十一、皨(ほし)へ集いゆく
JR西日本と
北アルプスからの空気がきりっと澄み、猛暑続きの岐阜市を忘れる爽やかな空気が一行を迎えた。からりと乾いた肌触りから、湿度の低さがうかがえる。
「さーすが観光地」バスを降り、長い手足を思う存分伸ばしながら、りんは所感を述べた。「奥飛騨ってのは避暑にゃ最高だな」
清々しそうに深呼吸をし、晴れ渡る青空を見上げる。この空はどこまでも果てがないのだと、心新たに思い出す青さが広がっていた。
久しぶりの故郷に、宵路はこみ上げる感慨がないでもない。
「いや、この辺りでも今日は特にカラッとした日じゃないかな。私が子供のころは、あんなに暑くはなかったから比べづらいけれど」
「旅日和じゃねーか!」
温泉が有名な当地だが、夏も夏で見所はいくらでもある観光地である。あるところには飛騨牛の肉寿司を提供する店が、ある所には製麺工場つきドライブインが。
「食を制する者は旅を制す、ってな」
りんがあらかじめチェックしていた高山ラーメンの店で、一行は最初の食事を取った。飛騨高山で「そば」といえば「中華そば(高山ラーメン)」を指し、年越しそばも高山ラーメンと食べると言う。特徴はあっさり目の醤油味。
十時間煮込んだスープを提供する行列店、上質な北海道産昆布と日本海産煮干しでとったダシで深いコクを提供する店、飛騨高山名産の「味あげ」を使用した味あげ入りラーメン、半熟トロトロの煮卵が食欲をそそる煮卵入り中華そば、贅沢な飛騨牛を使用した油そば、野生のイノシシを使用したジビエラーメン、etc.etc.……
「観光しとる場合ちゃうんやけどなあ」
ラーメン屋に入ったヒョウは、いつになく陰鬱な雰囲気をかもし出している。反対に、蕃は意気揚々としたものだった。原因を、宵路はなんとなく想像できる。
「まあまあ、旅の疲れを癒やすため、今のうちに精のつくものを取っておきたまえよ。レンタカーを手続きして、集落に向かうルートを確保したり、元村民を探したり、やることは山ほどある。今日はそこまで焦っても仕方ないさ」
皆で高山ラーメンや飛騨グルメに舌鼓を打ち、拠点となる宿を選んだ。
なかなか歴史の長い旅館で、通された二階の部屋からは、白く花をつけたそば畑が見える。良いロケーションだ。
ここで、方相氏と
何が人を殺すのか、なぜ人が死ぬのか、呪いと祟りの根源とは何か。
何より、方相が持つ〝邪眼〟が人を殺すほど危険なものだったのか……
仮に、宵路自身か、宵路に憑いているかもしれない方相が〝邪眼〟を振りまいているなら、旅行前日に蕃がしてくれた処置が効果を発していると願いたかった。
◆
〝眼球〟を〝舐める〟。接続しづらい二つの単語が、今は宵路がかける
ゼラチン質の眼球で感じる人間の舌は、思ったより固く異物感がある……。ぬるりと熱く、心地よい圧迫感で何度も往復した。
恋愛関係を「いっしょに死んでくれるなら」で済ませてきた宵路だが、ディープキスの経験はある。だが舌と舌を絡ませた時の柔らかさとは、まるで違った。
とはいえ、まつ毛が入っても痛む場所なのだかから、痛くしないだけ蕃は気を遣っている。まさか自分以外に、眼球を舐める機会があったかは知らないが。
目に迫る舌先を見つめることに耐えられず、部屋の電灯は切っている。
蕃は入念に歯を磨き、コンビニで買ったアルコールで口をすすいで、宵路の眼球を左右それぞれ舐めた。熱い吐息が顔にかかり、息づかいが耳骨に響く。
こうなると、電気を消したのはかえって失敗だったのではないか。宵路は後悔しながら、どのタイミングでこれが終わるのか分からないことに気がついた。
(まあ、言い出したのは蕃だから、彼が満足するまで終わらないんだろうな)
だから後はおとなしく待つしかない。ないのだが。
眼球は粘膜で、それは口の中や性器といった、敏感で繊細な部分と同じということになる。そんな、自分でも舐められないような場所を、他人にゆだねている。
宵路も目ヤニなどがないよう、顔を洗ってはいたが……改めて、この状況は何だろう。呪いだの怪異だのに対抗するのに、なぜ自分は目を舐められているのか。
そんな冷めた気持ちが沸くと共に、暗闇で粘膜を舐められたり吸われたりしている状況のいかがわしさに、思わず蕃を突き飛ばしたくなってきた。
※
҉【҉川҉に҉飛҉び҉こ҉ん҉だ҉高҉校҉生҉ ҉頭҉部҉を҉強҉く҉打҉ち҉死҉亡҉】҉岐҉阜҉県҉
҉ ҉岐҉阜҉県҉奥҉黒҉町҉の҉虞҉ヶ҉淵҉で҉2҉3҉日҉、҉飛҉び҉こ҉み҉を҉し҉て҉流҉さ҉れ҉、҉行҉方҉不҉明҉に҉な҉っ҉て҉い҉た҉高҉校҉生҉が҉2҉4҉日҉午҉前҉、҉下҉流҉で҉見҉つ҉か҉り҉ま҉し҉た҉が҉、҉死҉亡҉が҉確҉認҉さ҉れ҉ま҉し҉た҉。҉
҉ ҉2҉3҉日҉午҉後҉3҉時҉ご҉ろ҉、҉奥҉黒҉町҉山҉間҉部҉を҉流҉れ҉る҉六҉吉҉川҉に҉、҉奥҉黒҉町҉内҉に҉住҉む҉1҉7҉歳҉の҉高҉校҉生҉二҉名҉が҉飛҉び҉こ҉み҉、҉一҉名҉が҉流҉さ҉れ҉て҉行҉方҉が҉分҉か҉ら҉な҉く҉な҉り҉ま҉し҉た҉。҉
҉ ҉警҉察҉や҉消҉防҉な҉ど҉は҉2҉4҉日҉、҉午҉前҉7҉時҉ご҉ろ҉か҉ら҉捜҉索҉を҉再҉開҉し҉、҉お҉よ҉そ҉1҉時҉間҉半҉後҉に҉六҉吉҉川҉の҉下҉流҉で҉男҉子҉生҉徒҉を҉見҉つ҉け҉て҉町҉内҉の҉病҉院҉に҉搬҉送҉し҉ま҉し҉た҉が҉、҉ま҉も҉な҉く҉死҉亡҉が҉確҉認҉さ҉れ҉た҉と҉い҉う҉こ҉と҉で҉す҉。҉҉
҉ ҉死҉亡҉し҉た҉男҉子҉生҉徒҉と҉い҉っ҉し҉ょ҉に҉川҉へ҉飛҉び҉こ҉ん҉だ҉生҉徒҉は҉同҉じ҉高҉校҉の҉友҉人҉で҉、҉川҉遊҉び҉に҉来҉て҉い҉た҉と҉証҉言҉。҉警҉察҉は҉川҉に҉流҉さ҉れ҉た҉当҉時҉の҉状҉況҉や҉、҉死҉因҉な҉ど҉に҉つ҉い҉て҉さ҉ら҉に҉詳҉し҉く҉調҉べ҉る҉こ҉と҉に҉し҉て҉い҉ま҉す҉。҉
※
――なんだ、今思い出しかけたものは?
ふっと唐突に何かの事件が宵路の脳裏によみがえった。内容はなんとなく把握出来るが、それが今自分たちに関係があるのかどうか、いまいちよく分からない。
「終わったよ、宵路。もう明るくしていいかい?」
蕃の声に物思いから帰ったが、違和感があった。
彼の声色が、以前とは距離感が違う。これまでは隣で肩を並べていたのが、今は肩に腕を回して、ぴったりとくっついている、そんな距離感だ。
ますます、宵路は自分の判断に自信を持てなくなってきた。自分の体は、見えるもの聞こえるもの、どこまでが本当に「自分のもの」と疑いなく言えるだろう?
◆
宵路が自らの目を蕃に明け渡し、舐め回すに任せていた同時刻。
「籠ノ目の兄さんが邪悪なもんって、どいうこと?」
祖母はいつだって、理路整然と孫のヒョウを諭してくれた。
だのに今日に限っては異様に歯切れが悪い。霊能者としてプロに徹してきた祖母が、私情に惑わされているとは考えにくかった。
「話せへんのよ、ヒョウちゃん。あれは、あんたの神さんと同じぐらい、タチ悪い。名前を口にしたらあかん。心に思い描いたらあかん。姿を見たらあかん。見てもうたら、見つかってしまう。見つめられたら、もう逃げられへん」
「それが、邪眼?」
こく……とたっぷり時間をかけてうなずく祖母の姿は、今までで一番小さく見える。きゅっと一回り小さな人形になって、このまま何も話せなくなりそうな。
「ごめんな、ごめんなヒョウちゃん。今まで、神さんの声に従って、ずっと籠ノ目の兄さんを呪詛しておったのよ。それが一番、被害が出ないから」
「それが、ご祈祷やったんか……最初に兄さんが来た時から、ずっと!?」
神の
「軽い気持ちやった。神さんが言うから、念のため予防しとこ、くらいの。でも、あれはちょっとしんどい。あの兄さんは邪眼だけやのうて、もっと複雑に色んなものが絡んどる。なのに本人は自覚がないんや。誰も気づいたらあかんのや!」
声のトーンが徐々に大きくなり、「うっ」とうめいた時は、咳き込むか心臓に負担がかかったのかとヒョウは思った。駆け寄って体を助け起こすと、様子がおかしい。
「……かやりしの風や……」
それは呪詛をかけた相手からの、呪詛返し。
「籠ノ目の兄さんは、その気が無い。彼に憑いている何かや。ヒョウちゃん、早くあれから逃げぃ。ばっちゃは、自分でなんかするから、な?」
そう言って倒れた祖母に、はいそうですかと言えるほどヒョウは大人ではなかった。駆けつけた叔母や、普段離れている家族と相談して、祖母を入院させる。
ゴタゴタが一段落した時、見計らったようにヒョウの義手にお告げが来ていた。
――邪眼を止めたくば、
それで奥飛騨行きへの迷いは消えた。
岐阜県高山市山間部、皨集落。そこにきっと、手がかりがある。
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