七つ目の呪いは成就した
十六、生きることすべて危(あや)待ちならば
「さるほどに、われらも行かむや」
「うん」
宵路の表情もまた晴れやかだ。彼は雨太郎と手をつないで鳥居をくぐり、『蕃』に先導されるがまま拝殿へ向かって、その闇へと吸い込まれた。
残されたのは、石段から突き落とされたヒョウだけだ。義手を盾に頭を守ったが、腕やら膝やらを打ち付けてひどく痛む。だが、
「
石段を駆け上りながら叫ぶが、廃集落の社に応えるものはない。りんと宵路、そして死者の皮を被ったあの化け物がどこへ行ったのか、ヒョウは直感で看破する。
そこは鬼頭観音の封土、つまり敵地のまっただ中だ。挑むのは得策ではないが、手をこまねいていれば、祖母と
「……
なりふり構わず、ヒョウは自らの神へ助力を願い
「悪しきを払うて、どうぞ、息災を願いたてまつる。南無、
幽冥大神、あるいは弥釈羅菩薩と入交の者は呼んでいるが、その真名は恐ろしくて口に出すことも、思い浮かべることもはばかられた。
「南無みすら菩薩、南無みすら菩薩、南無みすら菩薩!!」
『蕃』がヒョウを石段から突き落としたのは、りんと同じように自分の元へ引きずり込めば、より巨大な神の怒りを買うと知っていたからだ。
石像を壊させたのは、それに封じられていたから。
宵路を狙ったのは、邪眼を彼に与えていたから。取り戻さねば、少なくとも『蕃』は鬼頭観音として十全な力を発揮できないのだろう。
花嫁と言えば聞こえがいいが、ようは神への人身御供。
すでにヒョウの余命は十年を切り、死後は神の元に囚われ続ける身の上だ。その運命に抗う方法を、彼女たちはずっと探している。
先ほど無理やり『蕃』の正体を見破ったのも、貴重な寿命を削ってやっとだ。だが、ヒョウはここでおめおめと、自分だけ生きて帰るつもりはなかった。
果たして邪神は応えたか! 崩れ落ちた拝殿の残骸がカタカタと震えだし、ゆっくりと瓦礫が立ち上がって
「あんざしおす、ふくれずほぐ、みさしざみさし、ふくれずまい。だんだんしめい、だんひけい、がんたびぎおん、りさんきひぢん。おざさをん、うんてぞ、だんだんみさし、ををん、めぬせい、ほねぐづ、をん、だんだんざみ、たんざりかん」
何度も手と指を組みかえて複雑な印を結びながら、ヒョウは闇へと進んだ。小さな体を包みこむのは光ではなく、鬼頭観音の封土よりなお黒い
天も地も西も東もない、宇宙のような空間にまず首を吊された人間が見えた。若い男と女、老人……あれは
(昨日、姐さんが話したこのじいさんは、本人やったんやろか)
鬼頭観音の本尊を壊せと言ったのは、ほかならぬ今永氏だ。結果を見れば、彼は操られて嘘を吹き込んだ可能性が高い。しかし、今は考えても
りんはすぐ見つかった。首を吊られながら、顔を真っ赤にして抗っている。口からだらしなく唾液を垂らし、ひゅー、ひゅー、と小さく呼吸をくり返している。
『蕃』が苦々しい顔でヒョウを振り返った。
「嫁御前!
「んはりだんざ、りだんざんざん、うつぜくそ、いめつぜん、うあ、りらびんざんざ、そぜんをん、うらたあん、じきしんかしん、をひりだんざ、いせきんざ、いめきんざんざ、いめつめくそ、りらびやりらび、くそつめくそん、をりたんあ」
一歩も引かぬ姿勢で、花嫁に選ばれてしまった少女はより声高く
酸素欠乏の脳はほとんどマトモに動いておらず、わずかに許された最小限の動きで、吸っては吐くに集中しなければならない。
頭の上でぶつんと破断する音がして、不意にりんは地べたに投げ出された。きつく締め上げられた気管や血管が解放されて、酸素と血と熱ともろもろが頭へ上る。
えずきか咳か悲鳴か分からないグチャグチャの音声を
それでも、自分は生きているし、助かった。ヒョウが、神から借りた霊力を発揮しているから――文字通り命と引き換えに。
やめろと叫ぼうとして口を開くが、喉が裂けそうな咳ばかりだ。
「かりざんた、みざんだんだん、を、づぐねほ、いせぬめん、をを、しさみんだんだ、ぞてんうん、をざざおん。ぢひきんさりん、おぎびたんが、いけひんだ、いめしんだんだ。いまずれくふ、しさみざしさみ、ぐほずれくふ、すおしざんあん」
いつしか、ヒョウも『蕃』も闇の中に姿が消えて、少女の声とそれに抗う巨大な気配だけがきんきんと響いていた。
これまで、神の筆先がヒョウから邪眼のことを隠そうとしていたのは、花嫁に万一にも危害が及ぶ可能性があったからだ。遅れを取れば、きっとここで命を落とす。
鬼頭観音がヒョウを殺すか、観音を
出したくなかった奥の手が、祖母の死という事態によって発動してしまった。まだ血の巡りが良くない頭で、りんは必死に解決策を探す。
(そうだ、ヨミチ。あの野郎はどこだ?)
青年は思いのほか近くで首を吊っていた。
その傍らに、血みどろの少年が同じようにぶら下がっている。口からあふれ、あるいは髪の毛先から滴る鉄錆の臭いが、ぱたぱたと闇色の地面を叩いていた。
少年はどこからどう見ても死体だ。交通事故か、高所からの落下か、頭をものすごい力で打たれて、その勢いで体全体がねじ曲がり、よじれて見える。
塩気のある金属臭さに、少し脂が浮いて感じられるのは、濃すぎる血の臭いが舌の上にまで像を結ぼうとしているからだ。オマケに吐き気を後押しする腐臭。
古ぼけた草刈り鎌を拾って、りんはふらふらしながら立ち上がった。さっきまでこんな物はなかったが、使えそうなら使うまでだ。
真っ暗な足下は本当に地面があるかも怪しかったが、無視して走り出す。すると、足裏や三半規管が、どうやら急激な坂であることを伝えてきた。
宵路の元まで数メートル、傾斜のおかげで背伸びをしなくても彼の首を吊る縄に鎌が届く。鎌といいあまりにも都合が良いが、これもヒョウの助けか。
(バカ野郎、無茶すんな、っつったろうが!)
今も鬼頭観音とヒョウは戦っているのだろう。
神と人とは普通争いになるものではないが、普通ではないことを神に助けを請うてやっている。代償はどれほどのものになるのか、想像することもできなかった。
りんは草刈り鎌で宵路を吊る縄を引っかけ、たぐり寄せた。腕で固定してのこ引きに鎌を動かすと、ギザ刃の一つ一つが繊維に絡み、よく切れる。
半ばまで刃が進んだところで、ぐぐぐ、と少年が顔を上げた。
顔の半分は痣でどす黒く変色して元の肌色が分からず、その上を頭頂や口から流れる血の川が流れ落ちていく。けれど、流れは固まることも染めることもない。
りんはようやく、少年の体がびっしょり濡れていることに気がついた。
(さてはコイツ、川に飛びこんで石か何かで頭を打ったな)
その霊がなぜ宵路にまとわりついているのか、事情は知らない。ただ、少年がそのような形で不本意な死を遂げた、本物の蕃雨太郎なのだろう。
雨太郎少年は首に縄をつけたまま、ふわりと浮かんで襲いかかった。冷たすぎて冷たくない、ドライアイスのような手がむき出しの腕を焼く。
ふうっと温度のない風と共にそれは口をきいた。
「邪魔を、するなよ」
呼吸を必要としない生き物が、わざわざ喉と
「っ、痛ぇなコラ! 離せよ!」
鬼頭観音の領域たるここは、現世ではない。だから死者の霊が生者に手を触れ、なんなら言葉を交わすことも出来るのだろう。
ばちん! と医療ドラマで見た電気ショックのような音がして、雨太郎が吹き飛ばされた。ヒョウの援護かと思いながら腕を動かし、ついに宵路のロープを切る。
どさりと落ちた体を追って、りんも坂のてっぺんを飛び降りた。首にかかった縄輪を取り外し、呼吸と心音を確認する。どちらもある。
運転免許の時に受けた救命講習では、「普段どおりの呼吸」かどうか分からない場合も、胸骨圧迫を開始せよと教わった。
「起きろヨミチ! 勝手に死んでんじゃねえぞ!」
心臓マッサージなど正確な手順を覚えているか自信がないが、宵路には一刻も早く回復してもらわねばならない。この際、あばらが折れようか知ったことか。
人工呼吸の手順を思い出しながら、りんは自分で思っていたよりもちゃんとした救命措置を行った。その甲斐あって、宵路が咳き込みながら体を丸める。
意識を取り戻すと、恨みがましい眼がりんを睨みつけた。
まだしばらく、口はきけないだろう。りんだって喉がガサガサしていて、ちゃんと声が出ているか分からない。さっきは思わず雨太郎に叫んだけれども。
「ここを出るぞ。てめぇに拒否権はねえからな。ヒョウの命がかかってんだ」
腕をつかむと、力が入らないなりに、宵路は抵抗した。立ち上がりこそしたが、それはこちらについて来るためではなく、離れるためだ。
目の前の相手に、自分はどんな言葉をかけられるだろう。
事実として鬼頭観音は存在し、
今永氏だって、りんは嫌いなタイプだが、死んで良いとまでは思っていない。
ことによると、宵路の母が病死したのも、彼の邪眼に影響されたのではないか。口に出す気はないが、彼が同じ考えに至っていてもおかしくない。
原因と責任は別のものだ。宵路に殺人の罪を問うことはできない。
けれど、入交ハツネの呪詛と、呪詛返しで命を落としたという事実が待ったをかける。りんもヒョウも知らなかったこととはいえ、弁解の余地はない。
(アタシは、コイツにどうして欲しいんだ?)
あの肝試しの夜、初めて顔を合わせた宵路は、おとなしそうなヤツ、程度の印象だった。恵生の葬儀で再会した時は恐ろしく暗く澄んでいて、正直ゾッとした。
いかにもひ弱で、寂しげで、辛気くさい。生き
だがそんな誘惑に乗った者から、いつしか同じように自分を
死神のような魅力に気づいた人間は、せめて彼と命を共にしようとする。心中を遂げるのが至上の幸せであるかのように、痛みも苦しみも曖昧になって。
邪眼が彼にそうさせたのか、どうかは分からない。分かるのは、籠ノ目宵路を鬼頭観音と、亡霊から引き剥がさなくてはならないということ。
罪がないことを訴えても、呪詛の件を詫びても彼には響くまい。なら。
「ヨミチ。アタシがいっしょに死んでやろうか」
共に傷を舐め合うことが、お前の欲しいものだろう?
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