三つ目の儀式

十、魔性は常にとなりに

 神の声が聞こえる。

 それは人の言葉に置き換えられるものではない。否、置き換え、理解した瞬間、それは自身はおろか、孫の命をも危うくするだろう。

 長年の経験が、入交いりまじりハツネにそう告げていた。


 だから命じられるまま、彼女は盲目的に祈祷する。アボカドと辛子マヨネーズに汚れた指を洗い清め、再び数珠を取って。

 邪悪なるものを調伏ちょうぶくせんと。



 一説によれば、悪鬼病魔を退散させる方相ほうそうの力は、金色こんじきに輝く四つの目――すなわち〝邪眼〟にあると言う。邪の眼とは穏やかではないが、『宮中に受け居られる前は、悪鬼だった』との話を踏まえれば、まったく根拠のない説ではあるまい。


其ノそのまなこ見毒けんどく邪視じゃしニテ惡鬼あっき疫病えきびょうもたらス。ッテ方相ほうそうごとシ』


 邪眼、邪視は英語でイーヴル・アイ、伊語でマロキオ、梵語でクドルシュチス。そしてインドでは、ナザルまたはナザールという語が対応する。

 邪視よけのお守り、ナザール・ボンジュウは有名だ。


 ナザールは邪視と異なり、悪意はない。むしろ何の気もなく、あるいは賞賛のつもりで人や物を眺めるだけで、その対象が害を受けてしまう。

 本邦はこれを視害しがい、または見毒と訳した。


「さて、悪鬼病魔が方相氏を極めて恐れる理由が、まさにこれだ」


 カフェテリアから場所を移し、テラスの一角。食事を終えて解散する予定だった一同は、宵路の様子見をかねてもう少し話しこんでいた。

 ここぞとばかりに、ばん雨太郎うたろうは意気揚々と語る。


「かの鬼神は、二つでさえ怖ろしい金の眼を二倍持つ! 方相が十二神を従えて疫を追う姿は、『日本百科大辞典』の挿画にあるが」中略。「後世ではでは疫の鬼と間違えられて、安政またはその前に出た『三世相さんぜそう大雑書おおざっしょ』などに、官人が弓矢で方相を追う様子を図したのものさ」中略!「最初方相が四眼で悪鬼を睨みおどしたことが、いつの間にか謬伝びゅうでん(※誤伝)されて、方相が四眼で人に邪視を加えると信ぜられ、妊婦やその夫や胎児も、他の理由から人に忌まれるに乗じて、このような夫婦や胎児までも四眼があって、邪視を人に及ぼすと言われるようになり……」

「雨太郎、うっさい」


 ヒョウがぼそっと水を差した。中学生(推定)の端的な詰めは効く。だが褐色肌の美丈夫はへこたれない。


「まあまあ、最後にもう一つ。近年の例では、洒落しゃれこわ(※1)に投稿された邪視の怪が、最も有名じゃないかな」

 ※1洒落怖――巨大電子掲示板のスレッド『死ぬほど洒落にならないほど怖い話』

「山の中で、奇っ怪な人間に見つかった叔父と甥が、その目に見つめられて激しい希死きし念慮ねんりょに襲われる。邪視が嫌うという汚物などを駆使して、なんとか切り抜けたというエピソードだ。最初からそういう怪異なのか、元人間かは不明だがね」


 蕃は長々とした講釈を、そうして締めくくった。ヒョウは「んな妖怪いるかいな」と胡散臭げにつぶやく。


「とにかくー、今は方相氏って名前の、兄ちゃんの故郷で鬼頭きとう観音って言われている神さんが、やらかしているかもしれへん……って話なんやろ」

「十中八九、ヨミチに方相が憑いているってことか? ヒョウが前に見た限りじゃ、取り憑かれているってのは違うらしいけどさ」


 ぱちんと指を鳴らし、黒鳥くろとりりんは、誰もが想定した結論を口にした。彼女の指先はヨミチこと籠ノ目かごのめ宵路しょうじに向いている。


「こいつに憑いている何かは、視覚を媒介にしてる、『見てしまえば、見つかる』ってウタローも言ったもんな」


 一方の宵路本人は、つい数分前まで悪夢の世界に落とされ、ようやく戻ってきた所だ。次から次へと勘弁してほしい。体温は下がったまま、指先はまだ冷たい。


「その結果が、六人の首吊り、四人の死者。邪眼ってのはそんなに凶悪なもんかね」

「方相氏と首吊りは、関係がないんじゃなかったか?」


 図書館で蕃はそう断言したはずだ。改めて宵路は確認を取る。


「言ったね。しかし、方相氏=鬼頭観音とするのは総計だ。方相氏がその土地独自に変化した存在が観音さまとして、他の神仏が混ざっている可能性もある」

「それは、まあ」

「せやったら、方相氏ならぬ疱瘡ほうそうがみとか?」


 ヒョウが、スマホの画面に打った漢字を見せながら言った。

 疱瘡とはいわゆる天然痘てんねんとうのことで、一九八〇年代にこの世から姿を消した。しかし二〇一五年のエボラ出血熱、MARSの流行、新型コロナの脅威など、感染症は人類が対処すべき問題として以前残り続けている。

 疱瘡神とは疱瘡に限らず、流行病そのものを神とみなしたものと考えていい。


「そういえば宵路、集落では年一回、鬼頭観音にお参りしてお守りをもらっていたって言ったね?」

「ああ、邪気払いか何かの……」


 急に蕃が話を変えた。


「そのお守りというのは、もしかしたら邪視よけかもしれない。だとすれば、宵路の故郷は、典型的な『邪視信仰がある社会』だ」

「少しは黙れねえのか」


 りんが拳をぎゅっと握ったが、ヒョウが「姉さん、聞いとこ」と手を添えて、それを下げさせた。蕃は「どうもどうも」と笑いかけて続ける。


「邪視信仰というのは、邪視を崇めるという意味ではなく、それがあると信じているという意味だ。そのような社会では、邪視による害をこうむっても、それは受けた方が悪いのであって、邪視を持った側は責められることがない。その代わり、専用のお守りなど、邪視に対する防御策がもうけられている。ここが憑きもの筋と邪視信仰の大きな違いで……ああ! 憑きもの筋の説明がまだだったね」


 腕を組み、じっと蕃の長口上を聞き終えたりんは「いらねえよ」と不機嫌に返した。ヒョウもうんうんと首を振って同意を示す。

 立て板に水、水を得た魚。蕃がその道の事柄に詳しいのは助かるが、放ってけば一人で何時間でもしゃべり続けそうな勢いがあった。


「なこと言っても、ヨミチが邪眼持ちとは限らねえだろが。な?」

「もちろん、そんな覚えはない」


 りんに問われて、宵路は首をすくめる。幼いころは霊感があるばかりに、〝見鬼けんき〟などと呼ばれていたが、邪眼と関係があるのか?

 どちらにせよ〝見鬼が抜けた〟と長老は宣言した。だから、自分は特別でも異常でも奇怪でもない、まっとうな人間になったはずだ。


 けれど、何がまっとうかなんて、宵路はまだ知らない。ただ、普通になりたい。学校に通って、バイトでもして、友人たちと楽しい時を過ごして。

 それがこの夏になって、突如崩壊してしまった。日々薄皮のように軽々と積み重ねられてきた疲労が、まとめて胸に重量を落とす。


「籠ノ目の兄ちゃんは、方相氏とちぎられているんちゃう?」


 すっと通る声で、ヒョウが見解を口にした。


「契るって、結婚のことかな」

「そう」


 うなずくと、色素の薄い髪がふわりと揺れる。男子とも女子ともつかないヒョウの、神秘的な気配が夏の日差しに浮かび上がるようだ。


「神さんの花嫁、花婿は、所有されるってことで、人でいられなくなる。だいたい、籠ノ目の兄さんって、なタイプやし」


 はたしてそうだろうか。自分がそういう人種だとは思えないが、宵路は上手く反論の言葉が思いつかなかった。神の伴侶選びの基準だって、よく分からないのだし。

 パン、パン、と両手を叩いて蕃が物思いを中断させる。


「僕も少し興奮してしまったが、方相氏を名乗る何らかの存在と、宵路の関係は一旦保留しよう。そいつは僕らに見つかることを恐れている。追求は慎重に行うべきだ」

「進展があんだかねえんだか。怪異がらみはいっつもこうだ」


 うーんと伸びをして、りんは締めに入った。


「ま、後でLINEでスケジュール詰めて、次は皨集落に現地調査だな。集落内と、その近くの妙見町で、鬼頭観音と邪眼についてだ」

 

 それで今日は解散の流れとなった。

 方相氏。邪眼。それが宵路に取り憑いている可能性。食事の時に現れた強烈な幻覚と、自身を責める死者たちの幻影。

 これらのすべてが方相の仕業なら、あれは一体宵路に何を求めているのだろう。


 帰路に就くと、当然のように蕃は宵路に同行した。


「夕飯、どこで食べる? 宵路」

「昼も夜も外食はちょっと」

「じゃあ何か買っていこうか。君、放っておくとポン酢をかけたご飯なんかで済ませたりするからな」

「失敬な。トーストの方が好きだ」

「『安かったから』って、三食はんぺんを食べ続けていた時があったよな」


 事実だ、言い返せない。

 そうやって軽口を交わしながら、宵路は本題を切り出すタイミングをうかがった。余人がいる場では、あまり口にしたくないような内容だ。

 買い物を済ませ、バスを降りて、アパートへの道を歩く。


「蕃、前に言っていたプランA、頼めるかな」

「君の眼球、舐めていいのかい!?」


 肩をつかんで食い気味に確認された。そんなに舐めたかったのかと思うと、やはりやめておけば良かったかという後悔がよぎるが、諦めるしかない。

 そこで初めて、宵路はカフェテリアでの出来事を話した。他の二人には誤魔化したが、自分が見た幻覚は本当に一瞬のことだったらしい。


 眼を潰された痛みと、失明の恐怖。姿を現した死者、紫藤恵生と渡名喜となき益子ますこ花菱はなびしらに「心中してくれるなら誰でもいい」と責められたこと。


「蕃……君も、私と、心中未遂しただろ」

「ああ。二人で六吉ろくよしがわに飛びこんだ」


 そしてあっさり失敗して、打撲だけ作った。高校生の時だ。

「好きだ」と告白されたから「いっしょに死んでくれる?」と返したら、うなずかれて。夏のある日、二人で六吉川で一番高いおそれぶちへ身を投げた。


「死んだかと思ったんだ」

「だが、僕も君も生きている」


 そう話している内にアパートは目の前だ。


「そしてこれからも君は生きるんだ、宵路」


 だから少しでもこの呪いを解いていこう、と蕃は続けた。



 余計なことを言ったかな、というのが今日一日に対するヒョウの反省だった。

 宵路が方相氏、仮にも鬼神と呼ばれ、また鬼頭観音という名で神仏と崇められる存在が、一人の人間に執着しているなら、それは輿入れだ。贄と紙一重の。

 自分と同じなのではないかと、そう思った。


 ヒョウは本名をさすらと言う。


 八歳の時、神との契りを告げられた。大人になるころにはめとられるから、人としてはどうしても短命で終わるだろう、と両親に告げられ。

 それに逆らうため、男の格好をし、事故もあって片腕を義手に変えた。しかし木製の簡素な義手でさえ、神のお告げを下ろす道具になっている。


 自分がどこまで逃げ切れるか分からない。娶らされた先でどうなるかも知らないが、少なくとも人として死ぬことも、終わることもないのだろう。


(でもやっぱり、籠ノ目の兄さんは、オレと同じやって気がする)


 他者を誘惑する魔性。興味を持たない者は何気なく流してしまうだろうが、ふと目を留めてしまったならば、とことん引きずり込まれておかしくなる。

 それは目鼻立ちが極めて整っているだとか、つややかな黒髪だとか、華奢な体だとか、新雪のように白い肌だとか以上に。妙に、寂しげなのだ。


 周囲と隔絶した美貌を持ち、それゆえに他者と上手く関われず、一線を引いている。一歩後ろへ引いて、自分が輪の中に入る資格がないと思いながら、向こう側をまぶしげに見ている。だから時々、輪の中に引っ張りたがるヤツが現れるのだ。

 そうでないと、消えてしまいそうだから。


「ばっちゃん、今日もご祈祷しとったん?」


 入交家に帰宅すると祖母の姿はなく、あらかた探して最後に行き着いたのが、祭壇の部屋だった。ご祈祷の時に使う、部屋の一面に神々を祀った特別室だ。

 初めて籠ノ目宵路が来て以来、祖母は「何か」を感じ取ってご祈祷している。具体的に何を立願しての祈祷かは教えてくれないが、よくあることだ。


 白装束の祖母が座す部屋は、余人から見れば「異様」の一言に尽きるだろう。

 それはシャーマニズムにおけるパンテオン万神殿だ。祭壇の中央にはご神体の鏡が吊され、上部には注連縄が張られている。

 祭壇内の壁には、天照大神を中心に、素戔嗚すさのおのみことと春日の大神を配した掛け軸。反対側には虚空蔵菩薩像。他に千手観音像に七福神像があり、それら仏像の前にはさかきや盛り塩、水、香炉などが置かれていた。まさに神仏混淆こんこうだ。


 いわゆる「霊能者」を想像して訪問してきた者は、この光景に圧倒されると同時に、イメージを満たされて満足することだろう。

 白檀が香る中で、祖母のハツネが振り返った。


「ああ、ヒョウちゃん。今日は常連の人も来とったからねえ」


 なんとなく祖母の様子がいつもと違う。普段はもっと朗らかだが、今日はどこか緊張していて、何か大事なことを言おうとしているような。


「ヒョウちゃん、もう籠ノ目さんに近づくのはやめときぃ」


 予想は当たった。だが内容は予想外だ。


「りんちゃんにもそう伝えて。恵生ちゃんは残念やったけど、あんたまで居なくなったら、ばっちゃんはどうしたらええの」

「……神さんが、そう言っとんの?」

「たぶんな」


 祖母がこういう言い方をするということは、事態がますます火急であることを示していた。シャーマンは神と人の仲介をするものだが、神の声をあえて言葉に変換しない、とは異常事態なのだから。だが、そういうことは時たま起こる。


「なんで?」


 それでもあえて、聞き返した。答えが返ってくるまで、十分ほどはかかっただろうか。それほど祖母は逡巡しゅんじゅんしていた。


「……あれは、邪悪なもんや……」


 ためらいの末に、祖母はそれだけを告げる。籠ノ目宵路が邪悪と言うならば、彼は邪眼を操り、人を殺す魔物のたぐいということだろうか。

 ヒョウは無意識に義手を見つめていた。こんな時ぐらい、何か教えてくれてもいいだろうに。婿を気取るくせに、気の利かない神だ。

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