第24話 仁義なき女どもの戦い

 それからというもの、グラフィは所在なげに黙り込んだまま頬に手をやり考えるふりをした。幌馬車の荷台には再び、沈黙が重くのしかかる。私は片膝を立てて安定しない右半身は彼女に寄りかかるようにして座っていた。大抵は両膝を抱えて座るのだが、今ではこの姿勢の方がとりわけなじみがよかった。


 膝頭にきちんと収まる手の甲、そこにほんのりと透いている静脈の一点を、私はひたすらに凝視していた。骨組みの軋みや、寂寞たる森の騒めきは決して閑かだとはいえないのだろうが、会話の途切れた荷台では、それは余りにも閑寂とし過ぎている。雄大な自然の息づかいが心の内に浸透するありさまを嗜むといった、一般的な高校生とは趣味嗜好が異なる私でも、グラフィとレイニーの隙間に吹きすさぶ沈黙が永遠に感じられてたまらなかった。


 ダンテはというと、二人の妙な距離感に毛ほどの関心がないといった居住まいであった。顔半分をマフラーに埋めたまま、ただぼんやりと天井を眺めている彼を、私は薄目で一瞥をくれた。


 彼と同じように私も無関係を装えば、彼女らのわだかまりは自然と解消されるだろうという考えが頭をよぎるも、尤もらしい理由を付けて面倒ごとに関わろうとしない性分が、まるで自分の冷淡さを手に取って冷静に観察しているように思えた。


「レイニーさんってどんな魔法を使えるのでしょうか…、ね?」


 奇妙な間を取りながら顔色を窺うようにして、レイニーにおそるおそる尋ねた。すると突然、彼女の背中がびくりと跳ねた。聞こえているはずの彼女は黙殺していた。


 これまで私は、険悪な仲を諫める役回りに転じたことがなかった。いかんせん宥める際の定石と呼ばれるものに疎い私は、媚びるみたくちらちらと流し目を送る他なかった。視線の先にいる彼女はというと、背中に眼はついていないはずだが、取ってつけたような私の視線を触発されたのか、喘ぎにも似た息をむらむらと弾ませていた。肩で息を切らしては外気に触れた途端に白く染まる。幌馬車の感性に従いながら芳しい香りと共に荷台へ運ばれた。そうかと思えば、私の顔にぶつかって虚しく霧散した。しばらく唖然としていた私はハッと状況を理解していき、すると徐々に心も体も委縮してしまった。


「あいつには影を液状化させて潜伏できる能力がある」


 まるで余計なお世話だといわんばかりの溜息を漏らたグラフィは、レイニーの代わりにそう答えた。私は膝頭に埋めていた顔の目元だけを覗かせた。しょげていた。


「それも魔法なんですか?」


「いや、俺もあんまり詳しくは知らないんだ。魔法というよりは体質なんだろうが、影を液状化させる原理がてんで理解できないから俺からはこれ以上いいようがない。」

 

 突然私の後ろからぬっと顔を現したり、そうかと思えば忽然と消えたりで彼女のことがいまいち掴めなかった。しかし、彼女の能力について説明を受けてから、私の前で見せたあの奇妙な行動のわけが判然とした。


「私の後ろに影があるから、レイニーさんはいつも、私の背後から現れていたのですか?」

  

 グラフィはパチンと指を鳴らした。おおむね正解のようであった。


「当たらずとも遠からずだ。だが、お前の影にずっと潜伏していたということになるな」


「うわぁ……」

 

 濡れたシャツに袖を通すみたいな気味の悪さが呟きとなって零れた。たとえ影だとしても、私の断りなしに勝手に潜られる行為には、そこはかとない生理的嫌悪が募る。


 かすかにこちらの方を向いていた彼女の耳がひくひくと動いた。そして、いまいち表情が読めずにふわふわしていた彼女は、どこか興奮ぎみだった揺れをぴたりと止めた。辛うじて見える彼女の横顔を覗くと、すっかり表情が抜け落ちている。一点を欠いた瞳には何も映っておらず、ぶつぶつと呟く仕草だけが月あかりに照らされ浮かび上がる。どこか冷たい感じのする容姿すらも消え去ったようで、それが恐ろしく不気味に思えた。


 私の体が突然、前方へ吹き飛ばされた。それと同時に幌馬車がけたたましい音を立てながら揺れる。荷台から見える林影がすさまじい速度で後方へ流れていった。私は唐突な事態に狼狽えていると、レイニーは素早くこちらへ振り返った。


「なぜあなたは根も葉もないことをいって、私を貶めようとするんですか!」

 

 彼女は虚を衝かれた人がよくするように平然とした態度を保とうとしていたが、跳ね上がる声の調子を抑えきれない居住まいや、しなやかな手首の下に走る静脈の蒼さが、狼狽していることを雄弁に語っていた。グラフィはこともなさげに返答する。


「だってそうじゃないか。そもそも影ってのはな、いつも同じ方向を向いているわけじゃないんだぜ。なのになんでお前はアザミの後ろにばかりついて回るんだよ」


「それは護衛するために必要だからで……」


 最初は語勢を荒らげていた彼女は、グラフィの至極ごもっともな正論にたじろいでいる。上辺だけの態度もその鳴りを潜め、言葉尻を尻すぼみしてしまうくらいには意気消沈としてしまっていた。しかし未だに彼女の瞳には憤然たる蒼白い炎を滾らせている。まるで月光と呼応するかのように冴えた輝きを放ち始める瞳孔。そんなのお構いなしにとグラフィは厳しく非難する。


「幼女趣味があるかのようにアザミをじろじろ見降ろしていたよなぁ。その時、俺は見たんだ。お前がアザミに対して下卑た笑みを浮かべていたところを。あの表情は護衛するとき必要だっていうのか?俺にそういう趣味はないが……。世界ってのは俺が思っている以上に広いんだな」


 グラフィは明らかに舐め腐った態度で腕を組みながら苦笑を浮かべていた。したり顔でうんうんと頷いている。レイニーはむっとした表情で彼女を睨み据えていた。そして捨て台詞といわんばかりにぽつりと呟いた。

 

「行き遅れ年増ゴリラ……」


 背もたれに堂々とふんぞり返るといった余裕綽々な態度を一変させ、彼女の憤怒が熱として感じられるくらいには濛々たる熱気をこれでもかとみなぎらせている。不安げに視線を行き来させていると、彼女が拳を叩き落した音で、私の心臓が跳ね上がった。


「てめぇぶっ殺してやる!」


 にやにやと斜に構えていたダンテも、ただならない気配を感じ取って、今にも飛びつかんとばかりに猛り狂う野獣を、かじりつくように抑え込んでいた。中央に居座る私はというと、彼に下敷きにされて呼吸ができずにいた。呼吸の代わりにふっと爽やかな香りがした。


 幌馬車が揺れた。またかと思ったが今回ばかりは常軌を逸していた。前方にすさまじい衝撃が走る。揺れが収まった後、何が起こったのかと呆然としていた。ダンテが覆い被さっていたため荷台の外へ投げ出されずに済んだが、もし吹き飛ばされていたらと思うと悪寒が走る。馬のいななく音のみが森の奥へ残響した。まるで深い穴に落ちたみたいに辺りがしんと静まる。ランタンの揺れる音と、心臓の音のみが耳が際立って聞こえた。そこでようやく、幌馬車の走行が停止したのだということを悟った。

 

「あぁ、リュンヌ!」


 彼女は幌馬車から降りてリュンヌと呼ばれた馬の元へ駆け寄っていった。そして忽然とレイニーの悲鳴が尾を引きながら森の奥へ消えた。荷台の雰囲気が森の樹木と同化するように、緊張が辺りにびっしりと立ち込めていく。グラフィは荷台の後方から飛び降りる。早馬の如く逸る気持ちが体全体に広がり、私は慌てながら松葉づえを掴もうとした。するとたちまち、ダンテの右手がそれを制した。


「今は彼女らに任せて僕らは待ちましょう」


 彼の瞳には私の恐怖を理解する色があった。それほど暖かくない右手が、私の手の甲を優しく握った。募る不安は徐々にその姿を消していく。私は今まで幌馬車が進んでいた道に視線を向けた。そこには手を伸ばすとたちまち指先が飲み込まれてしまいそうなほどの深い森が広がり、目を凝らそうにも暗闇があるばかりである。鼓膜に残るのは自分の心臓の鼓動とダンテの心地よい呼吸音だけ。妙な打ち方をする鼓動をどうにかして落ち着けようと、胸を手のひらで押さえながら彼女らの帰りを待ち続けた。


 しばらく経ってレイニーが暗闇から姿を現した。頭が混乱していて切り出す言葉に戸惑っていると、彼女は否応なしにこちらへ手招きをした。そして再び、暗闇へ溶けるように姿を消した。


 どうしたものかとお互い見つめ合っていると、「よく分りませんがとりあえず行ってみましょうか」という彼の助言で、私は恐怖を隅へ追いやるように拳を握った。そうして再び、松葉づえを手に彼の補助を受けながら、久方ぶりの地上へと降り立った。


 幌馬車の前には二人が壁を作るように何かを覗き込んでいた。私は靴の裏を見せながらいつものようにつま先立ちをしてしまい、足元がふらついたのを彼に抱えられた。今度は首を伸ばしてレイニーの右肩から顔を出すと、彼女たちの目線の先には青年がいた。服は血で滲んでいる。ところが、まるで何ごともなかったかのようなスンとした表情であった。


 「あぁ、別に気にする必要はない。あの根暗変態聖職者がわき見運転をした所為で人を殺しそうになっただけだ」


 彼の姿に焦点を合わせると、頭部からは絶えず流血していた。頭の先から蚯蚓のようにくねくれと筋を引いて、革靴のつま先にまで這っていくような血液。腐葉土にたっぷりと血液が溢れ出している。しかしそんなことは露知らずといったふうに、彼はにこにこと笑みを浮かべていた。


 うっと鼻腔をそよぐ鉄分の香りに起因されるようにあの聖殿の中での記憶が甦り、私は杖を手放して膝を付いた。激しい吐き気が喉元まで込み上げてきたが、なんとか喉を嚥下させた。すると口元が酸っぱくなって目尻に涙が浮かぶ。ダンテが「大丈夫っすか」と手を差し伸べる。助けられてばかりの自分に嫌気が差した私は、「大丈夫です。私一人で立てます」と断って、松葉づえを使いながら誰の手も借りずに立ち上がった。


 私の様子を窺っていたグラフィに、大丈夫だという意思表示を頷きで示した。


 背広に身を包み佇む男は、胸に手を当てる所作をする。


「私の名前はラインハルト・ベン・フリードリヒ。王直属の従者でございます」

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