三つ目の儀式
十、魔性は常にとなりに
神の声が聞こえる。
それは人の言葉に置き換えられるものではない。否、置き換え、理解した瞬間、それは自身はおろか、孫の命をも危うくするだろう。
長年の経験が、
だから命じられるまま、彼女は盲目的に祈祷する。アボカドと辛子マヨネーズに汚れた指を洗い清め、再び数珠を取って。
邪悪なるものを
◆
一説によれば、悪鬼病魔を退散させる
『
邪眼、邪視は英語でイーヴル・アイ、伊語でマロキオ、梵語でクドルシュチス。そしてインドでは、ナザルまたはナザールという語が対応する。
邪視よけのお守り、ナザール・ボンジュウは有名だ。
ナザールは邪視と異なり、悪意はない。むしろ何の気もなく、あるいは賞賛のつもりで人や物を眺めるだけで、その対象が害を受けてしまう。
本邦はこれを
「さて、悪鬼病魔が方相氏を極めて恐れる理由が、まさにこれだ」
カフェテリアから場所を移し、テラスの一角。食事を終えて解散する予定だった一同は、宵路の様子見をかねてもう少し話しこんでいた。
ここぞとばかりに、
「かの鬼神は、二つでさえ怖ろしい金の眼を二倍持つ! 方相が十二神を従えて疫を追う姿は、『日本百科大辞典』の挿画にあるが」中略。「後世ではでは疫の鬼と間違えられて、安政またはその前に出た『
「雨太郎、うっさい」
ヒョウがぼそっと水を差した。中学生(推定)の端的な詰めは効く。だが褐色肌の美丈夫はへこたれない。
「まあまあ、最後にもう一つ。近年の例では、
※1洒落怖――巨大電子掲示板のスレッド『死ぬほど洒落にならないほど怖い話』
「山の中で、奇っ怪な人間に見つかった叔父と甥が、その目に見つめられて激しい
蕃は長々とした講釈を、そうして締めくくった。ヒョウは「んな妖怪いるかいな」と胡散臭げにつぶやく。
「とにかくー、今は方相氏って名前の、兄ちゃんの故郷で
「十中八九、ヨミチに方相が憑いているってことか? ヒョウが前に見た限りじゃ、取り憑かれているってのは違うらしいけどさ」
ぱちんと指を鳴らし、
「こいつに憑いている何かは、視覚を媒介にしてる、『見てしまえば、見つかる』ってウタローも言ったもんな」
一方の宵路本人は、つい数分前まで悪夢の世界に落とされ、ようやく戻ってきた所だ。次から次へと勘弁してほしい。体温は下がったまま、指先はまだ冷たい。
「その結果が、六人の首吊り、四人の死者。邪眼ってのはそんなに凶悪なもんかね」
「方相氏と首吊りは、関係がないんじゃなかったか?」
図書館で蕃はそう断言したはずだ。改めて宵路は確認を取る。
「言ったね。しかし、方相氏=鬼頭観音とするのは総計だ。方相氏がその土地独自に変化した存在が観音さまとして、他の神仏が混ざっている可能性もある」
「それは、まあ」
「せやったら、方相氏ならぬ
ヒョウが、スマホの画面に打った漢字を見せながら言った。
疱瘡とはいわゆる
疱瘡神とは疱瘡に限らず、流行病そのものを神とみなしたものと考えていい。
「そういえば宵路、集落では年一回、鬼頭観音にお参りしてお守りをもらっていたって言ったね?」
「ああ、邪気払いか何かの……」
急に蕃が話を変えた。
「そのお守りというのは、もしかしたら邪視よけかもしれない。だとすれば、宵路の故郷は、典型的な『邪視信仰がある社会』だ」
「少しは黙れねえのか」
りんが拳をぎゅっと握ったが、ヒョウが「姉さん、聞いとこ」と手を添えて、それを下げさせた。蕃は「どうもどうも」と笑いかけて続ける。
「邪視信仰というのは、邪視を崇めるという意味ではなく、それがあると信じているという意味だ。そのような社会では、邪視による害をこうむっても、それは受けた方が悪いのであって、邪視を持った側は責められることがない。その代わり、専用のお守りなど、邪視に対する防御策がもうけられている。ここが憑きもの筋と邪視信仰の大きな違いで……ああ! 憑きもの筋の説明がまだだったね」
腕を組み、じっと蕃の長口上を聞き終えたりんは「いらねえよ」と不機嫌に返した。ヒョウもうんうんと首を振って同意を示す。
立て板に水、水を得た魚。蕃がその道の事柄に詳しいのは助かるが、放ってけば一人で何時間でもしゃべり続けそうな勢いがあった。
「なこと言っても、ヨミチが邪眼持ちとは限らねえだろが。な?」
「もちろん、そんな覚えはない」
りんに問われて、宵路は首をすくめる。幼いころは霊感があるばかりに、〝
どちらにせよ〝見鬼が抜けた〟と長老は宣言した。だから、自分は特別でも異常でも奇怪でもない、まっとうな人間になったはずだ。
けれど、何がまっとうかなんて、宵路はまだ知らない。ただ、普通になりたい。学校に通って、バイトでもして、友人たちと楽しい時を過ごして。
それがこの夏になって、突如崩壊してしまった。日々薄皮のように軽々と積み重ねられてきた疲労が、まとめて胸に重量を落とす。
「籠ノ目の兄ちゃんは、方相氏と
すっと通る声で、ヒョウが見解を口にした。
「契るって、結婚のことかな」
「そう」
うなずくと、色素の薄い髪がふわりと揺れる。男子とも女子ともつかないヒョウの、神秘的な気配が夏の日差しに浮かび上がるようだ。
「神さんの花嫁、花婿は、所有されるってことで、人でいられなくなる。だいたい、籠ノ目の兄さんって、好かれそうなタイプやし」
はたしてそうだろうか。自分がそういう人種だとは思えないが、宵路は上手く反論の言葉が思いつかなかった。神の伴侶選びの基準だって、よく分からないのだし。
パン、パン、と両手を叩いて蕃が物思いを中断させる。
「僕も少し興奮してしまったが、方相氏を名乗る何らかの存在と、宵路の関係は一旦保留しよう。そいつは僕らに見つかることを恐れている。追求は慎重に行うべきだ」
「進展があんだかねえんだか。怪異がらみはいっつもこうだ」
うーんと伸びをして、りんは締めに入った。
「ま、後でLINEでスケジュール詰めて、次は皨集落に現地調査だな。集落内と、その近くの妙見町で、鬼頭観音と邪眼についてだ」
それで今日は解散の流れとなった。
方相氏。邪眼。それが宵路に取り憑いている可能性。食事の時に現れた強烈な幻覚と、自身を責める死者たちの幻影。
これらのすべてが方相の仕業なら、あれは一体宵路に何を求めているのだろう。
帰路に就くと、当然のように蕃は宵路に同行した。
「夕飯、どこで食べる? 宵路」
「昼も夜も外食はちょっと」
「じゃあ何か買っていこうか。君、放っておくとポン酢をかけたご飯なんかで済ませたりするからな」
「失敬な。トーストの方が好きだ」
「『安かったから』って、三食はんぺんを食べ続けていた時があったよな」
事実だ、言い返せない。
そうやって軽口を交わしながら、宵路は本題を切り出すタイミングをうかがった。余人がいる場では、あまり口にしたくないような内容だ。
買い物を済ませ、バスを降りて、アパートへの道を歩く。
「蕃、前に言っていたプランA、頼めるかな」
「君の眼球、舐めていいのかい!?」
肩をつかんで食い気味に確認された。そんなに舐めたかったのかと思うと、やはりやめておけば良かったかという後悔がよぎるが、諦めるしかない。
そこで初めて、宵路はカフェテリアでの出来事を話した。他の二人には誤魔化したが、自分が見た幻覚は本当に一瞬のことだったらしい。
眼を潰された痛みと、失明の恐怖。姿を現した死者、紫藤恵生と
「蕃……君も、私と、心中未遂しただろ」
「ああ。二人で
そしてあっさり失敗して、打撲だけ作った。高校生の時だ。
「好きだ」と告白されたから「いっしょに死んでくれる?」と返したら、うなずかれて。夏のある日、二人で六吉川で一番高い
「死んだかと思ったんだ」
「だが、僕も君も生きている」
そう話している内にアパートは目の前だ。
「そしてこれからも君は生きるんだ、宵路」
だから少しでもこの呪いを解いていこう、と蕃は続けた。
◆
余計なことを言ったかな、というのが今日一日に対するヒョウの反省だった。
宵路が方相氏、仮にも鬼神と呼ばれ、また鬼頭観音という名で神仏と崇められる存在が、一人の人間に執着しているなら、それは輿入れだ。贄と紙一重の。
自分と同じなのではないかと、そう思った。
ヒョウは本名を
八歳の時、神との契りを告げられた。大人になるころには
それに逆らうため、男の格好をし、事故もあって片腕を義手に変えた。しかし木製の簡素な義手でさえ、神のお告げを下ろす道具になっている。
自分がどこまで逃げ切れるか分からない。娶らされた先でどうなるかも知らないが、少なくとも人として死ぬことも、終わることもないのだろう。
(でもやっぱり、籠ノ目の兄さんは、オレと同じやって気がする)
他者を誘惑する魔性。興味を持たない者は何気なく流してしまうだろうが、ふと目を留めてしまったならば、とことん引きずり込まれておかしくなる。
それは目鼻立ちが極めて整っているだとか、つややかな黒髪だとか、華奢な体だとか、新雪のように白い肌だとか以上に。妙に、寂しげなのだ。
周囲と隔絶した美貌を持ち、それゆえに他者と上手く関われず、一線を引いている。一歩後ろへ引いて、自分が輪の中に入る資格がないと思いながら、向こう側をまぶしげに見ている。だから時々、輪の中に引っ張りたがるヤツが現れるのだ。
そうでないと、消えてしまいそうだから。
「ばっちゃん、今日もご祈祷しとったん?」
入交家に帰宅すると祖母の姿はなく、あらかた探して最後に行き着いたのが、祭壇の部屋だった。ご祈祷の時に使う、部屋の一面に神々を祀った特別室だ。
初めて籠ノ目宵路が来て以来、祖母は「何か」を感じ取ってご祈祷している。具体的に何を立願しての祈祷かは教えてくれないが、よくあることだ。
白装束の祖母が座す部屋は、余人から見れば「異様」の一言に尽きるだろう。
それはシャーマニズムにおける
祭壇内の壁には、天照大神を中心に、
いわゆる「霊能者」を想像して訪問してきた者は、この光景に圧倒されると同時に、イメージを満たされて満足することだろう。
白檀が香る中で、祖母のハツネが振り返った。
「ああ、ヒョウちゃん。今日は常連の人も来とったからねえ」
なんとなく祖母の様子がいつもと違う。普段はもっと朗らかだが、今日はどこか緊張していて、何か大事なことを言おうとしているような。
「ヒョウちゃん、もう籠ノ目さんに近づくのはやめときぃ」
予想は当たった。だが内容は予想外だ。
「りんちゃんにもそう伝えて。恵生ちゃんは残念やったけど、あんたまで居なくなったら、ばっちゃんはどうしたらええの」
「……神さんが、そう言っとんの?」
「たぶんな」
祖母がこういう言い方をするということは、事態がますます火急であることを示していた。シャーマンは神と人の仲介をするものだが、神の声をあえて言葉に変換しない、とは異常事態なのだから。だが、そういうことは時たま起こる。
「なんで?」
それでもあえて、聞き返した。答えが返ってくるまで、十分ほどはかかっただろうか。それほど祖母は
「……あれは、邪悪なもんや……」
ためらいの末に、祖母はそれだけを告げる。籠ノ目宵路が邪悪と言うならば、彼は邪眼を操り、人を殺す魔物のたぐいということだろうか。
ヒョウは無意識に義手を見つめていた。こんな時ぐらい、何か教えてくれてもいいだろうに。婿を気取るくせに、気の利かない神だ。
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