラで訴えられたので、それ以来会社は労基を死ぬほど恐れている。だから俺に辞令を出すことさえしなかった。つまり俺を一生飼い殺しにしようと決心したようなのだ。
毎日律儀に会社に来て机の前に座り、そのまま何もしないで夕刻まで過ごす。
それが俺の日課だ。
もちろん辛い。やることが無いというのは途轍もなく辛い。
だが自ら仕事を辞めることはしない。俺は女房子供を養わないといけないのだ。
たまに誰かが俺の机の上に花を飾ることがある。雑務の子も俺だけにはお茶を出してくれない。まるで小学生がやるような幼稚ないじめだ。だが俺は耐える。
なんとしても俺は生きていかねばならないのだ。
小遣いがもう無い上に最近では女房が弁当を作ってくれないので昼飯は抜きだ。
皆がサンドイッチなんかをパクついているのをすきっ腹のまま見ているのは辛いので昼休みは外を散歩して過ごす。
途中の路地が最近のねらい目だ。道端にお地蔵さまが立っている場所があって、どこかの信仰深い人が毎日そこにお供えを捧げている。
人目が無い瞬間を狙って、お供えのお握りを掻っ攫って逃げる。
公園の隅でそれを食べる。情けない姿だが仕方がない。
俺は生きていかねばならないのだ。
ようやく一日が終わった。満員電車で魂を削られながらペラペラの存在となって俺は電車から吐き出された。
あまりの疲れでまるで足が地についていないようだ。
玄関の扉を開けると家の中には妻一人だった。彼女はテーブルの前に座って静かに泣いている。
どうしたとは聞かない。妻はあくまでも俺とは話をしてくれない。
いつものように夕食は用意されていないので、棚からカップ麺を取り出してお湯を入れる。カップから立ち上る湯気を吸っていると何となく気持ちが良くなる。
腹を満たすと勝手にお風呂を入れて浸かる。これが唯一の息抜きの時間だ。
湯舟の中でうつらうつらしていると、浴室の扉が開き妻が怯えたような顔で入って来た。そのまままだ俺が入っている湯舟の栓を抜き、風呂の電気を消すと出て行った。
確かにキャバレーに行ったのは俺が悪かったがそこまでやるのか。俺は呆れた。
風邪を引かないように慌てて減りゆく湯舟から出て体を拭く。
明日もこの生活が続くのだろうかと考えるとうんざりする。
だがそれでも俺は生きていかねばならないのだ。いつまでも。
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