六、光の画(え)は真を写すか
「フィルムケースか、懐かしいな」
半透明の白い円筒体を目にして、
室内に差す光は、茜の気配を帯びようとしている。
「確か、除霊法のプランBだったね」
りんが来る直前、
ケースについては、宵路も幼稚園や小学校で、工作に使ったような記憶がある。しかし、蕃が持ってきたカメラは戦前日本から出てきたような骨董品だ。
「貴重品だぞ。フィルムを使い切らないと現像できなかったり、入れ方を間違えると使えなくなったり、現像された写真にネガがついてきたり。まあそれは些末だ」
「二つ目は重要だと思うのだけど」
「後でレクチャーするよ。まずは基本の使い方……さ、レンズを覗きこんで、〝アレ〟はまだいるんだろう? 見つけたら、シャッターをどうぞ」
レンズ越しに世界を見ると、思ったよりも視界が狭められて不安になる。その代わり、被写体に集中しやすくなった。
「本当に? 撮ってしまっても?」
「理屈は後で説明するから、やってしまってくれ」
見据えるのは視界の隅、いつも白くちらつくあの影。幼児がクレヨンで描いた落書きを思わせる、子供のような姿をした何か――呪いだ。
(確かに、そこに居る)
存在感を〝掴ん〟で、シャッターを切る。ストロボがはじけて、室内を光が満たす。真っ白な閃光が一瞬、宵路と蕃の影を焼きつけたが、呪いに影はない。
「――消えた」
光が収まった視界に、もう呪いの姿はなかった。宵路はカメラを下ろして辺りを見回すが、何の変哲もない自分の部屋だ。
「理屈を説明してくれるんだよな」
「いま君が撮ったものは写し身、分身だ。それを盾にされたら、向こうも襲いづらいだろ? と言っても長くは保たない、やがては破られる薄い壁だけど」
類感呪術や形代、身代わりという語を交えながら、蕃は説明した。
「〝見てしまえば、見つかる〟なら、これは盗撮という解釈でいいのかい」
「だと思ってくれたまえ。かくて君は呪いの分身を人質に取り、無体を働けばお前自身も無事では済まないぞ、と脅す形で当面の安全を確保した」
「その後は?」
「大丈夫、特に悪化はしない。君はアレを見たのではなく、たまたま写してしまっただけなんだから。カメラは置いておいてもいいが、写真は身につけておきたまえ」
「そうか……ありがとう、蕃」
宵路は改めて、しげしげとカメラをためつすがめつ、観察した。
ともあれこれで、対抗手段が出来たというわけだ。ここの所ずっと張っていた気持ちがふっと緩むと、軽口を叩く余裕も出てくる。
「今気づいたけど、幽霊をカメラで撮って進めるホラーゲームなかったか」
「ああ、艶やかなレディで売り出している。撮影してもポイントとか入らないぞ」
幽霊を写真に撮れば、出来上がるのは心霊写真だ。それは本来、撮影者にも、被写体にも不吉な災いを運んだものだった。さきほど言及したホラーゲームといい、いつから幽霊は写真で封印できるものになったのか。あのゲームが最初か?
だるさではなく、リラックスした気分でソファに身を沈めるのは、久しぶりの気がした。晴れ晴れとした気持ちで、宵路は柔らかなクッションに体重をあずける。
体調が悪くて横になっていた時は、時間が止まっているようだった。けれど、世界は変わらず移ろっていく。ようやく自分が行動を移す番だ。
◆
葬儀から時間が開いたこと、しばらく連絡がなかったことなどを謝ったが、向こうも特に気にはしていないらしい。むしろ、体調のことを気遣われてしまった。
「しかし、私から話せることなんて、ほとんどないんです」
それでも、という母親にできる限りの説明はしたが、果たして彼女の中で、娘の件について何かしらの整理はついただろうか。
つくわけがない。つくはずが、ない。
これが本当に超常的な呪いか何かの仕業だろうが、人間の仕業だろうが、娘が死んだという不幸を――それもあの日、あの場所に居合わせてしまった、という単なる「運の悪さ」を飲み下すには、何年も。あるいは、一生かかるかもしれない。
誰かにとって、意味と重みを持った命が失われるとは、そういうことだ。日々の営為に連なる人物、血と息の通った人生の片鱗が抜き取られるとは。今も変わらず過ごしている」という可能性が絶たれてしまうことだ。
生きている間、相手にも別の人生があるという、当たり前のバックグラウンドが潰されて、彼我がときおり交わる小さな瞬間も消える。
あの世や死後の世界と称されるものは、その耐えがたい不在に対する否定なのだろう。それでも、死者は「この世」にはいないのだ、という絶対的な隔絶があった。
紫藤恵生に何が起きたか、宵路はショッキングな表現やオカルトな部分は差し控えて母親に伝えた。母親は生き残った自分を逆恨みするなり、「集団自殺に巻きこんだくせに生き残った」と悪し様に罵ることもできるだろうに、そうしない。
ただ淡々と、宵路から聞けるだけの話を聞いて、確認した。ヒステリーを起こしても仕方がない、出来ることを粛々とやるだけだ、という態度が印象深かった。
人によっては、恵生の母親を冷たいと評するのかもしれない。だが、宵路から見れば、彼女はしなやかで柔軟な心の持ち主だった。
夫を失い、女手一つで育て上げた娘もまた失い、相応に悲嘆しながら、倒れることなく自分の足で大地を踏みしめ、立っている。強い人なのだろう。
(私のような臆病者とは、大違いだ)
恵生の生前、彼女の母親とは会ったことがなかった。黒鳥りんとも、肝試しの夜が初対面で、最初のころに抱いた苦手意識がまだ消えない。
どちらも悪い人間ではないことは分かっている。だからこそ、宵路自身の弱さや卑怯さがコントラストでくっきり浮かび上がって、身が縮まる思いがした。
ちっぽけで、くだらない。知り合いの死体を前にして、観察の機会を得て喜ぶような、最低最悪の人間。だから、分かっている。
呪いになど目をつけられて、当然だ。
◆
人は見られる、という事実に
目は心の窓と言うように、人の感情を物語ると言うが、実際はどうか。
それは自己を他者が認知したというサインであり、その上で、窓の向こうをこちらがうかがい知ることは出来ない。善意か、好意か、無視か、害意か。
その窓は照準かもしれないのだ。
だから、具象化された目のマークがなくとも、視線というものはそれだけで暴力だ。紫藤家を辞した宵路は、見られている気配に、ぞわっと背中が総毛立った。
ずっ……と重い、重い気配が地を引きずるように、ずぞぞぞぞ……と何者かの視線が射貫いてくる。それは今しがた後にした紫藤家からではない。
(振り返るな)その一念を何よりも心に決めた。
何度か角を曲がった住宅地。日が沈みかけ、どこから見られているともつかない。宵路は足取りが重くなるのを感じながら、何もない振りをして道を歩いた。
住宅地を抜けると、折良くコンビニがある。
これから日が没すれば、夜を焼きながら運営し、人も物も集まる賑やかなスポット。当然、ここに逃げこむことにした。
『都会の砂漠に癒やしの緑、サボマート♪』
安っぽい入店の電子音すら愛しい。缶コーヒーや消耗品、文具など細々した物をカゴに入れつつ、雑誌の立ち読みなどで時間を潰す。だが、どうも上手くない。
店員はぼんやりとしていて、宵路の居座りに関心を向けていないようだが、状況が改善しなさそうだと早々に察した。
(寒い、寒い――まるで冬の夜中だ)
会計を済ませて出れば、予想通り。まだ八月の末だというのに、冷え冷えと染み入る寒気がしてきた。足取りはさらに重く、靴が変わったかと錯覚しそうなほどだ。
悪寒は単なる思いこみではなく、両腕に鳥肌が立っている。
(……遠回りして帰ろう)
すでに、日は完全に没していた。紫藤家から自分のアパートまでは、遠すぎず近すぎずといった所か。それまでに視線の主を振り切らなくては。
以前受けた呪いは、蕃が応急処置をしてくれたはずだ。もうその効果が切れたのだろうか? それとも、違う何かが寄ってきた?
いずれにせよ、ぱっと頼れそうなのは寺社のたぐいだ。
いきなりお祓いをしてくださいと泣きつくのではなく、神聖なパワースポットを回っていれば、向こうも諦めるのではないか、と宵路は算段した。
スマホで地図アプリを立ち上げて、手近なところを選ぶ。一つ目は石段を登って境内に入ったが、特に何もない小さな所だ。二つ目もほぼ同じ。
三件目は神社。お賽銭を投げ入れ、助けてください、と祈って出たが。
はぁ、と吐いた息が白く曇っている。まだ32℃ある八月の夜にだ。さぞかし自分も、青ざめて死人のような顔色をしているに違いない。
振り切れそうな場所を試したが、ダメだった。実態のない相手に抗する手段となれば、他は蕃が渡してくれたカメラだが、あいにく自宅に置いてある。
その時、「空車」のランプを点灯させたタクシーが目に飛びこんできた。まさに天の救いだ、生きた人間と話せる、謎の視線も振り切れるかもしれない。
宵路はいつになく声を張り上げ、手を挙げたが、タクシーは停車せずそのまま走り去った。運がない。いや、ツキが落ちた――と言うべきかもしれない。
何かが憑いてるということは、そういうことだ。正体が何とはさておくとして。
宵路は夜の顔へ変わった街に、安息を求めて彷徨った。その足取り自体が、我ながら幽霊のようだなとも思う。
バス停にたどり着いたが、バスは停車してもドアを開くことすらせず、宵路を置いて走り出した。後には真冬のような寒さに取り残された彼一人。
開かない扉は行き止まりと同じだ。無力感と、自分は間違えてしまったという焦り。それでも叱咤して次へ行かなければ、自宅に帰ることもままならない。
次のバスを待とうかとバス停内を見回した時、宵路は近くに変わったものがあるのを見つけた。なぜそれを確認しようと思ったのか――今のような状態だからこそ、惹かれたのかもしれない。焼酎のカップと小さな花束。供え物だ。
つまりここで、誰かが亡くなって。その人は今も、置いて行かれた宵路のように、バスを待ってはそれに乗せられず、落胆の死後を送っているのかもしれない。
嫌になってその場から駆けだした。ここから駅前まで行けば、もっと人が多くて賑やかだし、ロータリーもある。駅構内のコンビニにまた入るのもいいだろう。
一人でいると、自分だけ世界から切り離されて、この世とは違うズレた場所へ引きずりこまれたような錯覚に陥る。それが何よりも良くない。
(気を強く持つんだ。呪いはきっと、まだ抑えこまれているに違いない)
背後から自分に目をつけた何かを感じながら、宵路はそう言い聞かせた。視線に貫かれるというのは、理屈ではなくあくまで感覚の話だ。
肌のうぶ毛がぶわっと立ち上がり、異物がこちらに狙いをつけているのを悟る。こちらが悟っていることを、相手も悟っている。その上で照準を外さない。
一挙手一投足を見て、何を思うのか。次にどうつなげようとしているのか。つけいる隙を狙っているのかもしれないし、ただ弄んでいるだけかもしれない。
前から来る人影が、どことなく見覚えがある気がした。街灯が照る所で、ちょうど行き当たる。いかつい顔つきに金髪、その背格好。
「
緊張が解けたあまり、名前を呼びかけて宵路は呑みこんだ。それは肝試しの夜、首を吊って死んだ一人なのだから。
実際、宵闇から現れたのは、益子
服装もあの夜と何一つ変わっていない。生前よくしていた仏頂面ですらない無表情で、宵路のことなど気がつかなかったように、横を通り過ぎ去って行った。
(今振り返ったら、私を見ている誰かを見てしまうのか?)
振り返って益子の姿を確認したい、その衝動を抑えて宵路は再び駆けだした。息をし、心臓を動かし、汗を流しても、体温は上がらない。ひたすら寒い。
冷凍庫にでも閉じこめられた気分だ。きっと、自分はもっと悪いものに囚われている。これは、宵路が自分一人で脱出できるようなものなのだろうか?
駅前につくと、空いているタクシーはほとんどなかった。あちこち寄り道している内に、帰宅ラッシュに入ってしまったらしい。
数少ない空車を見つけては、必死に手を振ってアピールするが、二台、三台と立て続けに無視された。いっそ夜が明けるまで外で過ごすか、それとも。
宵路はベンチに腰かけ、しばらく顔を覆った。
被害妄想に囚われて、滑稽な独り芝居を演じている気がする。そうだったらどんなに良いか、とも。このまま何食わぬ顔をして家に帰れば、いつも通りの日常にまた戻れるのではないか。だが、自分の日常などいつまでが平和な時だっただろう。
自分はあの雑木林の夜から、一歩も進んでいない。死者に囲まれて、自分の欲望を満たすために、死体を丹念に観察していた時から。
(……余計な抵抗は、諦めるべきか)
これ以上何か起きても、それは結局のところ、自分自身の業なのだ。そう思うと、あの白いちらつきも、呪いも、腑に落ちる。
恵生たち四人が命を落とした理由には届かないけれど。自分が呪われる心当たりは、いくらでもある。そういう罪深い人間が、
言ってみれば、病んでいるのだから。
アパートの方へ歩き出すと、
紫藤恵生に似た女性が、元気にカラオケから出てくるのを目撃した。死者たちは、今も当たり前のように、日常を続けているのだろうか。
では視線の主は、誰だ。
悪夢の中を彷徨うような時間の果て、宵路はアパートの近くまで来た。もう少しで安全圏に帰れる……安全圏、のはずだ。
だが背後にいる何かを、自宅に招き入れたくはない。自分の吐息一つ、一歩一歩靴からこぼれる砂粒一つ、宵路を見ている何かは捉えているに違いない。
肩を上下させて息を整える。眼だけ動かして周囲を見回す。ふと思いついて、宵路はスマホを取り出した。充電残量は十二分。
(もし、背後のやつを撮ったら、何が写るんだろう)
写りやすいよう、街灯の下に立った。スマホを掲げても、視線の存在感は続いている。シャッターを切ると、ぱちんと視線が消えた。
嘘のように肩が軽くなり、残暑の暑気が戻ってどっと汗が吹き出す。一〇キロの米袋を背負って冷凍庫をうろうろしていたが、荷物を降ろして庫内を出た、と言えばその激変ぶりが伝わるだろうか? 宵路は瞬間、自宅へ向かって走り出した。
扉を開けて飛びこめば、本当にいつもと変わらない我が家そのものだ。こんなに安らかにな気持ちになるのは、ここへ帰って始めてかもしれない。
買っておいたペットボトルのスポーツドリンクを開けて、思う存分あおる。宵路の白い喉が何度か上下し、疲労感をよく表していた。
「はぁ……」
大きく息を吐き、額の汗を拭う。それから、開きっぱなしのスマホに気がついた。先ほどの自撮りは、結局何が写っていたのだろう?
怖い物見たさと、見たくなさがぶつかり合ったが、今後の自衛を考えなければという宵路の意識の方が勝った。
画像を開き、宵路はまた目をしばたたかせる。不自然な現象としてではなく、生理反応として悪寒がこみ上げてきた。
最新の写真には、視線の主など写ってはいない。
満面の笑みを浮かべた宵路が独り、街灯の下で写っているだけだった。
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