七つ目の呪いは成就した

十六、生きることすべて危(あや)待ちならば

 はたから見れば、りんは廃墟の下へ放りこまれたように見えたかもしれない。『ばん』は満足げに手を払い、に向かって微笑みかけた。


「さるほどに、われらも行かむや」

「うん」


 宵路しょうじの手は、高校生のまま時を止めた雨太郎うたろうと固く握り合わされている。少年の顔は青黒いあざと血にまみれていたが、ニコニコと楽しそうに笑っていた。

 宵路の表情もまた晴れやかだ。彼は雨太郎と手をつないで鳥居をくぐり、『蕃』に先導されるがまま拝殿へ向かって、その闇へと吸い込まれた。


 残されたのは、石段から突き落とされたヒョウだけだ。義手を盾に頭を守ったが、腕やら膝やらを打ち付けてひどく痛む。だが、いて立ち上がった。


鬼頭きとう観音!」


 石段を駆け上りながら叫ぶが、廃集落の社に応えるものはない。りんと宵路、そして死者の皮を被ったあの化け物がどこへ行ったのか、ヒョウは直感で看破する。

 そこは鬼頭観音の封土、つまり敵地のまっただ中だ。挑むのは得策ではないが、手をこまねいていれば、祖母と恵生めぐみの仇討ちはおそか、りんまで見殺しにしてしまう。


「……んだ花がご神慮しんりょ


 なりふり構わず、ヒョウは自らの神へ助力を願いうた。


「悪しきを払うて、どうぞ、息災を願いたてまつる。南無、霊幸倍たまちはえませ。南無、幽冥かくりよ大神おほみかみ、南無、みすら菩薩、南無みすら菩薩、南無みすら菩薩、南無みすら菩薩!」


 入交いりまじり家は、数百年前にその神と縁を切って野へと下った。しかし、神にとって氏子の事情などささいなことか、十歳の時ヒョウに白羽の矢が立ってしまう。

 幽冥大神、あるいは弥釈羅菩薩と入交の者は呼んでいるが、その真名は恐ろしくて口に出すことも、思い浮かべることもはばかられた。


「南無みすら菩薩、南無みすら菩薩、南無みすら菩薩!!」


『蕃』がヒョウを石段から突き落としたのは、りんと同じように自分の元へ引きずり込めば、より巨大な神の怒りを買うと知っていたからだ。

 石像を壊させたのは、それに封じられていたから。

 宵路を狙ったのは、邪眼を彼に与えていたから。取り戻さねば、少なくとも『蕃』は鬼頭観音として十全な力を発揮できないのだろう。


 花嫁と言えば聞こえがいいが、ようは神への人身御供。

 すでにヒョウの余命は十年を切り、死後は神の元に囚われ続ける身の上だ。その運命に抗う方法を、彼女たちはずっと探している。


 先ほど無理やり『蕃』の正体を見破ったのも、貴重な寿命を削ってやっとだ。だが、ヒョウはここでおめおめと、自分だけ生きて帰るつもりはなかった。

 果たして邪神は応えたか! 崩れ落ちた拝殿の残骸がカタカタと震えだし、ゆっくりと瓦礫が立ち上がってほらを作り出す。その先は何も見通せない真の闇。


「あんざしおす、ふくれずほぐ、みさしざみさし、ふくれずまい。だんだんしめい、だんひけい、がんたびぎおん、りさんきひぢん。おざさをん、うんてぞ、だんだんみさし、ををん、めぬせい、ほねぐづ、をん、だんだんざみ、たんざりかん」


 何度も手と指を組みかえて複雑な印を結びながら、ヒョウは闇へと進んだ。小さな体を包みこむのは光ではなく、鬼頭観音の封土よりなお黒い常闇とこやみ

 天も地も西も東もない、宇宙のような空間にまず首を吊された人間が見えた。若い男と女、老人……あれは今永いまなが氏だ。いったいいつから?


(昨日、姐さんが話したこのじいさんは、本人やったんやろか)


 鬼頭観音の本尊を壊せと言ったのは、ほかならぬ今永氏だ。結果を見れば、彼は操られて嘘を吹き込んだ可能性が高い。しかし、今は考えてもせんなし。

 りんはすぐ見つかった。首を吊られながら、顔を真っ赤にして抗っている。口からだらしなく唾液を垂らし、ひゅー、ひゅー、と小さく呼吸をくり返している。

『蕃』が苦々しい顔でヒョウを振り返った。


「嫁御前! などなぜ帰らざりき、なんぢ如何いかがかくせまほしくはあらず」

「んはりだんざ、りだんざんざん、うつぜくそ、いめつぜん、うあ、りらびんざんざ、そぜんをん、うらたあん、じきしんかしん、をひりだんざ、いせきんざ、いめきんざんざ、いめつめくそ、りらびやりらび、くそつめくそん、をりたんあ」


 一歩も引かぬ姿勢で、花嫁に選ばれてしまった少女はより声高くしゅを唱える。その奉唱を、りんはおぼろげに聞いた。

 酸素欠乏の脳はほとんどマトモに動いておらず、わずかに許された最小限の動きで、吸っては吐くに集中しなければならない。


 頭の上でぶつんと破断する音がして、不意にりんは地べたに投げ出された。きつく締め上げられた気管や血管が解放されて、酸素と血と熱ともろもろが頭へ上る。

 えずきか咳か悲鳴か分からないグチャグチャの音声を吐瀉としゃし、涙を流しながらりんはしばらく呼吸を整えた。ぐらぐらと目眩がするし、頭にバケツをかぶせられて、ガンガンと金槌で叩かれているような頭痛で、とても立ち上がれない。


 それでも、自分は生きているし、助かった。ヒョウが、神から借りた霊力を発揮しているから――文字通り命と引き換えに。

 やめろと叫ぼうとして口を開くが、喉が裂けそうな咳ばかりだ。


「かりざんた、みざんだんだん、を、づぐねほ、いせぬめん、をを、しさみんだんだ、ぞてんうん、をざざおん。ぢひきんさりん、おぎびたんが、いけひんだ、いめしんだんだ。いまずれくふ、しさみざしさみ、ぐほずれくふ、すおしざんあん」


 いつしか、ヒョウも『蕃』も闇の中に姿が消えて、少女の声とそれに抗う巨大な気配だけがきんきんと響いていた。

 これまで、神の筆先がヒョウから邪眼のことを隠そうとしていたのは、花嫁に万一にも危害が及ぶ可能性があったからだ。遅れを取れば、きっとここで命を落とす。


 鬼頭観音がヒョウを殺すか、観音を調伏ちょうぶくしたヒョウが早々に邪神の元へ召し上げられるか。いずれにせよ、彼女の運命はどん詰まりへ入ろうとしている。

 出したくなかった奥の手が、祖母の死という事態によって発動してしまった。まだ血の巡りが良くない頭で、りんは必死に解決策を探す。


(そうだ、ヨミチ。あの野郎はどこだ?)


 青年は思いのほか近くで首を吊っていた。

 その傍らに、血みどろの少年が同じようにぶら下がっている。口からあふれ、あるいは髪の毛先から滴る鉄錆の臭いが、ぱたぱたと闇色の地面を叩いていた。


 少年はどこからどう見ても死体だ。交通事故か、高所からの落下か、頭をものすごい力で打たれて、その勢いで体全体がねじ曲がり、よじれて見える。

 塩気のある金属臭さに、少し脂が浮いて感じられるのは、濃すぎる血の臭いが舌の上にまで像を結ぼうとしているからだ。オマケに吐き気を後押しする腐臭。


 古ぼけた草刈り鎌を拾って、りんはふらふらしながら立ち上がった。さっきまでこんな物はなかったが、使えそうなら使うまでだ。

 真っ暗な足下は本当に地面があるかも怪しかったが、無視して走り出す。すると、足裏や三半規管が、どうやら急激な坂であることを伝えてきた。


 宵路の元まで数メートル、傾斜のおかげで背伸びをしなくても彼の首を吊る縄に鎌が届く。鎌といいあまりにも都合が良いが、これもヒョウの助けか。


(バカ野郎、無茶すんな、っつったろうが!)


 今も鬼頭観音とヒョウは戦っているのだろう。

 神と人とは普通争いになるものではないが、普通ではないことを神に助けを請うてやっている。代償はどれほどのものになるのか、想像することもできなかった。


 りんは草刈り鎌で宵路を吊る縄を引っかけ、たぐり寄せた。腕で固定してのこ引きに鎌を動かすと、ギザ刃の一つ一つが繊維に絡み、よく切れる。

 半ばまで刃が進んだところで、ぐぐぐ、と少年が顔を上げた。


 顔の半分は痣でどす黒く変色して元の肌色が分からず、その上を頭頂や口から流れる血の川が流れ落ちていく。けれど、流れは固まることも染めることもない。

 りんはようやく、少年の体がびっしょり濡れていることに気がついた。


(さてはコイツ、川に飛びこんで石か何かで頭を打ったな)


 その霊がなぜ宵路にまとわりついているのか、事情は知らない。ただ、少年がそのような形で不本意な死を遂げた、本物の蕃雨太郎なのだろう。

 雨太郎少年は首に縄をつけたまま、ふわりと浮かんで襲いかかった。冷たすぎて冷たくない、ドライアイスのような手がむき出しの腕を焼く。

 ふうっと温度のない風と共にそれは口をきいた。


「邪魔を、するなよ」


 呼吸を必要としない生き物が、わざわざ喉と口腔こうこうに空気を招き入れて、人語に似せたような嘘くさいしゃべり方だ。機械合成ともまた違う、非人間性があった。


「っ、痛ぇなコラ! 離せよ!」


 鬼頭観音の領域たるここは、現世ではない。だから死者の霊が生者に手を触れ、なんなら言葉を交わすことも出来るのだろう。

 ばちん! と医療ドラマで見た電気ショックのような音がして、雨太郎が吹き飛ばされた。ヒョウの援護かと思いながら腕を動かし、ついに宵路のロープを切る。


 どさりと落ちた体を追って、りんも坂のてっぺんを飛び降りた。首にかかった縄輪を取り外し、呼吸と心音を確認する。どちらもある。

 運転免許の時に受けた救命講習では、「普段どおりの呼吸」かどうか分からない場合も、胸骨圧迫を開始せよと教わった。


「起きろヨミチ! 勝手に死んでんじゃねえぞ!」


 心臓マッサージなど正確な手順を覚えているか自信がないが、宵路には一刻も早く回復してもらわねばならない。この際、あばらが折れようか知ったことか。

 人工呼吸の手順を思い出しながら、りんは自分で思っていたよりもちゃんとした救命措置を行った。その甲斐あって、宵路が咳き込みながら体を丸める。


 意識を取り戻すと、恨みがましい眼がりんを睨みつけた。

 まだしばらく、口はきけないだろう。りんだって喉がガサガサしていて、ちゃんと声が出ているか分からない。さっきは思わず雨太郎に叫んだけれども。


「ここを出るぞ。てめぇに拒否権はねえからな。ヒョウの命がかかってんだ」


 腕をつかむと、力が入らないなりに、宵路は抵抗した。立ち上がりこそしたが、それはこちらについて来るためではなく、離れるためだ。

 目の前の相手に、自分はどんな言葉をかけられるだろう。


 事実として鬼頭観音は存在し、籠ノ目かごのめ宵路は自分でも知らず知らずのうちに邪眼を行使していた。最初に首吊りで死んだ四人の姿が、ここに現れたのがいい証拠だ。

 今永氏だって、りんは嫌いなタイプだが、死んで良いとまでは思っていない。

 ことによると、宵路の母が病死したのも、彼の邪眼に影響されたのではないか。口に出す気はないが、彼が同じ考えに至っていてもおかしくない。


 原因と責任は別のものだ。宵路に殺人の罪を問うことはできない。

 けれど、入交ハツネの呪詛と、呪詛返しで命を落としたという事実が待ったをかける。りんもヒョウも知らなかったこととはいえ、弁解の余地はない。


(アタシは、コイツにどうして欲しいんだ?)


 あの肝試しの夜、初めて顔を合わせた宵路は、おとなしそうなヤツ、程度の印象だった。恵生の葬儀で再会した時は恐ろしく暗く澄んでいて、正直ゾッとした。

 いかにもひ弱で、寂しげで、辛気くさい。生きあぐんですり切れた雰囲気は、一つの傷口のようだ。見ていると指を突っこんで、かき回して、血を流させたくなる。


 だがそんな誘惑に乗った者から、いつしか同じように自分をあやめて傷口をこじ開け、最後には命を手放してしまうのだ。

 死神のような魅力に気づいた人間は、せめて彼と命を共にしようとする。心中を遂げるのが至上の幸せであるかのように、痛みも苦しみも曖昧になって。


 邪眼が彼にそうさせたのか、どうかは分からない。分かるのは、籠ノ目宵路を鬼頭観音と、亡霊から引き剥がさなくてはならないということ。

 罪がないことを訴えても、呪詛の件を詫びても彼には響くまい。なら。


「ヨミチ。アタシがいっしょに死んでやろうか」


 共に傷を舐め合うことが、お前の欲しいものだろう?

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