第26話 もういいかい

「もういいかい?」

 声が聞こえた。

 僕は辺りを見回したりはしなかった。声の主がどこにもいないことは十分に分かっている。

 子供のときからときどき聞こえる声だ。中身はいつも同じ。

 -もういいかいー。それだけだ。

「まあだだよ」

 いつも反射的にそう呟く。


 もちろんこれは子供の遊びである鬼ごっこのセリフだ。

 「もういいかい?」「まあだだよ」

 それを繰り返しながら、目隠しをした鬼から隠れる。背後からの声だけが頼りの鬼役は、遠ざかっていく返事を聞きながら相手がどこに隠れるかの見当をつける。

 鬼に捕まった者が次の鬼になる。全部終わるまで鬼は止められない。

 意地の悪い子たちは鬼一人だけを残してみんな帰ってしまう。

 次の日は最期まで残って問いかけをしていた鬼役の子供が笑われる。

 他愛もない子供の遊び。


 その他愛もない子供の遊びの声がなぜ聞こえるのかを僕は知らない。


 青年になって僕は恋をした。美しく長い髪をした子だった。

 一年の付き合いの後に、僕は振られた。いや正確には捨てられたのだ。貴男じゃ全然物足りないの。残酷にも彼女はそう言った。

「もういいかい?」声が聞こえた。

「まあだだよ」僕は答え返した。


 会社に入り社会人になると、今度は大人の恋愛をした。

 彼女からパートナーになり、やがて相手は僕の子の母親となった。

 腕の中で眠る我が子を見ながら幸せに浸っているとまた声がした。

「もういいかい?」

「まあだだよ」僕は笑いを浮かべながら答え返した。


 歳月は止めどもなく僕の上に降り注ぎ積もっていく。

 自分で興した会社が半年も経たずに倒産した。

 妻は我が子を守るために僕と離婚した。

 アパートの部屋の中は狭かったが、それでもがらんとして僕には耐えられないぐらい広かった。

「もういいかい?」声が聞こえた。

「まあだだよ」僕は答え返した。

 絶望の中にあって、どうしてそう答えたのか僕にも判らない。


 自己破産し、清掃員からやり直した。でも運が向いて来ることは無かった。

 いつしか大きくなった子供が訊ねて来て、わずかばかりの蓄えを養育費の名の下に毟り取っていった。

 それから地震が起きて何もかもが無茶苦茶になった。

 僕には失う物は何もなかったが、それでも住む場所はダンボールの家にまで落ちた。僕はただ膝を抱えたまま、この混乱の状況を耐えた。

「もういいかい?」狙いすましたかのように声が聞こえてきた。

「まあだだよ」僕は意地になって答え返した。


 戦争が起こった。

 運が良かった者も悪かった者も誰もがこの災禍に巻き込まれた。

 街は廃墟へと変わり、誰もがその日の暮らしに追われるようになった。

 傷ができた足は破傷風を起こし、僕は片足を失った。

 それでも僕は死ななかった。


 ある夜、久しぶりにまた声が聞こえた。

「もういいかい?」

「まあだだよ」僕は答え返した。


 その後は多くの難民と共に各地を彷徨った。

 行く先々でヒドイ目にあった。人間は弱い者にはとことん惨くあたる。

 それでもまだ僕はこの片隅で生きている。

 あいも変わらず声は聞こえる。

「もういいかい?」


 そう遠くないいつか、僕は答えるだろう。もういいよ、と。

 顔も知らないその存在は、遠い昔から待っている。鬼ごっこの開始の合図を。

 きっと剛毛が生えた黒くて大きな手が僕を捕まえるのだろう。

 そして僕はその後に来るであろう恐ろしい暗闇を、むしろ喜びを以て迎え入れるのだ。

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小話集 のいげる @noigel

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