第9話 疾走する稲光

 震える瞼に光が差し込む。


「もうお前を逃がさない。」


 彼女の手には、兵士が振りかざした短刀の刃先が握られていた。


 彼女の手からインクを握りつぶしたように流血する。それは脈打つようにドクドクと肘まで伝い、そこから生糸のようにぬらぬらと地面に垂れている。


 地面から盛り上がったように粘度のある血だまりができる。


 兵士のない腕を彼女は掴む。


「精神操作魔法…、しかもかけた術師が直接操作しているとはな。」


「やはり…、前線を退いたあなたでも力は衰えておりませんね。かなりの力を入れている筈なのですが…、いまでも私は短刀を引き抜けないでいる。」


 木床を踏み抜くほどの力をもってしても、短刀は微塵も動かない。


 兵士は未だ彼女に握られた短刀を引き抜けないでいる。


「お前が俺の何を知っているかは知らないが、そんなこと言ってる場合か?」


 彼女は兵士の腕を思いっきりぶん回し、兵士は弾丸のような勢いで吹き飛ばされた。その速度を保ったまま壁に衝突し、壁には穴が穿たれた。


 彼女は、尚も勢いを落とさずに、空間を支配したようにかつかつ音を鳴らす。そして流れるように、ぐったりと壁に横たわる兵士の胸倉を掴んだ。


「おい、操作しているお前に聞く。アザミを狙う理由はなんだ。」


 彼女の瞳は絶対零度の如きの冷めた目つきで、兵士の瞳を見据えていた。しかしそれは、彼女の内包する今にも噴火しそうな怒りをぐっと押し留めたように、殺気が漏れ出していた。


 兵士は、うなだれた首をうねるようにして持ち上げる。私を見るその瞳は、黒洞々たる暗闇が覗いていた。


「黒野薊くん。君は忌み子。そう、君はこの物語にはいてはいけない存在なんだよ。目をこすってもこすっても希望の光なんぞ見える筈が無い。君は消えゆくその希望に、何を思うだろうねぇ。」


 兵士は笑っていた。ナイフのように口角の吊り上がった、ゾッとする程の笑みであった。


「アイツに何があるっていうんだ、答えろ!」


 そう彼女の胸倉を掴む手が強まる。彼女から手から流れ出した血液が、兵士の布を通して滲む。


 しかし、兵士は彼女の問いに答えようとはせず、糸が切れたように気を失った。


「…くそがぁ!」

 

 彼女は握りこぶしで壁を叩いた。掌から流れ出した血液は、壁を伝った。


 それは彼女の拭いきれぬ悔しさを表現していた。


 放心する私。


 質量の持った圧迫感は、ぴたりと収まった。しかし、狼藉ろうぜきの跡はこれでもかと、今のありようを伝えた。突き抜ける静寂。そして、雨音のみが、時を奏でるようであった。


 


 それほど長くはない時間が経過した。


 気を失った兵士は、身動きが取れないようにベットに固定されている。


 兵士の肘の下から切断された腕は、きつく巻かれた包帯によって止血されている。そして、腕の関節は糸できつく縛られ、血流を抑えているようである。不幸中の幸いか、今もまだ意識を取り戻していない。


 その結果、ベットの空きはなくなってしまった。だからこうして、丸椅子に小さく縮こまっている。


 私は辺りを見回す。

 

 私の視野の中心に映るは、散々たる有様であった。兵士の豪脚によって踏み抜かれた木床の破片が、その戦闘のありようを惜しげもなく伝えるように、雑然ざつぜんとしている。吹き飛ばされた衝撃によって破壊された壁から覗く、途切れることのない雨。そこから突き抜ける地鳴りのような雨音が、室内に反響する。


 まるで色を失ったかのように、いやに陰鬱としている。


 そこにぽつりと床に座り込んでいる彼女。まるで地の底に深く沈んだように、酷く項垂れていた。


 その陰湿な空気が窮屈で、だから私は小石のように縮こまる他なかった。


 彼女は今の出来事について話した。


 あの兵士の意識は何者かによって支配されていた。私に襲い掛かってきたのはその所為であるという。その者が私たちを転移させた者かどうかは分からないが、関係はあるだろうとのことである。しかし、そのこと以外は分からない。


 そもその精神操作魔法はその体に印を刻むことで発現するらしいが、兵士の体にはそれは見当たらなかった。印を刻まない方法もあるにはあるのだが、ここまで高度な精神操作を可能にする者は数えるほどしかいない。


 そして当然、その者と関わりがあるのか聞かれたが、私自身もなぜ襲われたのか分らなかった。


「他の兵士も洗脳されている可能性がある。」


 彼女はそう言う。


 だから、一刻も早くここから離れるべきであった。しかし近くの町まで数十km。


 その過酷な状況を打開するためには、ダンテの助力が必須だと彼女は言うが…。


「アイツはどこに行きやがったんだよ!セシリアから護衛を頼まれているんじゃなかったのかよ!」


 護衛?もしかしてこうなることを予想していたのか。いいや、今はまだ判断できない。


 そういえば、あれ以来ダンテを見かけない。

 

「もしかしてこの状況を理解していて、わざと居ない訳じゃねぇよな…。」


 彼女の背中は何か考え事をしているように思える。

 

 彼女はセシリアとダンテとはどういった関係であるのだろうか。かなり深い関係があるように見えるが、実際どこまで親密かは分からない。


 丸椅子にうずくまりながら思案する。


 私の命を狙う理由は何なのか。


 あの時、そう、兵士が一直線に私へ向かった時、他の患者に目もくれず、一目散に私の方へ向かったのはなぜなのか。まるで私の命を狙うことが本来の目的であったかのように。


 そして、私の名前を知っていた理由。兵士を操作しているものは私の事を知っている。しかし、この世界に来て数日しか経っていないのにも関わらず、なぜ自分の名前を知っているのか。私の名前はグラフィにしか伝えていない筈である。


 もし彼女が兵士の目的に気付かず、送り出していたら。


 そして、短刀を防ぐのが一瞬でも遅れていたら。

 

 血液の代わりにハッカでも流れているのではと思うくらいゾッとする。

 

 部屋に穴が開いた所為でもあるだろうが、ただ、もしもと想像すると産毛が逆立つ程の恐怖が、首元を掠め取るのだ。


 あぁ、寒い。


「………うぷっ。」


 人ほどはある布のようなものが飛んできて、私の気道を塞いだ。


 石鹸と汗の匂い?

 

 なま暖かいくしゃくしゃになったそれを開く。


 しろい、服?

 

 この服は、どこかで…。


「どうした、何をそう俺の服をじろじを見てるんだ。」


 彼女に視線を移す。するとそこには、下着姿の彼女の姿があった。


「うわぁ!」


 それは神が利き手で彫刻した、肉体美であった。皮と筋肉の隙間には一片たりとも空気の入る余地はないほど張り付いている。それはまるで、はち切れんばかりの筋肉を抑えているようで、腕も足も、成人女性の2~3倍もあろうかと思わせる程である。そして、その筋肉の隆起が濃い影を作る。


 裂傷や火傷や凍傷だけではない、数えるのもうんざりする程の様々な種類の傷が、敷き詰められるようにあり、その痛々しい傷は彼女のを境遇を物語っていた。

 

 これほどもまでの筋肉が、そして傷が、あのワンピースに隠されていたのか。


「……。」

 

 思わず、惚けてしまった。


「おい、どうした。」


「あ、ああ、すいません。しかし、どうしてこれを私に?」


  未だ彼女の熱が残った服、その感覚が何だかむず痒く、持つ手がそわそわする。


「毛布は兵士の分で使い切ってしまった。俺は平気だから、これを使って冷えた体を温めてくれ。」


「……はい。」


 何だか恥ずかしい。背中を羽根でなぞられているようだ。


 私はおずおずとその服に包まった。


「しかし、兵士の皆さんはどこにいるのでしょうか。」


 寒さに身を悶えながらそう尋ねる。


「あぁ、俺も考えていた。あれほどの大きな音、この雨音で掻き消されるはずはないだろう。しかし、何の喧騒も聞こえない。まさかとは思うが、兵士全員が洗脳されたなんてことはないよな?」

 

 兵士全員の洗脳。ありえなくはないだろうが規模が多すぎる。


 洗脳する術師は一人のみを対象にすることが原則で、複数を対象にすると情報量に脳が耐えきれず、焼き切れてしまうらしい。複数を洗脳できる術師、それも精神そのものを直接洗脳できるものはいない。


 そして、これほどまでの洗脳は術師が近くで操作している可能性が高いそうだ。もし、20人ほどの兵士を術師一人一人が操作しているなら、その術師はどこにいるのか。


 謎が多すぎる。


 だから、直接兵士に会い洗脳されているか調べる他ない。


「ちょっと外に出て兵士の様子を確認してくる。」


「その恰好でですか?」


「だから脱いだんだろうが。どうせ雨に濡れるんだ。だから脱いでおいたほうが効率的だろう。」


「替えの服はないんですか。」


「あるが、大雨で干せなかったからな。別の服もあるにはあるが、この場所にはない。…なんだよ、俺の体を見て恥ずかしいのか?」


 そう彼女は意地の悪い笑みを浮かべる。


「そう心配するな。外を確認してくる。あまり時間はかからないだろうが、もし違和感を感じたら大声で叫べ。すぐ駆けつける。」


 そして彼女は扉からではなく、穴から潜って外へ出た。


 雨に打たれ哀愁の漂う、彼女の後ろ姿を眺める。

 

 突然、彼女は振り返った。



「失敗した。」

 


「アザミぃ、隠れろぉ!」



「えっ?」

 

 私のすぐ後ろで眩い光が弾けた。

 

 瞼を閉じても、たやすく通り抜ける程の閃光。

 

 辛うじて見えるその先には、ベットに横たわる兵士が閃光していた。

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