第2話 夜明け

 まぶたを開く。止まっていた時が緩やかに、そして徐々に速度を増すようにして、たゆみ世界が動き出す。

 


 私の意識は、幌馬車ほろばしゃが岩を砕く、その振動で、水面へと浮上した。


 そして、その様子はまるで、打ち上げられた魚のようであった。


 毛細血管の隅々まで、血液が濁流の如く流れ込み、心臓が押しつぶされるようだ。そして、肺胞の一つ一つを埋め尽くすように、無理やりに空気を肺に流し込む。喉がしゃくりを上げる。


 しかし、それは長くは続かず、波が去った後は何も起きていなかったかのように、私は平静さを取り戻すのであった。


 深い深い息を吐く。


 そして周りを見渡す。


 私は仰向けの状態で、毛羽立けばだ枯色かれいろの毛布に包まれていた。その毛布は朝焼けの、雨に濡れた土の匂いがした。


「ようやく目が覚めたみたいだな。大丈夫か。」


 艶気を含んだ低く、それでいて針金の一本筋が芯にピンッと張った声音が、私の耳を撫でる。私は、声の正体へと目線を向けた。

 


 和菓子の包み紙のような香りで、燦々さんさんたる美貌の向日葵が、私の眼前へと垂れていた。

 


 容姿は二十代前後であろうか。白髪はくはつの彼女は皮の軽鎧けいがいを身に纏っており、異質な風貌に思えるが、異様な程に着慣れていた。


 視線と視線が触れる。私の視線は居場所を探すように右へ左へ揺れ、ようやく落ち着ける場所へと据えられた。あれほどの美貌の前で、平然でいることはできなかった。



 底冷えする夜の下。車輪が砂を掻きながら進む。その揺れは粗々しくも心地よい。


 私の視線は、私に掛けられている毛布の模様へと据えられていた。毛布の毛先には砂の粒子が付着していた。私は、振動によって毛先が、朝霧の如くたなびく様子をなんとなしに眺めた。


 砂埃を含む渇いた空気が私の肌をそよいだ。唇が割れ、赤い糸のような細い筋が線を引きながら、つうっと口元に垂れた。古い金属製のスプーンのような味がした。


「喉は渇いていないか?」


 彼女は淡々と言った。


 西洋風の顔立ちでありながら、日本語が見事な程に流暢であった。


 私の出した声は声にならず、ただ息が掠れていた。喉に大きな熱塊ねっかいが蓋をしているかのようであり、唾を強く嚥下えんげしたが、乾いた喉に張り付き、ひりつくだけである。


 私は肯定の表現として頷いた。


 「ほら。」と先のすぼんだ瓜のような革製の水筒の先が、私の口元に添えられた。私は水筒を受け取って飲むつもりだったため、少々狼狽うろたえた。それでも、温かみのある手つきに、心のさざ波はすうっと引いた。


 私は頭を持ち上げ、水筒の先に口をつけた。そっと傾く。水が唇に触れた瞬間、久しぶりの感覚に少し驚いたが、唇の痺れが引くと、玉のような水が、何度も何度も喉を通った。その感覚が気持ちよかった。


「ありがとう、ございます。」


 言葉になった。


 すると、彼女は私の顔を一瞥し、再び視線を元あった場所に戻した。


 彼女は何処を見つめているのであろうか。


 幌馬車の、風の抜けるその先へと視線が伸びていた。私もなんとはなしにそこを眺めた。 


 幌馬車が風を内包し、膨らむようにバサバサとはためく。風の抜けた先は、灯りが煙の如くたなびき、ことごとく黒に染まる。


 朧気おぼろげな赤が闇へと消えゆくその先に、彼女はなにを思うのだろうか。


「あそこでなにがあった?」


 いつの間にか、彼女の視線は私へと移っていた。私の心を見通すような、強い眼差しであった。


 私はあそこで何をしていたのだろうか。分からない。


 何故、私にこのような事を聞くのかすら、分からない。


 彼女が誰なのかも。


「分かりません。」


 何もかもが分からなかった。


 だから聞いた。


「私の身に何が起こっているのでしょうか?」


 私は無意識に、この異様な事実を、心の奥底に押し止めていた。しかし、こうやって問題を浮上させたならば聞かなければならないだろう。


 教室の異変。あの暗闇。右足の消失。そして、この現状。


 彼女はなにを思ったのか、うつむきがちに、深く嘆息たんそくした。


「ごめんなさい…。今、詳しいことは言えない。状況が複雑すぎるんだ。何が正しいのかもわからない。」


 乱れる視線は、再び私へと向けられた。


「今言えることは、アパナ聖殿の不法侵入及び、降臨の儀式未遂により、君は王都へ連行されている。私は君の見張りだ。」


「貴方が何を仰っているのか、わかりません。」


 言葉は分かるが理解ができない。言葉が理解に行き着く途中で、見えない壁に遮断される。


「まぁ、そうだな。」


 不気味な程に会話が噛み合わない。不用意に言葉を言わないようにしているかのようである。


 風が止むが如き沈黙が、私と彼女の間を突き抜けた。


 そして、私はその沈黙を誤魔化すように、避けていた右足へと意識を向けた。足がない感覚というのは得も言われぬものであった。いつものように右足に力をいれるも、うんともすんとも言わない。「感覚がない」という感覚が、私を現実に引き戻した。


「夜はまだ長い。今はもう寝た方がいい。」


 蝋燭ろうそくの朧気な淡い光が、硝子がらすを通して彼女の頬をほの赤く照らす。蝋燭が薄黒い影を作り、ちろちろと揺れる。橙色だいだいいろの揺らめきは彼女の頬を撫でるようであった。


 今日起きた出来事、それは私の精神をむしばむほどの苦痛であり、私の心をいとも容易く塞ぎこませてしまった。もう、なにも考えたくない。


私はとろけるように眠った。



 朱色しゅいろが薄闇の空に滲む。その姿はまるで立ち上る炎のようである。


 噎せ返る程に土と青草の香る朝霧が、地上を乳白色に染める。幌馬車が雲海を掻くように進んでいる。


 夜が明け始めた頃であった。


 彼女のソプラノが、朝霧の中に冴え渡るのを目覚ましに、私は意識を手繰り寄せるように目覚めた。微睡まどろみが意識の片隅に漂いながらも、周りをうかがった。


 あぁ、寒い。


 彼女はぼんやりと木床の木目を、伏し目がちに見ていた。一睡もしていないよであった。夜明けの視界は鉛色であったため、彼女の姿は亡者のようで、嫌に冷たそうであった。蝋燭の灯は消えていた。


 あの美しい鼻歌は聞き間違いだったのだろうか。


 唐突に、彼女はこめかみに手を当て、奥歯を噛み締めるように苦悶くもんの表情をうかべた。


 彼女は私に気付いたようで、私を一瞥したが、何事もなかったように、視線を元あった場所に戻した。今度は彼女自身の太股を何とはなしに見ているようであった。表情は何事もなかったかのように平静であるが、こめかみに細く引かれた静脈が透ける程の美しい肌には、じわりと汗が滲み出ているような気がした。


 「喉が渇いたら飲んでください。」とでも言いたげな皮の水筒に手を伸ばした。晒した身に、きりきりと寒さが染みた。


 振るも以前に比べてあまり水が入っていないようであったことに違和感を覚えた。しかし、その違和感は行動にはならず、私はそれをすするように飲んだ。


「うぅ、ごほっ。」


 焼けるような痛みが喉を襲い、せ返る程のアルコール臭が鼻腔を満たす。アルコール類を飲んだことはないが、気の抜けたビールはこのような味がするのだろうか。内側の籠った熱が外側へと滲むように発汗する。


 お世辞にもおいしいとは言えない味だった。


 思わずむせた。


「あぁ、君は酒が苦手なようだな。ほら、水だ。」


 そう言うと彼女は、私の手の内にある水筒をとり、代わりの水筒を手渡した。


 以前飲んだ水筒とは違うものであったようだ。


 そして彼女は私の飲んだ水筒の内容物をコクコクと飲み、「ほぅ」と体中の熱気を吐息と共に漏らした。熱い吐息が、外気によって冷え、霧散した。


 何にとは言わないが、呆気に取られてしまった私の姿を尻目に見て、「飲まないのか?」と彼女は言った。


 私はそれに答えるように飲んだ。水はぬるかった。



「どうだ、体調は。」


 彼女は内容物の容量を確認するように、水筒を小刻みに揺らしながら尋ねる。


「う~ん、大丈夫…、はい大丈夫です。」


「なんだか歯切れが悪いな。」


 彼女は指先に付いた水滴を幌馬車の先へと飛ばし、それはすっと消えた。


「私の右足がどうなったのかが気になるのです。」


 体の不調はない。しかし、右足の様子の不安だけが腹の何処かに居座っているようで、悶々もんもんくすぶっている。ただ、腰を上げてそれを確認すればいいだけだ。だが、行動に意識を移そうとした途端、胃液が喉まで押し上げてきて、全身がその行動を拒絶するのだ。


「欠損していた、足が。」


 冴えた横顔は、蝋燭のように色を失っていた。


 私のわがままの所為で、彼女に嫌な事を言わせてしまったことに自責の念を感じた。そして、これほどまでに無残な現実に、息ができない程の苦痛を覚えた。


 そして、あの事実。


 瞼を閉じ、苦しみに耐えようとすと、瞼の裏がじくじくと痛む。


 ここまで現実に晒されたならば、事実を認識しなければ。


 右足は存在しない。


 しかし、いくつもの謎が残る。


 遺跡内で出血の感覚がなかったのは何故なのか。あの遺跡の湿り気の正体が、すべて私の右足から流れ出した血液だというのであれば、あの出血がない感覚というのは間違いだというのか。


 ならば、何故あれほどの出血をしながらも、出血があったと感じさせない程、私の体はこの心とは裏腹に、こうも元気であるのか。あの遺跡からの脱出に要した時間はかなりあったはずだ。医学に詳しくない者でも、まず助からないだろうと思わせる程の時間が。


 この湯水のように湧き出る謎は、ただの右足の欠損ではないと伝える。しかし、その感覚は現実を直視したくないという心の現れなのではとも思う。


 あぁ、その謎について考えてもらちが明かない。「私は出血していた」と断定する方が気が楽だ。


 気を失う前に、私の右足から血液が流れ出していることを、はっきりとこの目で見ていたのだから。


「あなたが出血を止めてくれたのですか?」


 彼女は驚いたように顔を向けた。


「えっと、君と会った時から出血は止まっていたぞ。」


「えっ…。」


 恐ろしいほどの違和感が、電流の如く背筋を襲う。心臓が早鐘を打つ。俯く首筋にふつふつと汗が滲む。


 どういうことだ。


「君の足の傷は塞がってはいなかった。それにも関わらず、奇妙な事に、出血はしていなかった。人体標本のようだったよ。」


 私は急いで上半身を持ち上げ、震える手で毛布を引っ剝ぐ。恐怖心に急かされて、あれほど重かった腰が、いとも簡単に。


 ただそこにあったのは、血染み一つない薄汚れた包帯に巻かれた右足の成れの果てであった。断面がどうなっているのかを確認しようがなかった。


 そして、服に付いた、あの時の痕跡がはっきりとそこにあった。


「何もしないのはまずいと思ってな、一応簡単な処置だが包帯を巻いておいた。」


 何も処置なしに出血が止まる筈がない。しかも人体標本のようとはいったいどういうことなのか。


 この体に付着した血液は出血したという現実を突きつける。しかし、彼女は傷口は塞がっていないが、出血もしていないと不思議なことを言う。


「では、私が見た血液は一体なんなのですか!」


 私は身を乗り出し、狼狽しながら問う。


 虚空に唸るは警笛のような風。張り詰めた空気を裂く。


 「あの発言は嘘だ、君をからかっただけだ。」そう言って欲しいと求めるような幼子のように、今にも綻びそうな淀んだ瞳を、彼女は真剣な眼差しで見返す。


「本当に何も分からないのか?」


 疑うようなその言葉が私の琴線に触れ、勃然と憤りが湧き上がる。


「分かるわけないじゃないですか!いつの間にか変な所にいて、そしたら足もなくなっているし。体も血まみれで、今は変な場所に連れていかれようとしているんですよ⁉どうやって説明しろというのですか!」


 眩暈がする程に掻き乱れた精神が、怒りを助長させる。


 私は息を巻きながら、彼女を問い詰める。彼女は俯く。


「あぁ、そうだな。君を疑うようですまなかった。」


 そう彼女は申し訳なさそうに詫びた。


 その縮こまった体を見て、怒りに身を任せた私は、私の醜い姿にハッとした。そして、胃を掻き混ぜたような罪悪感に圧し潰されそうになる。


「すっ、すいませんでした。」


「いや、いい。本当に君は被害者なんだな。あぁ、そうか。そうなんだな。」


 彼女の言葉には明らかな困惑が感じ取れた。


「しかし、君にこの情報は、今は伝えられない。あやふやな情報は君を困惑させるだろう。」


「けど…。私だけがそれを知らないなんて、なんだか疎外されているように感じるのです。」


「君の気持もわかるが…。すまない。できないんだ。」


 私の身の周りで起こっている惨劇を、私は何も知らない。その疎外感がどれだけ不安にさせるのかを彼女は知っているのだろうか。


 せめて、あの謎だけでいいから、解決したい。


「あの血は何だったのかだけでいいので、教えてください。そのくらいの情報なら教えてくれるでしょう?」


「それは今じゃなくていいだろう。」


「何故こうもあやふやにするのですか?これほど重大なことが起こっているのですか?」


 そういうと、観念したのか。


「君にとってつらい話になるがいいか?」


 そう、私に問う。


 これ以上聞いて欲しくないように。


「足がなくなった以上の辛いことがありますか。」


「ある。」


 彼女は、はっきりとした口調で答える。


「それでもいいなら話をする。」


「お願いします。」


 本当はあの血の正体を無意識では知っているのだ。彼女の息遣い、しぐさ、抑揚か

ら、彼女が告げるであろう最悪の事実を。


 私は知らなくてはならない。その事実が私の想像通りだとしても。


「あの聖殿には、君の服装に似た死体が複数あった。多分だが、君に付着した血液は彼らのものだろう。」


 あぁ、やはりそうか。


「私からも質問していいか。」


 そして、彼女が次に告げた最悪の事実は、私が想像していなかったものであった。



「あの聖殿にいた魔獣からどうやって逃げ出したんだ。」

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