片翼のラプラスは蝶の夢を見る~私だけが知っている君の物語~

馬場 芥

序章

第1話 ノイズが走る

 意識の混濁から抜け出すと、そこには黒洞々こくとうとうたる暗闇が広がっていた。

 

 私の瞳をすがめさせんばかりの白光はっこうが走った――。まぶたの裏にはこびり付く光の残像が、視界の中心には名残惜しそうに白いもやが、目の内に濛々もうもうよどめく。しかしそれは蜻蛉かげろうの命ほどのはかない、刹那せつなであった。未だ視界の中心を覆う淡い光のつゆは拭い払ったように消え去り、空虚な隙間を暗闇が埋め尽くすのである。


 夢から目覚めたように意識も回復のきざしを見せようとした途端にそれは起こった。浅い眠り落ちたような浮遊感。すると突然ガクンと膝が抜け落ち、私の視界すらもそれに従い落ちてゆく。地面に手を打ち付けるも勢いは止まることを知らず、流れるように顔面を殴打した。

 

 その衝撃は茫漠ぼうばくたる考えを巡らせる私にとっては、結果的には良いものとなったかもしれない。額を切り裂くほどの鈍痛は、私の積み重なる疑問や得体の知れない不安を、一旦でも意識外へと追いやったのだから。頭の中身がカランと抜け落ちた。


 遅れて飛沫が小雨こさめのように頭上へと降り注ぐ。そして息が詰まる程の静寂さを取り戻した。


 毛先には玉のようなしずくが垂れる。濡れた髪がさも鉛ほどの重さを含むようにして無気力にうなだれた。鋼鉄こうてつが腐食するように心も徐々に衰弱していく感覚が、尺取虫しゃくとりむしのように顔をつたしずくが、実に生生しくうとましい。


 しばらくの静寂ののち、立ち上がるという日常的に行っている動作ができないことを意識の片隅に捉えた。しかし私はその原因を無意識に探ってしまい、違和感の正体を微かながらも認識してしまった。私にまとわりつく粘度のある液体か、それとも私から滲み出る汗か、てんで区別できないモノが首筋から弾け、さめざめとソプラノを奏でる。雫音しずねは少しの時間私の周りに余韻を残して、反響して帰ってくる頃には幽霊のむせび泣きとなって歪んだ波長を奏でた。


 今度はずるりと滑るようにして倒れた。床には摩擦と呼べるものがなかった。


 はぁはぁはぁ――


 私の想像が確証へと近づいているという現状に動悸どうきが激しくなる。


 心臓を両腕で締め上げるような圧迫感。心臓の拍動が脳まで響き、しまいには耳に膜が張り付いたようにぼぉんぼぉんと三半規管を揺らした。粟粒あわつぶの如き冷や汗が動揺と同期するように震える。私は乱れた呼吸から鬱屈うっくつとした空気を吐き出した。


 この恐怖から逃れるためには、違和感の正体に向き合う必要があった。


 私を覗き見る恐怖に抗う為に、抑制する己の感情に向き合う。しかし、決心を固めたつもりであったが、いざ行動に移そうとするも瞳孔どうこうが左右に揺れ、意図せず視線を逸らしてしまう。手振れの激しいカメラのような視界。それでも殊更ことさらに恐怖からくる好奇心という化け物は私を巧妙こうみょうにかどわかし、視線は原因の正体へと吸い込まれてしまうのだ。


「あぁ、足が……」


 嗚咽おえつとも嘆きとも形容しがたい嘆きが漏れる。熱い塊が喉仏で詰まる。


 モノクロの視界には右足のみが映っていなかった。



 私の右足は制服の上から消えたように欠損していた。この現実を認めたくないがために、私の右手が右太股へとすうっと伸びた。その行動は無意識の行動であった。指の腹で太股をなぞるが、依然として足が足であった頃のように痛みは微塵みじんも感じなかった。それでも、暗くて見えない切断面を触って確認する勇気はない。できても、その縁を擦るのみである。


 ない右足に手を潜らせるも、一滴も血液が手のひらに垂れることはなかった。


 足が欠損している状況で何故、出血していないのかを考える余裕は、今の私にはない。それでも、切断面が熱く燃えるような、ドクドクと血潮のマグマが吐き出されているような、そんなありもしない感覚におちいった。床に手を当てるも、ただ湿っているだけである。モノクロの視界ではそれが血か、それともただ湿っているだけなのか分からない。そして、それは私の血で湿っているのではないと自分に言い聞かせた。


 程なくして、私はこのまま停滞する訳にはいかなかったため、どこにあるか分からない出口へと、這って探し始めた。


 石材の地面は凍てつく程に冷たく、ほのかに湿っている。閉鎖的な空間のせいか、空気が重たく淀んでおり、鋭い冷気が我が身を裂いた。そして、生々しい、得体の知れない鼻を突く匂いで、顔を歪ませながら、微かに認識できる濃淡のシルエットを頼りに、ようやく壁へと行きついた。視覚が効かない以上、塵芥ちりあくたほどの光をもとに、右往左往に這い回るのではなく、壁を伝えばいつかは出口へと到達できるのではないかと考えたためである。


 ここが、何かしらの建造物であることはすぐに察しがついた。這っていれば、否が応でも、水平の段差や整えられた床など、明らかに自然界の構造ではないことを全身の感覚から感じ取れた。しかし、この空間がどういった構造をとっているのかは分からないが、建造物であるならば必ず扉なるものはあるはずなので、瓦礫がれきのような何かでつまずきながらも壁を伝って進んだ。


 それ程時間は経っていないだろうが、名も付けようのない様々な感情が時間を引き延ばした。 


 薄っすらと生糸きいとのような筋が壁に垂れていた。それは一筋の光であった。


 私は、不器用な足取りで、壁にもたれかかりながらその場で立ち上がった。そして、黒ずんだ指で、影を溶かす程の騒がしい光芒こうぼうをなぞった。そこは確かに、はっきりと窪んでいた。指をなぞっても、なぞっても窪みであった。間違いなく扉であった。


 私は、胸から溢れ出す希望と、しがみ付いて離さない不安を抱いて、体重を乗せながら扉を押した。まばゆい光の中を掻き分けながら。

 


 風化した荘厳な扉を開けると、雪崩のように、ぼうっと風が滑り込んできた。質量のある風が怒涛どとうの勢いで私を押し退け、流されるように尻餅を着いたが、そんな些細な事など眼中にはなかった。


 今にも零れ落ちそうな金色の露が、紫色の爆ぜた夜空に浮かぶ。その空に、針で無数の穴を開けたような星が一面に広がる。まるで、油絵の風景画をそのまま黒のキャンバスに書き写したような凄艶さであった。


 あの輝きは太陽の光ではなく、月の光であったのか。


 何と美しく、幻想的であろうか……。


 私の心も、視線も吸い込まれた。


 生温い夢想むそうに浸り、意識は微睡まどろみに沈む。そんな夢心地を覚ます声が聞こえた。


「おい君、私の声が聞こえるか!この姿はどうしたんだ!」


 瞬き程の、知覚できない程のほんの一瞬、目の前にいる女性が白い彼岸花を想像させ、もしや幽霊かと思った。そして、私はすでに死んでしまったのかと想像した。あの扉は天国と地獄の境目であり、目の前に立つ女性は天国への導き手であるかのようで、息を呑む程に圧巻した。


 月光が辺り一帯を満遍まんべんなく照らしているはずなのに、まるで声の主をライトアップするように煌々こうこうと輝く、そんな錯覚が見えて仕方がない。彼女の瞳でさえも輝いてみえる程に月光に照らされていた。


 目の前の女性は、この世の全ての美しさが霞む程の、そんな美貌を持ち、向日葵ように力強く屹立きつりつするかの如き立ち振る舞いだった。露玉つゆたまのような月と、太陽のような顔の双璧が、私の顔を覗き込んでいた。


 鬱蒼とした森の切れ目から漏れる光の粒が私を照らした。そしてようやく、私は私を見た


 私の服には大量の血液の濃淡を作っていた。あの空間の所為で鼻がいかれてしまったのだろう。冷ややかな風と共に鉄臭いにおいがむっと香った。


 血管が凍った。


 私の視線は無意識に、かつ一抹の不安に誘導されるように右足へ移動した。


 熟れた柘榴ざくろの果実が弾けたように、赤黒い果汁が滴り落ちる。


 私の意識が微睡まどろみに深く、深く沈んだ。

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