九、眼は心の鏡と言うならば
声を上げて放り出していいはずなのに、
ず、と右端から人差し指が伸びた。
腕などないのに、指だけが独立した生き物のように動く。しかし続く中指・薬指の動きは、掌や手首につながる、人体に統一された動きだった。人間らしいとも言う。いつの間にか、サンドイッチが顔のすぐ前まで近づいていた。
アボカドやマヨネーズに汚れた指が、宵路のまぶたを押さえる。
「あ」
人差し指の爪が、ひたりと目の端にかけられた。それでも、宵路は顔をそむけることも出来ない。
ひどく不吉な予感だけがあった。この後どうなるか、最悪の状況を想像しながら、「まさかそんなことは」という希望的観測を引き寄せる。
しかし、現実は容赦なく凄惨だ。
視界が真っ赤に染まって、顔面がまるごとえぐり取られたと思った。
長く伸びた爪が角膜から水晶体までを割り、水分やゼリー状の構造体をまき散らす。鳥がついばむように滅多刺しに、片方の眼も同じように損壊した。宵路の視野は真ん中から欠けて、暗い穴に周囲の景色が吸いこまれてブラックアウトしていく。
生まれて初めて経験する激痛は、意識を吹き飛ばし、脳も血液も神経も内臓も暴走させる。しかも自分の肉体からは、爆発寸前になっても逃げ場などない。
代わりに痛みのブレーカーが落ちた。このストレスに心臓が耐えられないという脳の反応は速やかだが、狂った神経系は痛覚を再起動してしまう。凪から嵐へ、復活した激痛に沸騰したように血圧が上がる、またブレーカーが落ちる。それが神経のあちこちで爆ぜる火花の速度でくり返し。痛すぎて無感覚になって、痛すぎて感覚過剰になって、耐えるという構えすらとれず
悲鳴はもちろん出た、出たが自身の肺活量をゆうに超える音に喉、肺、
宵路の悲鳴は平和だったカフェテリア内に響き渡り、ナポリタンの皿や、味噌汁の水面、シュガーポットの中の角砂糖などをビリビリと震わせ、居合わせた人々の心胆を寒からしめる。スープでも血液でも、間違いなく冷えたはずだ。
「宵路! 宵路、大丈夫か!?」
「おいタオル! なんか血ィ止めるもんねえか!」
宵路は床の上で魚のようにのた打ち、悶絶した。
誰かが呼んだ救急車が駆けつけ、慈悲深い鎮痛剤が処方されるまで、この地獄は続いた。手術室へ行くが、両の眼球は破壊され、視神経までズタズタにされている。
◆
自分の視力がもう二度と戻ることはない、という事実はなかなか受け容れられるものではない。今置かれている状況が、とんでもなく不自然に感じられるのだ。
たちの悪い冗談、あるいは一時的な何かの間違い。生まれてこの方、一日中目を閉じて過ごしたことなどないのだ。それに夢の中では、カラフルに景色が見える。
目が覚めてまぶたを開いて、いつまで経っても闇のままであることに困惑して、時間を確認しようとした。すると自分が入院中であること、その原因がなんだったかを思い出して、最後に〝失明〟の二文字がじわっと浮かび上がる。
薄い酸を垂らされたような、胸の痛みと共に。
「まさか君が、こんなことになるなんて」
見舞いのたびに、蕃は沈痛そうに言葉を漏らした。「守れなくてすまない」とも。確かに原因は超常的な何かだが、あれにどうやって抗えただろう。
「いいんだ、蕃。きっと、運命だったんだろうさ」
宵路は半分は心ないが、半分は本気で、いつもそう返した。けれど夜はときおり、涙腺すらなくなった体で泣いている。
一人ではベッドの上り下りも楽ではなかった。ニワトリは三歩歩くと物を忘れる、という不名誉な話があるが、今の宵路にはたった三歩も果てしない道のりだ。
傷が治るころには、とうに大学の夏休みは終わっていて、宵路は退学を決めていた。それより、視覚障害者としての生き方を覚えていかねばならない。
覚える? 本当に? わけの分からない怪異に光を奪われて、友人たちを殺されて、それでもなお! これから先の、人生のことを考えねばならないのか?
「本が読めなくなるのは辛いよねえ、カゴメ」
「まあ電書ならオーディオ版なんかもあるし、点字を覚えればナントカなるかもだけど。写真とか絵画とかは、ねえ?」
恵生の死に顔を思い出しながら、宵路は内心同意した。
半ば惰性で生きてきたのに、これからの生活には人一倍の努力がいる。長い時間をかけて、歩き方も食事の仕方も文字の読み方も、一からやり直しだ。
「でも、そんなのは今までもこれからも、籠ノ目には大して違わないんじゃないか」
スツールにどっしりと、落ち着いた雰囲気の男性が腰かけていた。サークルの先輩、
また彼のこんな顔が見られるなんて、と驚いている自分に嫌悪感を覚えた。宵路の中で、渡名喜の印象は生きていた時よりも、死に顔の方が強くなっているのか、と。
何しろこちらは肝試しの夜、首吊りの縄から降ろした渡名喜の死体をじっくり観察したのだから。それはかつての人格が失せた、ただの物体でしかなかった。
つい数十分前までは生きていたのに、焦点を失った目はすでに濁って、口元からはだらしなく舌が出ていた。生前彼が持っていた気遣いも親しみも、残っていない。
今話しかけてくる渡名喜は、遠い幻そのものだ。
「なあ籠ノ目、君は生きてきて、楽しかったか?」
「どうして」
そんなことを訊くんですか、とか。ここにいるんですか、とか。そういう言葉を続けようとしたが、宵路の口からはどちらも出てこなかった。
「いや、別に君の人生に、一瞬でも楽しかった時がなかったとは、僕も思ってないよ? もしそうだったら、とっくに籠ノ目は死んでいただろうし」
「充実ってヤツだよ、つまり」恵生が口を挟む。
「うん。僕らといっしょに旅行したり飲み会したり、バカやったりしたけどさ。籠ノ目はちょっと一線引いているっていうか、少しうわの空な所あったよな」
気づいていたのか。すっと体温が下がるような恥じらいに、胃の腑が痛む。
これが追い詰められた自分の妄想なのか、夢なのか、宵路には分からない。光を失った世界に、死者の姿がくっきりと焼きついていた。
「あ、否定しないんだ? カゴメ」
「ちょっと傷つくなあ」
恵生は笑みを崩さない。渡名喜は困ったように眉根を寄せて、頭をかいた。
「まあ、僕らの知らないところで、もっと気の合う友人とか居たならいいんだけど……いない? そっか……」
「籠ノ目は友だち少ねえからな」
恵生の反対側に、ややガラの悪そうな金髪の青年、
あの夜は首にかかった縄を切ろうとしたら、益子の髪も何本か切ってしまった。だが髪型に影響するほどではなかったらしい。
「だいたい、コイツは」益子が眉を怒らせながら指をさす。「下手に付き合いが深くなると、すぐ一線越えようとしやがるんだ」
「えっ。籠ノ目さんってその、あんがい肉食系なの?」
きゃぴっとした声を上げたのは
体を降ろそうとした時、ハーフアップにくくった彼女の髪からは良い匂いがした。花とも果実とも分からない、名前を知ることは二度とない何か。
人が死ねば、その身につけた香りも死ぬんだなと思ったのが印象深かった。
「コイツは距離感がおかしいとかじゃねえけどさ、その気になったら男も女もおかまいなしなんだよ。俺は真似できねえわ」
「えぇ!? 籠ノ目さん、もっと清楚系でオクテって思ってた!」
「……それは、違う」
宵路の反論する声が弱々しいのは、事実がもっとろくでもないからだ。
中学校の時、同級生の女子に愛の告白をされて断った。どういう相手なら良いのかと聞かれて「いっしょに死んでくれる人」と返事したのは本気だ。
すると相手は、翌日から「心中スケジュール作ろ」と言いだし、あれやこれやと計画を提案した。「あたしがいっしょに死んであげる」と。
「な? コイツは、道連れになってくれるなら、誰でもいいんだよ」
「うわ、うわ、うわ、太宰治じゃあるまいし」
益子と花菱がそろって宵路を非難する。口に出してもいないことを読まれていたが、すとんとその状況が呑みこめた。
「でもその子は、本気で君と死にたいわけじゃなかったんだよな」
渡名喜の言う通りだ。
彼女は自殺の名所と名高い観光地を巡ったり、『完全自殺マニュアル』を買ってきたりしたが、そうやって二人で過ごす時間を作ることこそが目的だった。
何度も心中決行日をはぐらかされれば、嫌でも気づく。
「『人間生きてればいつか死ぬんだから、その日までいっしょにいてあげる』――涙ぐましいねえ。その子、本当にカゴメが好きだったんじゃん」
「それを振るなんて、人の情ってもんがねえなあ籠ノ目」
「そんなに死にたかったんだ、籠ノ目さん」
闇の中に灯された蝋燭のように、四人の姿と声がゆらゆらと揺れながら宵路を取り囲んだ。それは肌を焦がすように熱を帯びながら、同時に震えるほど冷たい。
「中学でも高校でも、そうやって心中ごっこをくり返して」……。
「そんな人生、楽しかった?」うるさい。
「意味はあったか? 心中癖野郎」うるさい。
「楽しさも優しさもカゴメを裏切るよ」黙ってくれ。
「置いていく家族もいないだろ?」だからなんだ。
「君が僕らを殺したくせに」違う。
「お前が俺たちを死なせたくせに」違うんだ。
「カゴメは、あたしたちを道連れに死のうとしたんだ」そんなことしていない!
「なんでまだ息してるの、ごはん食べてるの」わたしは。
「次は誰を殺すんだ?」わたしは……。
一言ごとに彼らの顔は崩れて、クレヨンで描き殴ったラクガキのようになっていく。衣服や背格好のディテールは失われ、あの白い人影へと変わっていった。
人影の輪郭から、はらはらと線が剥がれる。それは赤や白や青の糸になって、宵路の首に巻きついて、ぐうっと喉を押し潰した。
「――うあっ!!」
投げ上げられた皿が、床に落ちて甲高い金属音を立てた。サンドイッチは分解されて、パンも海老もアボカドペーストもあっちこっちに飛び散っている。
カフェテリア中の視線が突き刺さるが、宵路に構っている余裕はない。心臓がバクバクと早鐘を打ち、全身が冷たい汗に濡れていた。
「いま、のは」
椅子に力なくもたれかかる宵路に、同じ机の三人がけげんな視線を向けている。蕃、りん、ヒョウ。今は夏休みで、図書館で調べ物をしていて。
自分は目が見えて、まだ生きている。
(ああそうか、私にも穴が開けられているんだ)
三つか、四つか。それがいつ七つに達するかは分からないけれど。刻一刻と、致命的な〝何か〟をもたらそうとしているようだった。
穴の向こうは、きっと今見せられた悪夢よりも、酷い。
◆
「さっき降りてきた。これ、兄さんと関係あるんとちゃうかな」
食事の終わりぎわ、ヒョウがペーパーナプキンに書き付けたメモを出した。降りてきたとはお告げのことで、つまり、自動書記だ。
『
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