第11話 大岡裁き
江戸南町奉行大岡忠相、通称大岡越前守はお白洲を前に頭を抱えていた。
お白洲の上に敷かれた茣蓙の上に座るは二人の年配の女性。二人の間には怯えた表情の子供が一人座らされている。
子供は佐渡屋の一人息子だ。佐渡屋の主人はついこの間流行り病で死に、この子が幼くしてただ一人残された跡継ぎである。
ところが今になって二人の女性が母親だと名乗り出て来た。
どちらも本妻ではなく親子関係ははっきりしない。佐渡屋は長い間父一人子一人で生きて来たのだ。子供の母親についてははっきりせず、町奉行所でも一応調べてはみたのだがどちらが本物の母親かはわからず、今日このような仕儀に陥ってしまった次第だ。
いつまで経っても結論が出ないので越前は一計を案じた。
「そのほうら。まことの母親と申すならその子の手を取って両側から引っ張るが良い。最後まで手を離さなかった方を母親と認めよう」
母親たちは一瞬顔を見合わせた後、子供に飛び掛かり両側に引っ張り始めた。どちらもこれは鬼か般若かと見紛いそうな凄い形相である。
両手を引っ張られる痛みにわっと子供が泣きわめく。すると一方の母親がはっとした拍子に子供の手を放してしまった。
「これで子供はあたしんだ!」子供を抱きしめて一方の母親が叫ぶ。
「今のは手がすべったんだ!」もう一方の母親が言い返す。
「静まれい!」
越前奉行の一喝が飛ぶと、お白洲がたちまちに静まる。
「よいか、よく聞け。真の母親なら我が子が痛いと泣き叫ぶのに手を放さないわけがない。ゆえに手を放した方を本物の母親とみなす」
奉行は一言で締めくくった。
「これにて一件落着」
これに手を放さなかった方の母親が抗議した。
「お奉行さま。子はおりますか」
「もちろんおるぞ」
一体この女は何を言い出すのかと警戒しながら越前奉行は答える。
「ならば分かりましょう。子供がたとえ痛いと泣き叫ぼうが、手を放したら二度と会えなくなるのです。ならば決して手を放さない。それが本物の母親というものです」
これにはさしもの越前奉行もうっと声を詰まらせた。そこにさらに母親は畳みかける。
「子供は泣いて親を困らせようとします。玩具が欲しいと言っては泣き、お菓子が欲しいと言っては泣く。そのたびに子供の涙に負けて子供の好きにさせていたらいったいその子供はどのように育ちましょう。心を鬼にして子供の流す涙に耐えることこそ本物の母親というものではないでしょうか」
二人の母親は再び子供に縋りついた。
「お奉行さまの裁定はすでにくだされたのよ。この子はあたしのものよ」
「何を言う。あたしが言ったことが判らなかったのかい。あたしは二度とこの子の手を放さないよ」
「あいわかった。両名しばし待たれよ」
越前奉行は立ち上がった。そのまま上座敷から姿を消す。
いったいいつまで待たせるのかと皆が痺れを切らしたとき、越前奉行は返って来た。
「先ほど奉行所を訪れた者がおっての、その者の言葉を吟味しておったのだ。これ、上州屋、入ってくるがよい」
奉行の言葉とともに一人の恰幅のよい商人がお白洲に入って来た。
「皆さま方、お初にお目にかかります。手前、上州屋の主の相方左衛門と申します。今日はちょうど皆さまお集まりと聞きまして、是非にとお奉行さまにお頼み申してこうして参上仕った次第です」
商人は懐から書状を取り出した。
「ここなるは佐渡屋の主人である藤村信三が私めに出した借用証文にございます。つまり佐渡屋は私めに大きな借金があります。いきなりの訃報にてこれをどうしようかと思っておりました。なにぶん佐渡屋の跡継ぎはまだ数えで六つ。親の借金は子の借金とは言えこれを払わせるのはあまりにも酷というもの。ほとほと困っていたときに母親が現れたと聞いて飛んで来たのです」
越前奉行が口を挟んだ。
「なんと借金とは。してその内容はいかに」
商人は懐から算盤を取り出し慣れた手つきで弾き始めた。
「まず佐渡屋の現在の資産はざっと見積もって三千両になります」
それを聞いて母親たちの顔に赤みがさした。
「証文の額が三千両。これに長い間の利子がつきまして総額は約四千両となります。従いまして差額の千両をお払いいただければその子は晴れて自由の身となりまする」
商人は算盤を目の前に置いた。
「端数はこの際、負けさせていただきます」
「なんと驚くべきことよ。これ、その証文をこちらに」
越前奉行は証文を受け取るとお付きの者たちとしばらく調べていた。
「確かに正式な証文だ。きちんと署名も手形も入っておる」
母親の一人が立ち上がった。
「お奉行さま。確かにお奉行さまの言う通りです。子供が泣いても手を放さなんだは母親失格。ここは大人しく身を引かせていただきます」
もう一人の母親も立ち上がった、
「いいえ、お話を聞いてあたしも分かりました。たとえ子供が泣こうと決して手を放さぬのが本当の母親。あたしこそ母親失格です」
引き留められる前にと二人してそそくさとお白洲から出て行った。
最後に一人ぽつんと残った子供が泣きだしそうな顔をしている。
ここまで堪えていた越前奉行が大笑いをした。
「上州屋。いやさ、奉行所勘定方の相方左衛門。見事な演技であったぞ」
それに応えて商人、いや、奉行所の部下が頭を下げる。
「ご苦労ついでに佐渡屋の後始末を考えてくれ。店を続けるのもよし、一度潰してこの子の先行きを決めるのもよし」
「承知仕りました。店を任せられる者に心当たりがあります。店はその者に継がせて、この子はその者の養子といたしましょう。成年なるを待って再度店の主人となせばよいでしょう」
にこりと笑って越前奉行は最期に言った。
「真の母親なればたとえ千両が万両の借金であっても我が子は手放さぬもの。これにて一件落着とする」
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