四つ眼の儀式
十三、だって父さんは明日へのドアに背を向けたんだ
民宿『ほくと屋』で一夜が明け、
「ヨミチ! これからヒョウに、徹底的にお前を見てもらう」
「前に見せた自動書記な」
ヒョウが長机を挟んで、宵路の対面に陣取りながら言葉を継いだ。その隣に、ドカリとりんが座る。二人とも、特にヒョウはどこか緊張した雰囲気だった。
友好的な知り合いではなく、敵対的な人物を前にしたかのような。一歩間違えれば傷つけられるという警戒心で、体の輪郭が刃物のように険しい。
ヒョウは白い手袋をはめた片手を、もう片方の手で持ち上げて見せた。
「前は
「私が邪眼持ちかもしれないから、闇雲に
友人たちが集団自殺した一件の原因が己かもしれない、と疑われて気分が良いはずはない。それでも宵路の語調は努めて平坦で、静かだった。
りんは机に
「確か、君の自動書記は神さまがお告げするもので、文字として出されるまで、何が告げられたかは自分でも分からない、というやつだったね。
そうだな、とりんが相づちを打った。
「改めて話すんだけどさ。アタシは
頬杖を解き、りんは宵路をまっすぐ見つめる。ぱきんと割れた黒曜石のように、キラキラと澄んで、とても鋭く黒い眼差しだった。
「だがよ
言われてみれば、宵路は一度も明瞭な返事をしたことはない。彼女から見れば、流されるがまま、ここまで来てしまったも同然だろう。
「黒鳥くん、君はあの夜生き残った仲間だ。死なせたくない。私に取り憑いている何かがあるなら、解決しないとお互い命が危ないままだ」
薄っぺらい言葉だ。しかも、どこか砂粒が混ざったような違和感があった。
「事情が何かは知らないが、私と邪眼の関係を調べるなら、いくらでも見てくれ」
それを無視して、宵路はヒョウをうながす。
自動書記によって個人的な何もかもがつまびらかになるのは、もちろん面白いことではない。だが、きっとこれが確実な方法だ。
カフェテリアの一件以来、宵路はすっかり海老が怖くなってしまった。あんな怪異にいつ襲われるかも分からない生活は、まっぴらだ。
それと自分の邪眼が関係しているかは、分からないことだが。
「面白いことになったね」
宵路の隣、それまで黙っていた
「自動書記といえば、こっくりさんにウィジャ盤が一般には有名だが、邪視、邪眼、そして心に念じたものを映し出す念写は、すべて視覚の拡張と屈折だ」
「つまりどういうこった、ウメタロー」と、りん。
「人は聞こえたように書くのではなく、書けるようにしか聞こえない。視覚も同じだ。もし宵路の背後に神がいるなら、気をつけた方が良い」
「……ご忠告どーも」
ヒョウはうつむいていた顔を上げ、義手にペンを持たせた。用意していたリングノートを広げる。そこには特別な呪文も儀礼もない。
神の花嫁たる彼女は、すでに自分自身が供物がゆえに。
「恨みっこなしやで、籠ノ目の兄さん」
シャーッと音を立ててペンが走り出した。書き出されている間、りんはメモ帳を開いて、これまで得た情報を確認する。
宵路の恩師、
今永氏によれば、皨集落の出身だった母親は岐阜県外で結婚したが、宵路が四~五歳ごろ病死。そして半年後、父親は息子を連れて無理心中したそうだ。
その経緯がどこからどう漏れたのか……。
ともかく、宵路が集落の分校に上がるころには、「あの子は
『邪眼は本来、おきとうさまの眼なんだ。かつて村で病魔はびこる時、おきとうさまが四つの眼で睨みつけて追い払った』
昨夜、りんはヒョウと相談して、もう一度今永氏と話していた。
あんな品性下劣な人間と話すのは、遠慮したかったのだが……。かかっているのは、りん自身のみならず、ヒョウの祖母・ハツネの命だ。
『そんで時々、おきとうさまの眼を持った人間が生まれるんやさ。病魔を退けるもんでなく、人を脅かす恐ろしい眼や』
「なんで逆になっちまったんだ?」
『後で説明する。邪眼持ちは、集落にいる間は安全なんやさ。みんな、おきとうさまのお守りがあるから。廃村になってから、ずっとこの時を恐れておったんや。いつか邪眼が、外で人に危害を加えるんじゃないかと。実際、そうなりょったのやろう?』
質問を無視してりんが先を急かすと、今永氏は驚くべきことを述べた。
『おきとうさまは、いわば我々の
「いやよく分からねえよ」村を病魔から守る鬼頭観音には、同時に病魔をもたらすもう一つの顔があった、までは理解した。「照準がつまり邪眼か?」
『そうだ!
そういうのはいらねえ! とりんが一喝して今永氏は語調をただす。
『とにかく、皨はもはや無い。邪眼をどうにかしたければ、呪いの源を断ち切るんや。おきとうさまは本尊に宿る。社に直接出向いて、像を壊しと』
「えーとそりゃ、本と分け、どっちの?」
『二柱で一つと言ったやろう。両方だ』
ちなみに神社や墓を壊すと、刑法188条・礼拝所不敬罪だ。皨はすでに廃村であり、鬼頭観音の管理が放棄されているので、適用範囲内かは怪しいが。
しかし本鬼頭と分鬼頭、それらを土砂崩れに埋まった集落跡から探し出して処理しろとは、ずいぶん無茶を言う。
それ以前に、どこまで信用していいものなのか。
だから、ヒョウの自動書記だ。「見てしまえば、見つかる」ものでも、相手の視界に入るのは時間の問題。だとしたら、少しでも対抗手段を探らなくてはならない。
「出たで」
ヒョウが手を止め、びっしりと文字を書き込まれたページを破った。りんが顔を寄せてざっと目を通すと、おおまかな内容は今永氏が語った生い立ちの通りだ。
ただ、詳しく記された情報が、人の内へ踏み入る重さを突きつけてくる。自分の軽々しく浅はかな行動が、どんな風に傷口を抉るのかと。
すっ、と蕃がヒョウの手からページをつまみ上げ、
一行一行文字をたどる宵路の目は、りんとヒョウが予想した段落で凍りついた。
そこには、こう書かれている。
〝籠ノ目宵路五歳。妻の病死により、失意の内にあった父親は無理心中を試みる。〟
〝父親は眠っている宵路の首を何度も何度も絞め、動かなくなったのを確認して首を吊って死亡。宵路は気絶しただけで一命を取り留めた。〟
そして皨集落の祖父母に引き取られ、以後の宵路は見鬼と呼ばれるようになった。
後は中学から高校まで、交際相手と心中を試みようとしては失敗をくり返し、そこの蕃と川に飛びこんだのを最後に落ち着いた、とある。
「これ、私と邪眼については何も書いていないな」
「書けなかったんだろうね」
宵路の声にも、語調にも、乱れた所はない。
端的な感想を述べて、彼は傍らの友人にページを渡した。結局、自動書記は宵路の半生を箇条書きにした程度のもので、悪趣味にプライバシーを暴露しただけだ。
収穫のなさが、りんの自分自身に対する失望に拍車をかける。これでは今永氏よりたちが悪いではないか。しかも、自分の手を汚さずヒョウをけしかけて。
だが、それを許してもらうために謝罪の言葉を口にすることはできない。
「ヨミチ、実はあの後校長のじいさんと話して、オマエのことや鬼頭観音のこと、いろいろ聞かせてもらった」
りんは今永氏の電話で書きつけたメモ帳を見せた。邪眼とは鬼頭観音の目であるということ、本鬼頭と分鬼頭という正邪二柱で一体であるということ。
邪眼の源を絶つには、鬼頭観音の本尊を破壊しろということ。
「つまり、君たちはこう言うんだ。あの夜みんなが首を吊ったのは、私がサークルの仲間を道連れに心中するために、邪眼で呪ったからだ、と」
宵路の結論は性急にして簡潔だ。
「そこまでは言っていねえだろ!」
りんは思わず反発した。
「じゃ、何か反論や仮説が?」
宵路は蕃の手からページを奪い取り、机に投げ出すと自分の学生時代を指さす。
「何度も何度も何度も心中詐欺をくり返しているバカに、こんな物が取り憑いていたら、そりゃそうもなるだろうさ!!」
偽りの冷静さが剥がれ、めくれて、その裏側の激情が燃え上がった。
宵路自身も忘れ、二度と思い出すまいとしていた無理心中の記憶が暴かれた瞬間から、静かに着火しては、
今、叫びと共に彼の
「実際、あの夜私は死んでもいいって思っていた。賑やかで、楽しくて、こんなに幸せなら、その先はもう、いいだろう、って! 明日なんて来なくて良かった!」
白く華奢な青年から出るとは思えないような、横隔膜を無様に震わせ、不格好に発音された声は、かろうじて言葉の体裁を取っていた。
だが意味を取りこぼした者は、ここには一人にもいない。だからこそ誰も何も言えず、言うべきとも思えなくて、動画の停止ボタンを押したように沈黙した。
「黒鳥くん。探している物、探したい物を訊いたね」
再生ボタンを押したのは、一人その権利を持っている宵路だ。座椅子に座り直して、ガラスの湯飲みに入った冷たい茶を飲んで。
りんは首を振ることもできず、宵路の言葉に聞き入る。
「私は早いうちに、死なないといけないんだ。だからそのやり方や、死んだらどうなるかを、ずっと調べていた。遺体を触ったのも、それさ」
ぱたぱたと、透明な滴が机の天板を叩いた。
「だって約束したんだ、父さんと、母さんと、たくさんの人たちと」
「……おい」
涙を流しながら宵路は微笑んでいる。水分に熱く融けた眼は遠くを見ていて、りんが声をかけても耳に入らないようだった。
邪眼がどんな眼差しか彼女は知らないが、胸にぽっかり穴を開けられた人間が見せる絶望的な瞳の方が、りんはよほど恐ろしい。
「いっしょに死んであげられなくて、ゴメンって」
「……ヨミチ。おい、オマエ」
ぴちゃり、ぴちゃりと滴る涙が重さを増す。
「〝待っている〟ってみんな言ってくれた」
「兄さん! 眼!」
「しっかりしろよ、テメェ!」
両目から流れる血で、宵路の顎から胸元、机の上は真っ赤に染まっていた。古い日本家屋特有の、甘くて枯れ草のような匂いが、鉄臭さに押し流されている。
あ、と宵路が床の間を指さした。
「あの子がいる。蕃、またカメラを……」
ぐるん、と宵路の白目と黒目がひっくり返り、ぐらつく体を蕃が支える。
「宵路が邪眼の自覚を持ったせいかな、ヤバいぞ」
いつもひょうひょうとしていた蕃の声音も、さすがにこわばり、額に冷や汗を浮かべていた。手早く宵路を畳に寝かせ、タオルを濡らして顔を拭く。
「黒鳥嬢、宵路は僕が見ておくから、君たちは先に皨集落へ行ってくれ。彼が落ち着いたら連絡するから、その後で合流と行こうじゃないか」
宵路の様子を見れば、余計なことをしたりんとヒョウよりは、蕃と一対一で話す方が良いだろう。ホームセンターに寄ったり、レンタカーを手配したり、やることも多い。今日の所は、本尊を見つけなくとも、先遣隊ぐらいに思っておこう。
「分かった。じゃあ、ヨミチをよろしくな」
◆
「おまえはもう少しおとなしくしていろ」
白い影が、床の間のあたりにちらついている。背は低く、幼児がクレヨンで描いた落書きのようなタッチの、子供のような姿をした何かだ。
宵路しか認識していなかったはずのそれを、蕃もまた認識していた。だが彼の興味はそちらにはない。服や顔の血涙を丁寧に拭き取り、宵路のまぶたを開く。
血液にまみれ、充血した赤い眼球。そこへ蕃は、愛しいものへ口づけるように、真っ赤な舌をするりと重ねた。
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