第19話 素敵なダイエット
風呂上がりのビールの一杯を楽しんだ後に、隣でテレビを見ていた妻へかけたお気楽な一言が大失敗だった。
「お前、最近太ってきていないか?」
それが妻の怒りに火をつけた。ひとしきり俺を罵った後に妻はダイエットを決心した。
まず始めたのはジョギングだ。三日目に太腿の筋肉痛で妻は挫折した。
次に挑戦したのはスポーツジムだ。周囲に頑張っている人間がいれば自分もやっていけると考えたらしい。
結果は足の筋肉痛が全身に置き換わっただけとなった。
そこで妻は方針転換を行った。
食事の改善に入ったのだ。夫婦の食卓から一切の肉が消えた。タンパク質は豆腐で補うと声高らかに宣言された。食卓にサラダが当然のような顔をして二皿も並ぶようになると俺は惨憺たる気持ちになった。
お昼に外で食べるカツ丼だけが心の支えだ。
辛い三日間が過ぎ去るとようやくメニューは元に戻った。食いしん坊の妻にはどだい無理な話だったのだ。
そんな妻が最後に辿り着いたのは薬だった。
薬の名前はアブラヘルン。糖や脂肪の吸収を阻害し、体内の脂を強制的に排除する薬だ。これならいくら食べても食べてないのと同じという謳い文句がついている。
なんて無茶苦茶な薬だ。俺は妻を止めたけどやっぱり俺の言葉を聞こうとはしない。
だがその効果は凄かった。
妻はみるみる内に痩せたのだ。たちまちにして妻は出会ったときの理想的なプロポーションにまで戻ってしまった。
これには俺もビックリだ。実際に効果が出たので文句をつけることができなくなってしまった。
せいぜいがネットを漁って薬の副作用や用法を調べるぐらいしかできない。一応、飲む分量を間違えさえしなければ今のところ死人だけは出ていないという話だ。
どうしてこんなヤバイ薬が厚生省の認可を受けられたのかとも思うが、きっとまた役人の誰かが製薬会社から賄賂を貰ったのだろうと結論づけた。良くあることだ。
薬のお陰で妻のプロポーションは保たれ、そのために妻が妊娠していることに気づくのが遅れた。俺の念願の第一子だ。
慌てて調べると、アブラヘルンは妊婦が飲むのは絶対に駄目となっていた。当たり前といえば当たり前だ。胎児の成長には大量の栄養が要る。
だが俺の必死の懇願を妻は鼻で笑った。
嫌よ。絶対に止めないわ。見てよ、このプロポーション。
そう言いながら妻は鏡の前でくるりと回ってみせた。
俺は妻が飲んでいた薬を全部捨てたが、この薬は大ヒット商品で、どこの薬局でもごく普通に売っている。
捨てる。買う。捨てる。また買う。また捨てる。通販で大量に買う。もうこれは不毛なイタチゴッコだ。
ついに俺は諦めた。
月日が経ち、妻の腹がせり出して来ると、今度はその腹を引っ込めるために妻は薬をむさぼり食うようになった。
無茶苦茶だ。
それは子供が大きくなっているからでお前が太っているんじゃないんだと説得したが無視された。
ああ、冗談じゃない。だがウチの親たちも義両親たちも妻を説得することはできなかった。
ついには妻の腹を超音波検査した医者が絶句するようになった。もう九カ月に入っているのに妻の腹はぺったんこのままだ。本来は妊娠と共に膨らむはずの乳も全然変化がない。
「こんなケースは初めてです。きちんと食事は取っているんですか!?」
医者が悲鳴を上げた。
「もちろん一日三食におやつまで食べています」
女房は答えたがこっそりと飲んでいるダイエット薬のことは言わなかった。
「わからん。どうしてこれで胎児が生きているのか。全然わからん」
医者の呟きを横で聞きながら、俺は妻のぺったんこの腹を見つめていた。
そして俺が一番恐れていた出産の時がやってきた。
産室の前で震える膝を抑えながら、ひたすらに待つ。
だがいつまで経っても聞こえてこない。
赤ん坊の産声が。
やきもきして待っていると、産室から悲鳴が聞こえてきた。医者の悲鳴と助産師の悲鳴だ。少し遅れて妻の悲鳴もだ。
やがて産室のドアが蹴られたかのように開くと、青い顔をした助産師が腕におくるみを抱えて出て来た。
「いいですか。落ち着いて。決して取り乱してはいけません。覚悟して見てください」
助産師は恐ろしいものを遠ざけようとするかのように、おくるみを俺に差し出した。
その中には骨と皮だけの痩せた体に腹だけぽこりと突き出した小さなナニかが収まっていた。
ソレは俺の方を向くと言った。
「ひもじい」
それっきり口を噤んで、ソレは死んだ。
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