十五、さだかならぬ闇へ
「どっせーいッ!!」
鎮守の森から差しこむ日差しが、地面に青葉の影を描く。
石畳に置いた
「……捨てられた神さんも、こうなると可哀想やなあ」
「なむなむ」りんは合掌して拝んだ。「人が居なくなったんだ、しょうがねえよ」
二つ目の鬼頭観音像からも、ヒョウは何ら霊的な気配を感じなかった。これを破壊することで、本当に邪眼の源は断ち切られるのかは怪しいところだ、と。
二人で話し合ったが、
例えばこれが何かの封印で、もっと悪いものが出てくるとして、今永氏に今さら何の得があるのか。それを精査する時間は、彼女たちにはもはやなかった。
最悪の場合に「奥の手」がないわけではないが……。それは本当に使いたくない、使ってはいけない手段だ。りんは背後の社を振り返った。
倒壊せず残った鳥居の向こうに、ぺしゃんこに潰れた拝殿が見える。社務所らしき建物は見えないが、おそらく境内の右手側を不自然に覆う土砂の下だろう。
「で、この石どうするよ、ヒョウ」
「いつもやったら、ばっちゃにご祈祷してもろてるけど……」
ヒョウの祖母、ハツネは入院中で、叔母に様子を見てもらっている。邪眼そのものではなく呪詛返しに倒れたなら、鬼頭観音を止めても快方には向かわないはずだ。
「おぉ~~い」
あくびが出るほど
夏の日差しにもくっきりと褐色の肌が浮かび上がる美丈夫は、
「
ニヤリと笑いながらりんはタバコを取り出した。宵路が再び動けるようになったので、少し安心する。後は彼の邪眼がどうなるかだ。
男たちが石段を上ってくると、スマホの通知音がした。
「叔母ちゃん?」
今の世の中はどこにでも基地局があって、電波が入るものだ。ヒョウが通話している間に、宵路と蕃は木漏れ日を受け止めながら近づいてくる。
「あ」
石段をアーケードのように覆う木々は、アカガシ 、ツクバネガシ 、シラカシといった樫の仲間だ。その間間に、青い影が見える。
ここへ来る途中、集落のあちこちで見かけた赤い影、黒い影の同類だ。
形は確かに人間だが、目も鼻も口もないのっぺらぼうで、頭の先から足のつま先まで不気味に青い。
〝嘘をつく青い影は見えない。
手を振る赤い影は見えない。
通り過ぎる黒い影は見えない〟
最初にヒョウが宵路を読んだ時に出た文言、彼が見鬼と呼ばれた幼いころから見ていたもの。あの影たちは、何の「嘘をついて」いるのだろう?
「すごいね、あれ。どうしたんだい? 黒鳥くん」
宵路が石段の上へ到着した。
「ん、ああ手形か。うじゃうじゃ妙なのに絡まれたんだよ」
「
桟俵とは、いわゆる米俵の両端の部分である。
図書館で皨集落を調べた時、りんもその話は読んだ覚えがあった。とうとうと語り出す蕃をいつもの癖かと流しかけ、はたと違和感を覚える。
「ヨミチが持っていたお守りは疱瘡除けだったけど、その話オマエにしたっけ?」
「御幣の色は、最初は赤、白、青だった」
スルーすんなよと思いながら、りんは「白?」と聞き返した。
「今は赤、黒、青だ。疱瘡神を福の神として捕らえるため、儀礼は歪められた。何、御幣の色一つで走っている式が変わるものでもないがね。悪意は確かにあった」
黒といえば喪のイメージがあるが、陰陽五行では北・水を示すカラーで、必ずしも不吉とは限らない。
真っ二つに割れて転がっている鬼頭観音像は、赤・紫・白・黄・緑の五色布を、一センチ幅に切ったもので大量に覆われている。このうち緑が青、紫が黒だ。
「……そ、うそ、うそ、うそ!! ……どして……ねえ、そんな……なあっ」
ヒョウが肺と心臓をクシャクシャに握りつぶされたような声を上げた。スマホを切って、すがりつくような眼でりんを見る。
「ばっちゃが、さっき息を引き取った、て」
精いっぱい棒読みすれば嘘になると信じれば、こんな固く平板な声になるのか。次に言葉を発するのは、芝居を無理やり続けるようなものだ。
りんは喉の奥が粘りつくのを感じながら、口を動かした。
「……何でだ?」
「あははははは! 陰陽師は人を呪うとき、呪詛返しに備えて相手と自分、二つの墓を用意したと言うが、お婆さんは大丈夫かい?」
頭がまっ白になる、とはこのことだ。蕃が言うことを、りんもヒョウも理解に数秒を要した。今までと同じ明るく快活な調子のまま、罵詈雑言。
「どういうことだ、蕃」
「ああ、宵路。まだ気づかないかい? 君は呪詛されていたんだよ。そこの
怒りの言葉は暴露によって留められた。
それがりんに一抹の冷静さを取り戻せ、ヒョウの様子をうかがわせる。少女は震えることもできず凍りついて色を無くし、血が通わない水死体のように見えた。
感情も振り切れれば、死者の無情と近くなるものらしい。
「私が、呪詛されていた……?」
宵路は宵路で、突如知らされた事実をすぐには吞みこめないようだった。
「君が夜道で出遭った怪異も、カフェテリアの一件も、すべてかの
「私が、邪眼持ちだから」
傷のように口を開き、宵路は黙りこむ。彼がこれまで、りんやヒョウに対して抱いた親しみの糸が、ふっつりと切れて失われていくのが見て取れようだ。
「しかも命を落としたということは、相当強力に呪詛していたと見える。満願成就の暁には、最低でも失明は免れなかっただろうね」
くか、くか、くか、と笑う声は不協和音を奏で、ひどく耳障りだ。
「……
ゆらりと、ヒョウは中指と人差し指をそろえて立てた。眼差しを剣呑に光らせ、ナイフでも突きつけるように。
「ひをととなせ、ふをいぬにまかせ、みをとくむすび、よはふって、いとむより、なとやをうめ。すなわち、ここのはひにして、とおは無なり。
縦に四条、横に四条、八つのマス目を描いて最後に真ん中を突く。祖母直伝の九字切りだ。伸びきったヒョウの腕の先で、蕃は涼しい顔をしている。
「ゲーテ、ファウストに出てくる魔女の九九かな。それで?」
りんは何度か、ヒョウがこの口上で霊的なものを退けたところを見てきた。だが生きた人間に使ったのは、これが初めてだ。ハツネだって使うなと戒めたに違いない。
そもそも霊力は神仏からの借り物であって、私利私欲で使うものではないと言う。
「勘違いすなや。オレは式を打ったんでも呪ったんでもない、読んだんや」
筆先に任せて神託を受け取るのではなく、自ら霊感を
「コイツは、人間やない! 死人の皮をかぶったバケもんが!」
神の花嫁、生きた供物であるヒョウは、その運命から抗うため女の格好をしない。その彼女が自ら神に力を借りることは、寿命を差し出すに等しかった。
そして蕃が人間ではないとは、どういうことか。今までずっと怪異と行動を共にしていたのか、それともここに現れた彼が偽物なのか、りんは混乱した。
「ちょ、待て待て、てんで分かんねえよ!」
「変な感じはあったんや。何かあるけど、何とは分からへん、妙な感じ。それが、今朝兄さんを読んだ時の、邪眼の話を避ける時とよう似とった」
だが当の蕃は動揺を見せず、宵路もボンヤリとした顔のまま突っ立っている。
「コイツは〝蕃雨太郎〟本人ちゃう。かつて生きていた人間の存在、そっくりそのまま成り代わって……世界に、蕃雨太郎がまだ生きている、と思わせとる」
「おお、文句のつけようのない答えだ、〝
びくり、とヒョウの肩が大きく跳ねた。この男――もはや性別が何かすらも怪しいが――は、目の前にいるのが神の花嫁であることさえ知っている。
「でもこれは本人の同意を取っているから、奪ったように言われるのは残念至極だな。悪魔の取り引きじゃあるまいし。これでも僕は、神さまだったんだから」
じゃり、と『蕃』は砕けた石像の破片を踏みにじり、石段の下へ蹴り落とした。ちぎれた五色布の帯が、はらはらと木漏れ日の中を舞う。
気づけば、木立の中に青い影だけでなく、赤い影と黒い影がわらわらと群がっていた。赤、青、黒、誰かが歪めた疱瘡送りの御幣と同じ色。
りんの脳裏に、図書館で調べた知識がふとひらめいた。疱瘡送りにおいて、桟俵に供える御幣は疱瘡神を表現したものと考えられる。
疱瘡神、方相氏、ホーソー神……あの影たちは、おそらく疱瘡神の化身だ。
「蕃、てめぇが鬼頭観音か!」
「言っていなかったかい? 知らなかったかい? もう遅い、愚か者!」
『蕃』はヒョウの腕をつかむと、石段へ投げ落とした。中学生の少女が成人男性の力にかなうわけもなく、ボールのように転がっていく。
「なんぢは
思わずヒョウに手を伸ばしたため、りんは背中を無防備にさらしてしまった。『蕃』が服をつかんで、抵抗できない力で引っ張っていく。
靴の裏が地面を離れ、虚しく宙でもがいた。境内へ連れて行かれて、このままでは拝殿の残骸にぶつかると思った瞬間、世界が暗転する。
「クッソ、痛ぇな……」
りんの眼が暗さに慣れると、上から何人もの男女が落ちてきた。
と思えば、それは首にくくりつけられた縄で宙づりにされ、ぶらんぶらんと間抜けに揺れる。まさか、と戦慄したが予想通り、
あの夜、作り物の心霊スポットに集い、肝試しの末に命を落とした四人。
ひゅっと空気が流れ、縄がりんの首にくい込んだ。一瞬早く彼女は両手の指を間に挟んだが、体が吊り上げられ体重が載せられる。
喉がぐぅっと鳴り、りんはえずいた。鼻先から顔がじくじくと脈打ち、ツンとしびれる冷たさが広がる。流れを阻害された血の悲鳴だ。
あの夜、自ら首を吊った時はほとんど無意識で、現実感がなかった。だが今度は意識が
縄が持つ指ほどの太さに力が集中していた。首の血管、気管、筋肉、その奥の頸椎、どれを取っても逃げ場がない。足はもう、つま先まで地面の感触がなかった。
(やべえ、じわじわ絞め殺されちまう……!)
首吊りは、足や尻が地に着いた状態でも成立しうる。そんな知識がなくとも、生存本能が全開でアラートを鳴らす、差し迫った死の予感と苦痛。
縄の凹凸が肌をこすり、骨と近い指にとってはヤスリも同然だ。もっと付け根まで挟めれば楽だったのだろうが、どれも第二関節どまり。
八本の指でりんは縄を阻み、自分の体重を支えねばならなかった。平均身長よりずっと高い体は重さもそれ相応で、指の筋肉は並とそれほど変わらない。
喉に爪を立てる要領で縄を離そうと試みるが、りんの頭はすでにぼやけ始めていた。脳の酸素が不足して、考えがまとまらず溶け消える。
脱出の手立てもないまま、りんは死にたくないともがくしかなかった。
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