十七、虚言妄言そこを退け、真言(まこと)が通る神の道
『みすら菩薩』の供物たるヒョウは、鬼頭観音であっても傷つけることは出来ない。だが攻撃をしのいでいれば、彼女は自ら寿命を
こちらはヒョウの命が尽きるか、諦めるか、悠々と待てば良い。
欲しいのは
そして、その時がやって来る。
※
「おためごかしはやめてくれ!」
りんの提案に、宵路は怒鳴り返した。
「僕が首を吊れば雨太郎は成仏するし、鬼頭観音も手を引く。君たちはそれで助かるだろう、目の前で死なれたら気分が悪いとか、そんな都合で振り回すな!」
「でも一瞬、ドキッとしただろが。テメーはそういうヤツだよ」
『いっしょに死んでやる』は、籠ノ目宵路にとって何よりの殺し文句だ。りんの直感は正しかったと今証明された。魔に誘われた彼を、正気に返すには充分な。
りんは近々死ぬ予定など到底ない、そのことは彼にも伝わっている。だが、それがどうした――
りんは宵路の胸ぐらをつかんだ。
「アタシは死にたくねえ! ヒョウも死なせたくねえ! そんでオマエは、傷の舐め合い仲間を探して死のうとしただけの、寂しがり屋だよ。……傷口が一人歩きしているようなモンだ。そりゃ、辛くて苦しいだろーな」
あの肝試しの夜が、彼女といる最後の一夜だなんて思ってもいなかった。別れなんていつも突然だって、引っ越しで一度別れた時に知っていたのに。
宵路はりんの手に爪を立てて、引き剥がそうとした。
「やめてくれ、黒鳥くん! 終わらせなくちゃいけないだろ。僕一人の命が、今まで死なせた人たちと釣り合うなんて思わない。でも、もう誰も殺したくない」
りんの手は石像のようにビクともしない。
「そうだ。オマエは一度だって、こいつ殺してやろうなんて思って、誰かを死なせてなんかいねえ。悪いのは邪眼だ、鬼頭観音の野郎だ!」
違う、と宵路が言いかけるのを遮って叫ぶ。縄に締めつけられた喉が痛み、声がガサつくが、それを押して言葉の形を保った。
軽く吊り上げるように、宵路の顔を無理やり上げさせる。その先には、ここにはいないはずの
「
気に食わない、我慢ならない、許してはおかない。
「それじゃオマエは一生、鬼頭観音の手のひらで踊らされただけだろうがッ!」
神は人の都合を
少なくとも、抗える限りは抗うべきだと、彼女は考えていた。だが。
「いいよ。もう手遅れだ」
するりと、宵路はりんから離れた。胸ぐらを掴んでいたはずの手は、ふいに血が通わなくなって、力が入らない。
見れば、弾き飛ばされていた血まみれの亡霊が戻ってきて、宵路に寄りそう。
「今、僕にとって大事なのは、雨太郎のことだけだから」
「宵路、宵路、もう俺を置いていくなよ。いっしょに逝こう」
両者が互いに手を握り合わせるのを見て、りんは舌打ちした。
「あぁ、心中する約束でもしたか? で、失敗してそいつだけ死んじまった、と」
「そうだ。あの夏の日、落ちこんだわけでも胸が張り裂けそうだった訳でもない。ただ……何もかも面倒になって、いっしょだって言ってくれた蕃を、道連れにした」
説明しながら、宵路は我ながらちぐはぐな言葉だと思う。
蕃雨太郎と出会って、告白されて、
「邪眼なんてなくても、周りを死に追いやる奴だ。生きてていい
「でもな……アタシは、アンタに呪いから解かれて生きて欲しいんだ」
呪う力があることと、呪う心はまた別のものだ。自分自身の心を呪いで縛った時、その力は己にも牙を剥く。ならば、そんな力はない方が良い。
「君はそう思っても、別の誰かは、僕を呪い殺したいじゃないか」
痛いところを突かれた。入交ハツネが「ご祈祷」という名目で籠ノ目宵路を呪詛し、失敗して命を落としたのは言い訳のしようがない事実だ。
(言い訳のしようがない事実?)
ふ、とりんは視界の右上に揺れる
最初に彼と話した時は、偽者の『蕃雨太郎』が同行していた。『蕃』=鬼頭観音が宵路を追い詰めたかったならば、あの場でもっとペラペラ話していたはずだ。
昨夜、自分たちがスマホを通じて話したのは、本当に今永氏だったのか?
「ヒョ――ウ――!!」
深呼吸を二度、三度、りんは闇に向かって叫んだ。
「聞けヒョウ! よく考えろ! オマエが話した叔母ちゃんは本物か? 昨日アタシが話した今永の校長みたいに!」
『蕃』と宵路が社を訪れた時、周囲に集まってきたのは〝青い影〟だった。
嘘をつく青い影だ。
アイツらはいったい何の〝嘘〟をついた?
「ハツネばあちゃんは、人を呪い殺しちまえなんて、そんなことしねえだろ! オマエなら、生きているかどうか、分かるはずだ!」
ふぅ――っ、と温度も色もない吐息が、りんの首元にかかる。雨太郎が白く濁った眼で睨み、威嚇していた。生々しい血の臭いが、亡霊から漂ってくる。
だが、それだけだ。
死者の姿を見るのは辛い。上で吊されている恵生たちの姿も、怪異に無念を利用されるこの少年も。こんな風に、屍をさらされて良いものではないのだから。
背後から気配を感じたかと思えば、ヒョウがもたれかかってきた。りんの腰に手を回し、荒い息を吐きながら玉の汗を滴らせる。
「は、は、は、」と犬の吐息のように、少女は笑っていた。自嘲の笑いだ。
「アホやなあ、オレ。こんな、カンタンな……っ、頭に、血ィ上って……」
「それより、自分の心配しろよ。……なあ、ヒョウ。ハツネばあちゃんは、そもそも〝籠ノ目宵路を〟呪詛していたと思うか?」
「……ばっちゃは、『籠ノ目の兄さんを呪詛しておった』って言わはった。神さんがそう言うたから……遠回しに、鬼頭観音を狙ってたんやと思う」
「だろーな」
りんは雨太郎に視線を合わせた。死の瞬間から永劫、夢を見る魂の窓。
「オマエも知ってたんじゃねえのか、蕃雨太郎。ハツネばあちゃんはオマエや、鬼頭観音の方に狙いをつけていた。邪眼に見つからねえ範囲で、な」
雨太郎は奇妙な声を出した。いや、声と言うよりも、喉を通るただの風に近い。岩窟の中にこだまする、ひんやりとした響きの寒風だ。
「誰もコイツを、死んじまえなんて思ってねえんだ」
「――宵路、宵路、頼む、俺から逃げないでくれ」
「雨太郎」と宵路がすがりつく亡霊に呼びかける。「思い出したよ」
悲鳴が上がった。偽りもまやかしも砕かれて、真実のはらわたを引きずり出され、屠られるペテンの断末魔。雨太郎はかっと両眼を見開き、大きくよろめく。
「川に遊びに行ったよな」
「嘘だ」
「暑くて暑くて、新しい汗と、乾きかけの汗が混ざって服と体に貼りつく、気持ち悪い日。一度行こうって言ったよな、虞ヶ淵に。心中候補地にだったけど」
「宵路、きみ、記憶が」
当時の新聞記事にも、宵路の証言が残っている。「川遊びに来ていた」と。それは自殺未遂を誤魔化した言葉ではなく――ただの事実だ。
カフェテリアで、恵生たち四人から口々に心中癖を責められたのも、入交ハツネの呪詛だったのだろうか? あれもまた、呪いを利用した鬼頭観音の企みではないか。
少なくとも、かの神は蕃雨太郎に関する宵路の記憶を、徹底して改ざんしていた。
「自転車を押しながら山道を進んで。淵を二人で見下ろした。『ごっこ遊びは、自分を騙す遊びだから好きだ』って。『心中ごっこでもしようか』って君は言って」
雨太郎は、ふざけて淵へ落ちる真似をして宵路をヒヤヒヤさせたものだ。一瞬、本当に彼が滑落して、一〇メートル以上もある川へ転落したらどうしようかと。
そこまで思っている最中に、雨太郎は本当に足を踏み外した。悪ふざけが過ぎるぞ、と半分怒りながら、半分怯えながら下を覗いたら。
「置いていかないって言ったじゃないか……」
こちらに手を伸ばしたような格好で、川へ沈んでいく姿が見えた。
「……だから、今度こそ離したくなかった」
亡霊は顔を覆ってすすり泣く。宵路の両眼からも、はらはらと涙が流れ落ちていた。その雫が地面を叩くころには、雨太郎の姿は闇に溶け消えてしまう。
けれど気配はあった。その向こうに潜む、鬼頭観音もまた同じ。
「あー、その、なんだ。話ついたんなら、とっとこんな所、出ようぜ」
りんにもヒョウにも、細かな事情は呑みこめない。ただ、やるべきことは分かっている。それが何の妨害もなく速やかに行えるかはともかく。
「待ってくれ」
宵路はいつしか、蛇腹が折りたためる、古いフィルムカメラを手にしていた。それが蕃の皮を被った鬼頭観音から渡された物だと、りんたちは知らない。
恵生たち四人を呪って首を吊らせたのは、宵路に宿った邪眼。彼を襲った怪奇現象の数々は、邪眼を封じようとした入交ハツネの呪詛。
「多分、こいつは」
宵路がカメラを足元に叩きつけると、金属と岩がぶつかる音がした。がつんと跳ねて転がるそれを手に持ち、何度も何度も真っ黒な地面に打ち付ける。
「〝白い影〟は、ずっと前から僕には見えていた。偽者の蕃が渡したこれが影を閉じ込めたなら、そいつは……何か、鬼頭観音に都合の悪いものだ!」
「お、おう?」
りんは理解が追いつかないまま、宵路からカメラを取り上げ、がんごんがん、と叩きつけた。写真機本体がばきりと割れ、レンズが粉々になる。
ヒョウが「馬鹿力……」とつぶやいた。
カメラの残骸から、陽炎のように揺らめくものが立ち上がる。宵路が記憶する限り、それは幼児がクレヨンで描いたような、稚拙で小柄な影だった。
しかし出てきたのは、成人の体格を持つ、上から下まで真っ白で平坦な影。
「こいつ、もしかして赤いのや青いのの仲間か?」と、りん。
「白い影、白い御幣……本来の
ヒョウがしゃべると共にりんも以前の会話を思い出す。『蕃』が言っていた〝疱瘡送り〟、三色の御幣、白がいつしか黒に変えられ歪められた。
「ひょっとして、正しく疱瘡神を送り出すための最後のピースじゃねえのか」
闇を支配する魔が、ぎちりと牙を剥かんとする。
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