八、のっぺらぼうは七つ穴に殺される
「
物騒な物言いを、
「そ、社会的制裁。村八分とかエンガチョ、鬼ごっこの鬼の立場だな。しかし狭い日本、一回ムラから追い出されたら、ガチで生死に関わっただろうよ」
おそらく蕃に任せれば、黒鳥りんの言葉にいくらでも解説をつけ加えてくれるだろう。
「ま、それはそれとして超常現象としての呪いも呪殺もあるにゃある。一つはプロの術師が使う呪い。これはきちんと修行して、手続きを踏んで、神さまの力を借りてるからマジに効く。人間、頭一つぶんの高さから落ちても、死ぬときは死ぬしな」
あっけらかんとりんは語る。人を呪うのにプロもへったくれもあるのか、と宵路は妙な気分だ。そもそも、オカルトで人が殺せるのか――殺せてたまるか。
「それでは」どうにも黙っていられなくなって、宵路はそっと口を開いた。「完全犯罪が野放しになっている、ということかな」
「いんや」
りんは、だらんと下げた手のひらをプラプラと振った。
「醤油でできるなら、味噌でもできる、って味噌カツ考えた人は偉いよな」と言いながら、肉厚のトンカツを口に放りこむ。咀嚼から嚥下まで一連の動作中、りんの口元は柔らかくほころんでいた。
「神さまの力で誰かを殺しちまったら、それは
「隕石か」
「あと、突然血を吐いて原因不明! 死亡! なんてことも、まず起こらねえ。んな真似ができんのは、直接神さまに呪われた、つか祟られた場合だけだな。ああ、あとは、特別力を授かった人間、なんて〝例外〟とかか」
隕石という説明で納得しかけたところで、聞き捨てならない言葉が聞こえた。宵路が問い返そうとすると、言葉を継いだようにヒョウが口を開く。
「才能って、天からの授かりものって言うやろ。人を呪う力を持った人間なんてのは、特にそうや。神か仏か何か良からぬものの力を、知らん内に借りとる。それは寿命や魂で取り立てられるからな、そら、ろくな事にならんよ」
肩をすくめて、ヒョウは湯漬けうどんをすすった。つるりとした麺が、刻みネギや天かす、七味唐辛子と絡んで小さな口に吸いこまれていく。
それで食欲を思い出し、宵路は手元のサンドイッチをつまんだ。焼き目をつけて三角にカットされた食パンに、生ハムとレタス、クリームチーズが挟まれている。
パンの裏側にはこってりと辛子マヨネーズが塗られており、これら具と香ばしいパンをまとめて噛むと、なかなかの口福があった。
「……プロの術師と、その例外は違うのか?」
「術師はきちんと修行したやつ。例外は知識も技術もねえのに、才能だけでなぜか出来ちまうヤツ。後は素人でも、無茶苦茶恨んでいるとかなら呪うこと自体はできるな。命やら魂やらバリバリ削るから、相手か自分か、破滅しかねえけど」
りんの言う素人は、宵路にとって他者を呪いたい人間のイメージに合致した。呪いとは、失うものが何もない、弱者の最終手段だと聞いたことがある。
怨み憎しみだけで人が殺せたら、世界など何度滅んでいるか分からない。実際に人が傷つくのは、それを胸に抱くだけではなく、行動に移した時だけだ。
「だから神さまが手ぇ貸すんや」
唐突にヒョウが言った。心を読まれたような気がして、宵路は自分の背筋が弦のように弾かれた気がする。腹の底にびぃん、と余韻が響く錯覚さえあった。
こんな何でもない言葉に、楽器のように反応してしまう自分の臆病さが嫌になる。
「それに世界なんて、一回や二回滅んでも、あんがい気づいとらんだけかもよ」
「それは、どういう意味、ですか」
「リセマラしたって、ゲームのキャラはそれに気づかへんやろ」
あまりに馬鹿馬鹿しいので、宵路は聞かなかったことにした。サンドイッチをかじって気分を変えよう。薄切りのキュウリとタマネギ、小さく刻んだベーコンが入ったポテトサラダは、黒胡椒のピリッとした辛みで味がまとめられている。
このまま食べても、酒のつまみになりそうなサラダだった。
それをパンで挟めば、辛子マヨがちょうどつなぎになって、一つの料理にしてくれる。宵路には珍しく、食べる手が止まらなくなりそうだ。
もりもりと千切りキャベツを食べていたりんが、ぴんと指を立てる。
「で、いいかヨミチ。ここまでが前提だ」
「はい」
「さて本題。中国の神話に、
「中国哲学書の『
いち早く、夏野菜カレーを平らげていた蕃が補足した。りんは「ははーん」と顎をなで、品定めするように彼をジロジロ見やる。
「さては、おめぇ
「彼女と面識はないが、僕と気が合いそうだね。お会いできないのが残念だよ」
蕃は気分を害した風もなく、ニコニコ笑っていた。悪魔と取り引きしたように整った目鼻立ちと褐色の肌が、穏やかな光を放射するようだ。りんが話を戻す。
「シュクとコツは善意から、渾沌に七つの穴をプレゼントしようとした。穴ってのは目、耳、口を合わせて七つ、だよな?」
「眼が二つ、耳が二つ、鼻の
「
食事中なのだが、彼女はお構いなしだ。
「シュクとコツは善意で一日一つ、七日かけて穴を開けて行ったが、最後の一つを開けた途端、渾沌は死んじまったとさ」
身体に穴を開けるという行為は、それだけで殺意を感じるが、皇帝たちにそのような意図はなかった。渾沌自身も、死ぬとは思っていなかったかもしれない。
これは呪いの話だ、七つの穴は単なる傷ではないのだろう。
「さて、渾沌はなんで死んだと思う? 出血多量とかつまらねえこと言うなよ」
「穴が印だったからだ」
りんの問いに、宵路は慎重に答えた。
「鬼ごっこの鬼やエンガチョ、あるいは兄アベルを殺したカインにつけられたものと同じ。これは呪われしものである、というマーキングそのもの。それは単純な社会的抹殺というだけではなく、神からも見放される、という恐ろしさなんじゃないか」
あるいは神から目をつけられる、か。神々が人を呪うことに手を貸すなら、印とはその照準にもなるだろう。そして渾沌の死には、もう一つ見逃せない問題がある。
「渾沌は目も鼻も口もないのっぺらぼうだった。それが五感を得たなら、もう顔のない混沌ではいられない。アイデンティティの喪失もまた、死因だったんだろう」
見えなかったものが、見えるようにさせられた結果、死ぬ。
霊や怪異の世界は何ともややこしいものだ。渾沌が七穴を持った存在に生まれ変われなかったのは、不幸であり、二人の皇帝の傲慢でもある。
「OK、親友、悪くない見解だ」
蕃がつややかな黒檀色の手で、宵路を指さした。「しかし、その死因はまだ深掘りできる」と続けるので、「どうぞ」と促す。
「僕の見解は、渾沌が生きる苦しみを知ってしまったから、だ。別にポエムじゃなくてね。仏教では、眼と耳と鼻に舌、それに付きまとう身体、
「五感も意識も持たない怪物なんて、幽霊と何が違うんだ」
「さあ? ともあれ、僕ら人間から見ておよそ生きているとは言えない存在が、神に近い皇帝の手で生を知った。その重さも苦しみも、何もかも。渾沌はきっとそれに耐えられなかったんだろうね」
蕃が得意げに話を締めると、りんはニヤリと笑い、「惜しいな」と両手の指をチョキチョキと動かした。バッテンだ。じゃあ答え合わせをしてもらおうじゃないか、と宵路と蕃はりんに真っ直ぐ向き直る。
「眼や耳や鼻や舌を持っちまった渾沌は、もう前の自分にゃ戻れない。渾沌としては死ぬしかないんだ。で――アタシは、七つの穴が呪いの本質だと思う」
りんは三人をぐるりと見回した。蕃、宵路、ヒョウ。宵路のサンドイッチ以外、皆手元の料理は食べ終わっている。りんの味噌カツ定食もだ。
「印を得たものは、それまでとは違うものを
りんは拳を作って、とん、と自分の胸に置く。人間がそれぞれに持っている物語がにじみ出す時、それはある時は影に、ある時は光になる。この時は後者で、宵路の眼には黒鳥りんが、長い長い年月を旅してきた賢者のように見えた。
自分には思いも寄らぬものを見て、知って、引きずりこまれそうになって、それでもまだこの世界に、人間として立っている人だと。
眼のないものが眼を開けられて死んだ。では、眼のあるものに明けられる穴はなんだ。どこの感覚に、いずこの世界に通じている?
「アタシは七つの穴を開けられそうになっていて、うち三つから四つがいつも開きかけたり、閉じたりをくり返している。呪われているってのは、そういう状態さ」
「呪いは呪い、か……」
りんに対する侮りや軽蔑の感情は、宵路の中でくしゃくしゃに丸められて、どこか見向きもされぬ場所へ棄てられた。
彼女に穴を開けたものは、あの夜、四人が首を吊ったその場にもやってきたのだろうか。新たな穴を開けるために。憎悪とも怨みともつかぬ、呪いを振りまいて。
何なら、穴を開けるのは善意ですらあるのだろう。
「黒鳥嬢の状況が分かったところで、どうするね? まだ図書館でねばるかい?」
蕃がこの後の予定について問うた。
「今日はもう、解散でいいんじゃね。ヒョウもお告げかなんかは、来てねえんだろ」
「うん」りんに訊ねられて、ヒョウは顔をしかめる。「……あった方が怖いわ」
「え、そんな厄いやつ?」
ふうむ、と蕃は考えこむようにうなった。
「なら一度、現地に行って調べようか」
「現地って、
「私に土地勘は期待しないで欲しい」
宵路自身は土砂災害以降、故郷も、元村民が住んでいる周辺地域にもまったく訪れていない。りんは意外そうに微笑んだ。
「奥飛騨までちっと遠いだろ、アンタ、行く気があるんだな」
「図書館もWebも情報が古い。
「じゃー、この四人で小旅行といくか!」
能天気なりんの物言いに、宵路は以前のように嫌悪感を覚えなかった。
「兄さん、もう食べへんの?」
ヒョウの言葉に、宵路は物思いを打ち切った。もうみんな皿もコップも空になって、あとは皿に一切れ残ったサンドイッチだけだ。
具はアボカドと海老のはずだったが、持ち上げた時に違和感があった。多めに中身を盛られでもしたのか、明らかに重たい。
ゆで海老の白と赤の身に、アボカドペーストが載っている断面を見ると、頭の片隅で警戒信号が点灯した。何かおかしいと思いながら、非現実的すぎて、視覚が上手く目の前のできごとを処理し切れていない。四つの海老が動いている。
それはぷりっとした赤白の海老ではなく、生白くしわくちゃの、老人の指だった。
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