第17話 師匠と弟子

「久しぶりに師匠に会ってみたら、いやはや、若者をいじめる老害になっていたとは。いいや、その頑固さは昔からではありますかな。師匠の噂は耳に入っておりましたが、まぁ相変わらずのご様子で安心しました。」


 妙に威厳と落ち着きを加えたしわ枯れた声で、師匠と呼ばれる者を揶揄する。しかし懐古の情を思い浮かべるように、落ち着いていて威厳を感じられるその声音が、そっと弛んだ気がした。そしてすぐに、静かで品性のある調子に戻した。


 その男は鷹のように鋭い目つきで辺りを見渡す。


 突然の来訪者に、ここにいる誰もが身をすくませて動くことはなかった。

 

「この様子だと…、やはり歓迎されていないようですな。盗み聞きをするつもりはなかったのだが、お通夜みたいな雰囲気で入りにくかったのだよ。」

 

 その身なりはどれも気品が良い。この場には似つかない襟の高い黒のスーツ。外套は膝まで伸びている。まるで「物堅さ」が針金となってその背筋にピンと張っているように思える。


 そんな厳粛な雰囲気を携えた老人が、扉の向こうに立っていた。


 扉から差し込む白々とした光が、悠々と私の視界をかすめる。もともと部屋の中に光源はなく、辺りが薄暗かったからであろう。ほんの微かな光でもさえも、今の私には十分すぎる程の眩い光であった。


 瞳孔が収縮する。そして空気が凝固したような冷気の粒も、瞼の裏を刺すような光でさえも、扉が閉まることによっていともあっけなく終了を迎えた。


 ぼーっと瞼にちらつく名残の奥に、その者の姿がぼけて見える。


「これほどまでに寒いとは思いもやらなかった。だから私の背広がここまでよろけてしまったではないか。」


 そう言うと彼は服の裾を掴んで皺を伸ばす仕草を見せた。


「失礼ではあるが、すぐに退出するつもりなので、このままの姿でいさせてもらうよ。」


 ようやく不明瞭な視界も霧が晴れるように判然とした。


 短く切り揃えた白髪の男性が、気品ある佇まいでじっとグラフィを見据えていた。


 すると彼は硬い革靴を規則正しく木床に踏み立てて、まるで互いに惹かれ合う糸のように、グラフィの下へ近寄る。彼女に視線を縫い付けたまま。


 レイニーは私を守るように腕を広げる。


 私の前を通り過ぎんとする時、足を止めずに流し目で私を見た。


 互いに視線がぶつかる。


 それはこの世のものとは思えないガラス玉のような瞳。金色の色彩がその瞳の奥に弾けたような輝きが、柔らかな黒目の内に光って見えた。当然私はこのような目の色をした者を現実では見たことも聞いたこともない。


 しかしそれは現実世界の話であり、小説の中でなら別である。


 それはまるで、虎目石タイガーアイ


 まるで私の心を見通すかのように、金褐色と黒褐色が交じり合った瞳がこちらを覗き込んでいた。


「……。」


 彼は不意に視線を戻す。


 再び視線を彼女に据え置いたままに、眉間のしわをより一層深く寄せて。鷹の如き険しい目つきで進んでいく。彼の眉には決意の色を染めていた。


 渋みのあるスモーキーな香を凄然せいぜんたる空気に残したまま、グラフィの下まで近づいた。しかし、師匠と呼ばれた彼女―グラフィは驚嘆と憎悪を表情に染め上げたまま、彼を食い殺さんと睨み据えていた。


「こうやって参ったからには挨拶はしておかないと、そう思いましてな。」


 膝を折って軽く頭を下げる。


「あれから約30年も経ちましたか、師匠。」


「お前はずいぶん歳を取ったみてぇじゃねぇか、なぁオスカー!」


 何を思ったのか、彼は年相応のしわをより深めて、静かに薄笑いを浮かべた。


「お前はとっくの昔に破門にしたはずだ。だからお前に師匠と呼ばれる筋合いなんぞこれっぽちもありゃしない!」


 彼とは打って変わって、勢いよく椅子から身を乗り出して、雄々しい紫電の煌めきがパッと火花を散らした。彼を見据えた両目には、息を呑む程の獰猛どうもうさが濛々もうもうと黒目の内に淀めいていた。

 

 彼らの周りだけが異様な圧迫感を形成して、その一挙手一投足が冷徹なナイフになりえる程の空気が、この部屋中に充満していた。


 

 そして、そんな息も詰まる程の雰囲気をいとも簡単にぶち壊したのは、やはり彼であった。



「どこかで見たことあると思ったらぁ、医者も匙を投げた患者を華麗に治療して見せると言われている例の天才医師じゃぁないっすか!いやぁ、まさかグラフィさんのお弟子さんであったとは、驚きっすよ!」


 誰に言われる訳でもなく、彼は目の前の人物について教えてくれた。


「……はぁぁぁぁ。」


 グラフィは深い深いため息をつく。


 彼はまんざらでもなさそうに、その洒落た白髭をせわしなく撫でて「サインでもどうかな?」と言うのであった。


 グラフィはダンテをキッと一睨みする。


「お前はさぁ、空気ってのを読めねぇのかよ。お前を本気で殺してやろうかぁ、えぇ!」


 身を乗り出す彼女を宥めるように手で制す。


「いいえダンテさん。大丈夫ですよ。私も貴方の功績は聞いておりますので、そんなお方に私を知ってくださっているとは、嬉しい限りですよ。」

 

 彼は「しかし」と付け加える。


「まさか、新しく弟子を作っていらしたとは。」


「こいつは弟子でも何でもないし、お前を破門にして以来弟子なんぞ取っちゃいない…。」


 そう言うと彼女は剃刀のような鋭利な眼差しとは一転、どこか定まらない彼女の思いを反映したように、酷く瞳孔が動揺して、沼の底のように乱れて見えた。彼女の黒い瞳がどことなく霞んで見えるのは気のせいだろうか。


 グラフィらしくない。


 オスカーと呼ばれた彼とグラフィの間には、何か深い因縁があるのだろう。しかし、何があったとは言えない空気が辺りを充満していた。


「…こいつはレイニーが呼んだのか。」


 覇気のない言葉がレイニーを刺す。


「…いいえ、そのような連絡は聞いておりませんでした。」


 自分の不甲斐ない気持ちを表すように、レイニーは服の裾をぎゅっと握っている。


 オスカーは言う。


「セシリア騎士団長からの命令で参ったのですよ。」


「セシリアのやろう…。俺を嵌めやがったな。」


 彼は顎に手を当て、考える素振りをする。


「あらかた、”師匠が何らかの理由で同行しない”という状況を見越して、私をこの村に寄越したのでしょうな。それと、まぁ、仲直りのするための策略といった可能性も否めませんが…。」


「それはねぇな。」「それはないですな。」


 二人の声がそろった。


「じゃあお前は俺の代わりに患者を診てくれるっていうのか?」


「ええ、そのつもりです。ここまで酷い状況だとは思ってもいませんでしたが、やはり兵士を呼んでおいて正解でしたな。」


「おい、その兵士は洗脳されてないよな。」


「それはご心配なく。状況から察するにここにいた兵士たちは洗脳を施されて、暫く戦闘があったのち、それから師匠の回復魔法で洗脳解除をしたところでしょうか。事前に兵士たちには対魔の印を刻んでおきました。」


 異常なまでの用意周到さだ。状況判断能力と対応力、やはり彼女のなのであろう。そして彼女は「…あぁ、そうか分かった。」と複雑そうに呟いた。


 彼は真剣な瞳で彼女を見る。


「彼らと同行してください。あなたはそうするべきだ。」


「いいや断る。」


 彼がそういうや否や、彼女はすぐさま言い返した。


 そんな彼女の強情さを見たダンテは、しぼんだ風船のようにがっくりと肩を落とした。そして、やれやれとでも言いたげに手をひらひらさせてみせる。


「あーあ。本当に師匠は頑固ですねぇ。」


「お前は師匠呼びに便乗するなよ。」


 私はそんな彼女を静観する。


 いつになく強情な彼女の様子を見て思った。


 

 本当に彼女らしくない。


 

 診療所で私に見せた、この不可解な状況を知りたいという熱意はどこへ行ってしまのか。彼女の弟子がやって来たのだから、患者を誰が診るの問題は解決しているはずだ。彼女はただ、彼女とその弟子の因縁を盾に、自分の我が儘を貫こうとしているように思える。


 彼女はそれなりの覚悟を見せないと決して意見を変えない心の強い人だ。だから私も強気で彼女に向き合わないと折れてはくれない。この状況をただ静観していたって状況は変わらない。


 高鳴る心臓の鼓動に耳を傾け、ぐっと胸を握る。


 目を閉じ、深く嘆息する。肺に空気が送られるごとに、妙な圧迫感が血液に溶け出すような感覚が身体を巡った。


 うん、私はもう大丈夫だ。


 定まらない彼女の瞳、それを私は見据え、私は言う。


「私はグラフィさんについてきて欲しいです。」


 彼女は私に向かい合う。


 そして私は言葉を紡いだ。


「まだダンテさんやレイニーさんは、信用できません。それに比べてグラフィさんは誰よりも頼りになるし、それに、…今の私にはグラフィさんしか信用できる人はいないんです。」


「しかしなぁ。」


 彼女は言い淀む。まだ彼女を説得するには至っていない。ならばと私は意を決して、次の言葉を彼女に投げかける。


「グラフィさんは診療所で言っていたじゃないですか、『正しい状況を知りたい』って。私と一緒に来てくれたらそれが分かるかもしれないんですよ。しかも、医者だから患者の状況を知りたいって言ってたじゃないですか。それをその因縁ごときで台無しにするつもりなんですか?」

 

 皮肉にも似た疑問を彼女に問いかけた。いつになく弱弱しい彼女の瞳は急に色を得たような輝きを取り戻し、彼女は俯き考える素振りをみせる。


 やはり彼女は芯のある強い人だ。だからその信念が揺さぶられることを嫌うはず。


 そして最後に、決定打となる言葉を彼女に言い放った。


「私はあなたの患者なのです。医者であるなら私を助けて下さい。」


 その言葉に何か思う事があったのか、俯いていた顏がハッとこちらへ向けた。

 

 そしてまた苦悩するように顔をしかめる。そして暫く、うんうん唸っていると、突然席を立って、机に身を乗り出した。その際、机に手を打ち付けて空気を振動させる程の重い響きが部屋をこだました。


 それは彼女の覚悟を示す、喝采かっさいであった。

 

 ダンテは頬杖をつき、私を見ながらにやにやと笑っている。

 

「あぁ、そこまで言うならやってやるよ!お前らに同行してやる!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る