十九、吃鬼歌(オニ喰いのうた)
鼻をつままれても分からぬ闇、という言い回しがあるが、ここでは一人一人の姿がハッキリと見える。空間を満たすのは闇ではなく、一色の黒ではないか。
だが、この場が決して暖かな光に照らされぬという証左は、鬼頭観音の存在だけで充分だった。かの邪神凶仏には、どんな霊感のない人間でも気配に打ち据えられる。
巨大な生物の胎内にいるような――否。
霜ついた死体の上を歩くような――否。
姿のない猛獣の檻に入れられたような――否。
そして、そのすべてが是。
死期が近い人間、あるいは突発的な死に見舞われた人間は、霊感が高まるのと同じ理屈だ。人間はこの暗黒にいるだけで、死をひしひしと感じさせられる。
地面があり、空気があり、そのどれにも歪んだエネルギーが満ちていた。肌を刃がなでるような硬い冷たさをともなって、何かが絶えず
神の気配は運命の力に等しい。残酷な末路へと導く、負の引力に満ち満ちた邪悪さが、場を支配していた。それが明かりのなさ以上に、人の眼を塞がせる。
だが白御幣の人影が現れた瞬間、鬼頭観音の視線が矛先を変えた。
「オレらにあれはどうにも出来へん」
呼吸を思い出したように、ヒョウは口を開く。
「ただ信じて、任せるしかない」
ポケットから折りたたんだ紙を取り出し、彼女はそれを地面に広げた。邪気払いのお守りに入っていた、鎮西八郎の
無言で手を合わせるヒョウに、りんも
三人ともふらふらだ。さっきまで首を吊られていたのに、必死で言い合いをしていたりんと宵路、文字通り死力を尽くして鬼頭観音と対峙していたヒョウ。
これが最後と言い聞かせて、闇からの出口へ足を動かす。先導はやはりヒョウだ。
「
爪が石畳に当たるような、カチャカチャという音がした。犬と言うには大きすぎる、四つ足の獣の気配が十数匹、どれもハッキリとした姿は見えない。
「……
宵路だけが獣の影を見据え、名前とおぼしき言葉を口にしていた。
「ヨミチ、なんだそれ」
「観音さまに従う十二の獣、だったかな。悪いものを食べてくれるって」
更にわらわらわら、と四方八方から小さなものが押し寄せる。赤い頭巾と黒い服の影は、手に手に弓矢や杖、あるいは太鼓を持っていた。
よたよたとその間をかき分けつつ、ヒョウが言う。
「小鬼……方相氏に従う
宵路が振り返ると、白御幣の影は、大きな鉾と盾を手に舞踊を始めていた。幼いころ、この神社で見た大祭の光景をまざまざと思い出す。
どこからか音楽と歌が流れた。悪い鬼を
「――すべての十二神は悪鬼と凶を追う。汝の身を八つ裂きにし、汝の肝をひしぎ、汝の肌と肉をバラバラにし、汝の肺や腸をえぐり出すぞ、汝すみやかに去らなければ、遅れたものは
白御幣はとうとうと歌い、鉾と盾を戦うように振り回した。
「
「鬼
「儺~! 灘~!」
侲子たちがその周りで、威勢の良いかけ声を上げる。声色はやはり子供のものだ。
「すべての十二神は悪鬼と凶を追う。汝の身を八つ裂きにし、汝の肝をひしぎ、汝の肌と肉をバラバラにし、汝の肺や腸をえぐり出すぞ、汝すみやかに去らなければ、遅れたものは食物にするぞ。食物にするぞ」
くり返される歌を背に、三人はよたよたと走った。足裏に返る感触は、土もあれば岩も木板もあり、骨付き肉のようなものや、浅い川面の時もある。
一歩ごとに、鬼頭観音の気配は確実に離れていった。
「光だ!」
りんが叫ぶのと、外へ転がり出るのは同時だ。青葉と土の匂いがまず鼻孔を刺激し、酸素にあえぐ肺へ新鮮な空気が流れこんだ。舌に甘くてビックリする。
白くさんさんと照る日が肌に当たり、異界から戻ってきたと実感した。耳には蝉の声、風の音。りんはヒョウの手首を握ったまま、境内に倒れていた。
参道の石畳は山中でも熱い。重たい体をごろりと動かして、倒壊した拝殿を確認した。あの中に三人とも引きずり込まれていたとは。
「……宵路兄さんは?」
「あっ! いねえ!?」
立ち上がって周囲を見回したが、籠ノ目宵路の姿はどこにも見つからなかった。
※
ぼた、ぼた、ぼた、と大きく血が滴りが落ちる。
一滴が黒い地面を打てば、霧を吹いたような赤が輪郭を彩った。ぬらぬらとした血だまりは、粘度を保ったまま生き物のように這い、宵路の前へ立ち塞がる。
瞬きの間に、それは亡霊へと姿を変えていた。死と隣り合わせの異界、邪神の封土、この世の
約束したじゃないか。
その言葉と眼差しに、先ほどまでの彼なら心臓を貫かれていただろう。宵路はあくまで冷静に受け止め、噛みしめるようにまぶたを閉じた。
「ずっといっしょ、そうだな」
置いていったのは俺の方だけど。眼を舐めさせてくれただろ……あれでもう半分、君の眼は俺の、観音さまのものになっている。
「半分か。半分なら、持って行くといいさ」
本当に?
「約束だ、蕃。いつか、必ず会いに行く。もう一個はその時までおあずけだ」
眼を見開くと、亡霊はありし日の姿を取り戻していた。もう血まみれでも、
眼鏡をかけた青白い少年の目鼻立ちを見ていると、偽者の『蕃雨太郎』は理想的な自己の姿だったのかもしれない、という感想が脳裏をよぎった。
分かっているからな、考えていること。……そうだよ、あれぐらいイケメンになりたかったさ。お前の隣は、それぐらいの方が釣り合う。
「釣り合いって何だよ。君はそういうの、気にしないと思っていたのに」
いやでも、あの顔かなり好きだったんだ、俺。
「金の斧を出してくる泉の女神に、綺麗な方って出されるみたいな?」
そうそう、そういう感じ。
「こういう風に、ダラダラくだらないこと、よく話したよな」
ずっとここに居てもいいけどな。
「でも、もう行かないと」
だよな。
色も温度もない空気が宵路の顔に吹きつける。
顔を包みこむ手は、冷たくはないが温かくもない。ただしっかり骨や肌の存在を感じさせて、これが幽霊とは思えなかった。
まぶたを割る舌が熱いから、なおさらに。
あな、げにせむかたなし汝らは。また待たすとは咎な男なり。
……されど、これに一つ。此度はこれに
蕃雨太郎は、籠ノ目宵路の魂を黄泉路へ連れて行くまで、その全存在――彼が死ななかった場合の人生すべてを捧げる、という契約を交わしていた。
宵路が生還する以上、契約は不履行となる。鬼頭観音にとってみれば、得た物は半分でしかない。ならばこの魂は、まだ当分捕らえておくこととなるだろう。
心安らかにしたまへ、われは地獄の主ならねば。いつにても、汝の
せいぜい、いたづらなる命を楽しみたまへ。
眼底にぬるりと生々しい肉感が差しこまれ、跡が焼きつけられたように尾を引いた。目玉と引き換えの、生涯残る烙印だ。
自分に穿たれる、〝
離れがたさに血が騒ぎ、追ってしまえと囁く衝動を宵路は抑えつける。まだ、自分はこの世に踏みとどまって、生きなくては。
会いたい人がたくさんいる。
自分の顔など見たくもないかもしれない、両親。土砂に飲まれていった祖父母や集落の人、紫藤恵生に、渡名喜、益子、花菱。サークルのみんな。
いつか、鬼頭観音に一矢報いてやる。
無茶はするなよ。それと、ひいおじいちゃんにも、よろしく。
それが意識を失う寸前、宵路が最後に聞いた雨太郎の言葉だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます