第16話 時間泥棒
薬の数が合わない。
何のことか分からないだって?
俺には持病がある。だから土曜の午前に病院に行き、一週間分の薬をもらう。それがもう何年も続いている。
薬は朝食の後に飲む。そのためにも朝飯は抜かない。薬だけを飲むと胃を痛めてしまうからだ。
その薬が余っている。余るはずがないのに。
土曜の朝に飲んだ分で薬が尽きるはずなのに、すでに四日分ほど余っている。
薬を飲み忘れたとすれば、その日は食事を一切食べなかったことになる。だが、そんなことはない。飯を食うのを忘れる人間はいないからだ。
じゃあどうして?
薬が余分に出ている?
それはない。7個あるはずの薬が8個あればさすがに気づく。それに病院はそういう間違いは滅多にしない。薬の出し間違いは患者の命に関わるからだ。
長い間考えた末に辿り着いた結論は驚くべきものだった。
『俺の一日が盗まれている』
シャーロック・ホームズ曰く。あらゆる選択肢を排除していった後に残ったものはどんなにあり得ないものでもそれが真実だと。
そう当たりがつくと、次は盗まれた一日がどうなっているのかが気になった。
盗んだ奴は誰か。いったいどうやって盗んでいるのか。何のために盗んでいるのか。
気になった。
気になるともう頭から離れない。俺の悪い癖だ。
だから日記をつけるようにした。日常の細かい事柄もすべて記録する。それで何が分かるという保証はないが、まずは初めの一歩だ。
その内に、日記を書き忘れた日があることに気が付いた。後で見返すとたまに一日が抜けているのだ。
そしてそれに前後して一個だけ余分な薬が増える。
これは偶然じゃない。俺の一日が盗まれている。盗まれた日の日記は書かれないし、薬も飲まれない。
長い間考えた。日記を見返しながら。最初は分からなかったが、だんだんとある法則が分かった。盗まれる間隔は六十日の倍数なんだ。ありていに言えば庚申の日だ。
庚申とは十二支と五行を組み合わせた古い暦の色付けのようなものだ。
十二支の申、五行の金属性の組み合わせで六十日ごとに巡って来る日のことだ。
和暦のカレンダーにはこれが記載されていることが多い。
さらに調べた。
日本には昔から庚申信仰というのがあった。この日には人間の体に潜んでいる三匹の虫である三尸が体内から出て来てその人物の行状を天帝に報告すると信じられていた。だからこの夜は眠らずに過ごす風習があったらしい。
三尸と時間泥棒との間になにか関係があるのかもしれない。
そしてその内に残りの法則が分かって来た。
その日に身近な誰かに何かの予定が入っていると盗まれないのだ。
分かってみれば当然だ。
自分の持ち物に意識がある間はそれは盗まれない。見張られているものを盗むのは難しいからだ。
日付も同じだ。誰か近しい者に予定があり、その日付に意識が集中していれば盗まれることはない。
どうしてこんなことが起きるのかは謎だ。だが法則が分かればそれを避けることができる。庚申の日に必ず予定を入れるようにすればよいのだ。
こうして一日が盗まれることは無くなった。
その内に俺は時間泥棒のことに興味を失い、そのことを忘れてしまった。
ベッドの上で目が覚めた。
習慣的にカレンダーを見る。今日は庚申の日だ。予定は何も入っていない。最近ではそういったことが馬鹿らしくなってきたのだ。
どうして俺はあんなことに血道を上げていたのだろう。一日を盗みたいものが居るなら盗めばいいのだ。休日以外なら盗まれても全然問題はない。いやどうせなら休日以外を全部盗んでくれればいい。そうすれば毎日が休日だけになる。
馬鹿だな。一人で苦笑した。この性格を直さなくては。
階下に降り、台所へ向かう。そろそろ女房がトーストを焼いて朝食の用意をしている頃だ。
台所から何かが激しく暴れる物音がした。
「いったい何を騒いでいるんだ?」
言いながら台所を覗くと、そこには女房の首を齧っている最中の巨大な大口の化け物がいた。全身を長い毛で包まれていて、腕も足も太い。体の半分を占める大きな口の中は牙で一杯だ。床に転がっているのは女房の残りである首無しの体だ。
声も出せずに後ずさりをして、視界から怪物が消えた瞬間に踵を返した。すると廊下の奥には口から女の手を生やした怪物が立っていた。
咥えられているのは若い女の手だ。直感的に娘の手だと感じた。
抜けそうになる腰に喝を入れる。へたり込みそうになる足を引きずりながら廊下を伝って玄関へと向かう。
悲鳴を上げることは考えなかった。
注意を惹いたらお終いだ。幸い今見た二匹は自分の食事に気を取られている。
妻や娘には悪いが、俺は食われたくなかった。
玄関への道筋が異様に遠い。まるで分厚い糖蜜の中を歩いているかのように足が重い。夢なら早く覚めてくれ。
昔の人はこれを語り伝えるのが怖かったんだ。恐怖を言葉にすればそれは寄って来る。だから怪物を三尸という虫に置き換えて語り伝えた。
だがその話が残っているということは、この切り取られた一日を生き延びた人がいたということだ。恐らくはこの恐怖の一日が終わるまで逃げ延びるか、この狂ってしまった地域から抜け出れば、いつもの連続した日常に戻ることができる。
切り取られる前の安全地帯へ。
だから俺の足よ、しっかりしてくれ。
ドアノブを回そうとして、それが開かなくて一瞬焦った。背後から重い足音が近づいて来る。
鍵がかかっていることを思い出して震える指でロックを解く。
背後に迫る気配に怯え、ドアを大きく開いて飛び出す。
そこに待ち構えていた怪物が俺を抱きしめると、頭の上から噛みついてきた。
頭蓋骨を噛み砕かれながらすべてを悟った。
こいつらこそが時間泥棒だ。誰もが気にしなかった庚申の日に現れ、一日を切り取る。そしてその切り取った一日の間に食事をするのだ。
誰も自分たちが生贄にされ続けているとは気づかない。次の日になれば一昨日から続く日常が、切り取られた一日という傷跡を隠してしまう。
太古の昔から彼らは我々のすぐ傍にいて六十日毎の食事の機会をじっと待っているのだ。
怪物の顎は強い。頭蓋骨がかみ砕かれる苦しみは長くは続かなかった。
*
ベッドの上で目が覚めた。
いつもの習慣でカレンダーを確かめる。昨日は庚申の日か。
昨日は何をしたっけ?
思い出せない。どうせいつものつまらない一日だったのだろう。
薬を飲んでいてふと気づいた。また一つ、余分な薬が増えている。
不思議は続いていたがもう俺は気にしない。
どうせ大したことじゃないさ。
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