十七、虚言妄言そこを退け、真言(まこと)が通る神の道

 鬼頭きとう観音とヒョウの対決は、戦いなどと呼べるものではなかった。挑みかかった彼女はそうは思わないかもしれないが、しょせん神と人の差である。

『みすら菩薩』の供物たるヒョウは、鬼頭観音であっても傷つけることは出来ない。だが攻撃をしのいでいれば、彼女は自ら寿命をまきにくべていく。


 こちらはヒョウの命が尽きるか、諦めるか、悠々と待てば良い。

 欲しいのは籠ノ目かごのめ宵路しょうじだけだ。あれにはばん雨太郎うたろうの亡霊を憑けてあるから、逃げ場のない闇の中で望みを叶えさせてやろう。


 そして、その時がやって来る。



「おためごかしはやめてくれ!」


 りんの提案に、宵路は怒鳴り返した。


が首を吊れば雨太郎は成仏するし、鬼頭観音も手を引く。君たちはそれで助かるだろう、目の前で死なれたら気分が悪いとか、そんな都合で振り回すな!」

「でも一瞬、ドキッとしただろが。テメーはそういうヤツだよ」


『いっしょに死んでやる』は、籠ノ目宵路にとって何よりの殺し文句だ。りんの直感は正しかったと今証明された。魔に誘われた彼を、正気に返すには充分な。

 りんは近々死ぬ予定など到底ない、そのことは彼にも伝わっている。だが、それがどうした――今生こんじょうのきわで己を曲げる訳にはいかない。

 りんは宵路の胸ぐらをつかんだ。


「アタシは死にたくねえ! ヒョウも死なせたくねえ! そんでオマエは、傷の舐め合い仲間を探して死のうとしただけの、寂しがり屋だよ。……傷口が一人歩きしているようなモンだ。そりゃ、辛くて苦しいだろーな」


 恵生めぐみに会いたい。

 あの肝試しの夜が、彼女といる最後の一夜だなんて思ってもいなかった。別れなんていつも突然だって、引っ越しで一度別れた時に知っていたのに。

 宵路はりんの手に爪を立てて、引き剥がそうとした。


「やめてくれ、黒鳥くん! 終わらせなくちゃいけないだろ。僕一人の命が、今まで死なせた人たちと釣り合うなんて思わない。でも、もう誰も殺したくない」


 りんの手は石像のようにビクともしない。


「そうだ。オマエは一度だって、こいつ殺してやろうなんて思って、誰かを死なせてなんかいねえ。悪いのは邪眼だ、鬼頭観音の野郎だ!」


 違う、と宵路が言いかけるのを遮って叫ぶ。縄に締めつけられた喉が痛み、声がガサつくが、それを押して言葉の形を保った。

 軽く吊り上げるように、宵路の顔を無理やり上げさせる。その先には、ここにはいないはずの縊死いしたいたちが揺れていた。


渡名喜となきも、益子ますこも、花菱はなびしも、それに恵生も! みんなこれ見よがしに吊るしやがって! あれが偽物だろうが、神仏のやることだろうが、死者を侮辱しやがって!」


 気に食わない、我慢ならない、許してはおかない。


「それじゃオマエは一生、鬼頭観音の手のひらで踊らされただけだろうがッ!」


 神は人の都合を斟酌しんしゃくしないものだ。逆らえないのは、単に力の差が大きすぎる結果であって、「神のすることだから」と何でも諦めるべきではない。

 少なくとも、抗える限りは抗うべきだと、彼女は考えていた。だが。


「いいよ。もう手遅れだ」


 するりと、宵路はりんから離れた。胸ぐらを掴んでいたはずの手は、ふいに血が通わなくなって、力が入らない。

 見れば、弾き飛ばされていた血まみれの亡霊が戻ってきて、宵路に寄りそう。


「今、僕にとって大事なのは、雨太郎のことだけだから」

「宵路、宵路、もう俺を置いていくなよ。いっしょに逝こう」


 両者が互いに手を握り合わせるのを見て、りんは舌打ちした。


「あぁ、心中する約束でもしたか? で、失敗してそいつだけ死んじまった、と」

「そうだ。あの夏の日、落ちこんだわけでも胸が張り裂けそうだった訳でもない。ただ……何もかも面倒になって、いっしょだって言ってくれた蕃を、道連れにした」


 説明しながら、宵路は我ながらちぐはぐな言葉だと思う。

 蕃雨太郎と出会って、告白されて、おそれふちへ共に落ちた。その経緯を正確にまとめ切れていないからだろう。そんな風に自分を納得させて言葉を続けた。


「邪眼なんてなくても、周りを死に追いやる奴だ。生きてていいはずがない」

「でもな……アタシは、アンタに呪いから解かれて生きて欲しいんだ」


 呪う力があることと、呪う心はまた別のものだ。自分自身の心を呪いで縛った時、その力は己にも牙を剥く。ならば、そんな力はない方が良い。


「君はそう思っても、別の誰かは、僕を呪い殺したいじゃないか」


 痛いところを突かれた。入交ハツネが「ご祈祷」という名目で籠ノ目宵路を呪詛し、失敗して命を落としたのは言い訳のしようがない事実だ。


?)


 ふ、とりんは視界の右上に揺れる今永いまなが氏の首吊り死体に焦点を合わせる。

 最初に彼と話した時は、偽者の『蕃雨太郎』が同行していた。『蕃』=鬼頭観音が宵路を追い詰めたかったならば、あの場でもっとペラペラ話していたはずだ。


 昨夜、自分たちがスマホを通じて話したのは、本当に今永氏だったのか?


「ヒョ――ウ――!!」


 深呼吸を二度、三度、りんは闇に向かって叫んだ。


「聞けヒョウ! よく考えろ! オマエが話した叔母ちゃんは本物か? 昨日アタシが話した今永の校長みたいに!」


『蕃』と宵路が社を訪れた時、周囲に集まってきたのは〝青い影〟だった。

 嘘をつく青い影だ。

 アイツらはいったい何の〝嘘〟をついた?


「ハツネばあちゃんは、人を呪い殺しちまえなんて、そんなことしねえだろ! オマエなら、生きているかどうか、分かるはずだ!」


 ふぅ――っ、と温度も色もない吐息が、りんの首元にかかる。雨太郎が白く濁った眼で睨み、威嚇していた。生々しい血の臭いが、亡霊から漂ってくる。

 だが、それだけだ。

 死者の姿を見るのは辛い。上で吊されている恵生たちの姿も、怪異に無念を利用されるこの少年も。こんな風に、屍をさらされて良いものではないのだから。


 背後から気配を感じたかと思えば、ヒョウがもたれかかってきた。りんの腰に手を回し、荒い息を吐きながら玉の汗を滴らせる。

「は、は、は、」と犬の吐息のように、少女は笑っていた。自嘲の笑いだ。


「アホやなあ、オレ。こんな、カンタンな……っ、頭に、血ィ上って……」

「それより、自分の心配しろよ。……なあ、ヒョウ。ハツネばあちゃんは、そもそも〝籠ノ目宵路を〟呪詛していたと思うか?」

「……ばっちゃは、『籠ノ目の兄さんを呪詛しておった』って言わはった。神さんがそう言うたから……遠回しに、鬼頭観音を狙ってたんやと思う」

「だろーな」


 りんは雨太郎に視線を合わせた。死の瞬間から永劫、夢を見る魂の窓。


「オマエも知ってたんじゃねえのか、蕃雨太郎。ハツネばあちゃんはオマエや、鬼頭観音の方に狙いをつけていた。邪眼に見つからねえ範囲で、な」


 雨太郎は奇妙な声を出した。いや、声と言うよりも、喉を通るただの風に近い。岩窟の中にこだまする、ひんやりとした響きの寒風だ。


「誰もコイツを、死んじまえなんて思ってねえんだ」

「――宵路、宵路、頼む、俺から逃げないでくれ」


「雨太郎」と宵路がすがりつく亡霊に呼びかける。「思い出したよ」

 悲鳴が上がった。偽りもまやかしも砕かれて、真実のはらわたを引きずり出され、屠られるペテンの断末魔。雨太郎はかっと両眼を見開き、大きくよろめく。


「川に遊びに行ったよな」

「嘘だ」

「暑くて暑くて、新しい汗と、乾きかけの汗が混ざって服と体に貼りつく、気持ち悪い日。一度行こうって言ったよな、虞ヶ淵に。心中候補地にだったけど」

「宵路、きみ、記憶が」


 当時の新聞記事にも、宵路の証言が残っている。「川遊びに来ていた」と。それは自殺未遂を誤魔化した言葉ではなく――ただの事実だ。


 カフェテリアで、恵生たち四人から口々に心中癖を責められたのも、入交ハツネの呪詛だったのだろうか? あれもまた、呪いを利用した鬼頭観音の企みではないか。

 少なくとも、かの神は蕃雨太郎に関する宵路の記憶を、徹底して改ざんしていた。


「自転車を押しながら山道を進んで。淵を二人で見下ろした。『ごっこ遊びは、自分を騙す遊びだから好きだ』って。『心中ごっこでもしようか』って君は言って」


 雨太郎は、ふざけて淵へ落ちる真似をして宵路をヒヤヒヤさせたものだ。一瞬、本当に彼が滑落して、一〇メートル以上もある川へ転落したらどうしようかと。

 そこまで思っている最中に、雨太郎は本当に足を踏み外した。悪ふざけが過ぎるぞ、と半分怒りながら、半分怯えながら下を覗いたら。


「置いていかないって言ったじゃないか……」


 こちらに手を伸ばしたような格好で、川へ沈んでいく姿が見えた。


「……だから、今度こそ離したくなかった」


 亡霊は顔を覆ってすすり泣く。宵路の両眼からも、はらはらと涙が流れ落ちていた。その雫が地面を叩くころには、雨太郎の姿は闇に溶け消えてしまう。

 けれど気配はあった。その向こうに潜む、鬼頭観音もまた同じ。


「あー、その、なんだ。話ついたんなら、とっとこんな所、出ようぜ」


 りんにもヒョウにも、細かな事情は呑みこめない。ただ、やるべきことは分かっている。それが何の妨害もなく速やかに行えるかはともかく。


「待ってくれ」


 宵路はいつしか、蛇腹が折りたためる、古いフィルムカメラを手にしていた。それが蕃の皮を被った鬼頭観音から渡された物だと、りんたちは知らない。

 恵生たち四人を呪って首を吊らせたのは、宵路に宿った邪眼。彼を襲った怪奇現象の数々は、邪眼を封じようとした入交ハツネの呪詛。


「多分、こいつは」


 宵路がカメラを足元に叩きつけると、金属と岩がぶつかる音がした。がつんと跳ねて転がるそれを手に持ち、何度も何度も真っ黒な地面に打ち付ける。


「〝白い影〟は、ずっと前から僕には見えていた。偽者の蕃が渡したこれが影を閉じ込めたなら、そいつは……何か、鬼頭観音に都合の悪いものだ!」

「お、おう?」


 りんは理解が追いつかないまま、宵路からカメラを取り上げ、がんごんがん、と叩きつけた。写真機本体がばきりと割れ、レンズが粉々になる。

 ヒョウが「馬鹿力……」とつぶやいた。


 カメラの残骸から、陽炎のように揺らめくものが立ち上がる。宵路が記憶する限り、それは幼児がクレヨンで描いたような、稚拙で小柄な影だった。

 しかし出てきたのは、成人の体格を持つ、上から下まで真っ白で平坦な影。


「こいつ、もしかして赤いのや青いのの仲間か?」と、りん。

「白い影、白い御幣……本来の疱瘡ほうそうがみ……」


 ヒョウがしゃべると共にりんも以前の会話を思い出す。『蕃』が言っていた〝疱瘡送り〟、三色の御幣、白がいつしか黒に変えられ歪められた。


「ひょっとして、正しく疱瘡神を送り出すための最後のピースじゃねえのか」


 闇を支配する魔が、ぎちりと牙を剥かんとする。

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